投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月23日(水)14時47分0秒
『撰要目録』は「夫れ当道の郢曲は、幼童の口にすさみ、万人の耳にさへぎるたぐひ、様々多しと雖も」で始まる序文の後に十巻・百曲の曲名と作詞・作曲家の名前等が記載されたリストが載り、最後に「正安三年八月上旬之比録之畢 沙弥明空」と記されて、これで一旦完結します。
その後、「いまは六そじのあまり」云々の序と『拾菓集』上下二巻・二十曲のリストが追加され、「嘉元四年三月下旬之比重加注畢」と記されます。
即ち、正安三年(1301)の原リスト成立の五年後、嘉元四年(1306)に追加がなされ、更に正和三年(1314)に再追加、文保三年(1319)に再々追加がなされて、結局、全体で四つの段階に区分されることになります。
この内、序が付されるのは第二段階までで、第二段階の序は、
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いまは六十路の余り、つれなき命の程、思知らざるべきにもあらねば、静かなる住ひに身を隠して、ひたすら仏の御名を頼むより外はと、万を思ひ捨て侍(り)しを、逃れ難う、此所彼所より、あながちに勧められしかば、なまじひにうけひき、上の目録にこそ漏れ侍(れ)ども、なほざりにて止まむも、しかすがなるべければ、重ねて記す。然かあれば、外の家の風に、吹(き)伝ふる言葉の花の匂(ひ)は、先づ先立ちて手折らまほしく、色にうつる数々も、多くこれを選び、拙きそともに、寂しき老木に残る言の葉は、かつは古り果てぬるも珍らしからず。冬枯の梢稀れに人に知られぬ隠家の、深き林に庵を占めし後に、拾ひ集むる業なれば、拾菓集と名づけ、巻を二つに分ちて上下と言へるなるべし。
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というものです。(岩波古典文学大系、p44)
第一段階の序に比べると、有力者の名前を『古今集』序の六歌仙になぞらえて並び立てるといった気負いもなく、「いまは六十路の余り」の心境を淡々と述べるといった趣になっていますね。
この冒頭の一文から、明空は1240年代半ばに生まれたのだろうという推測がなされている訳です。
さて、外村論文の続きです。(p356以下)
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ただ、この拾菓集の頃から、明空にはこれ以前と相違している行動のあることも注目させられる。すなわち、拾菓集を境に、弟子の養成に尽くしはじめている様子がうかがわれるのである。それは、この集の作詞・作曲の記載に珍しいものが出てきていることで察せられる。
比企助員がその一人で、例えば拾菓集下にある「蹴鞠」には「二条羽林作歟 助員調曲明空加取捨」の注記がみられる。作詞の二条羽林は早稲田本の朱注によれば、蹴鞠の家の飛鳥井雅孝とみられるが、それを助員が作曲し、その上、明空が手を入れ取捨を加えて完成させたものである。
こういう取捨の方法はこれまでに見られないことである。拾菓集以前には、明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲することはあった。概して、それぞれの内容に応じて、専門分野の人が作詞する場合が明空以外では多かったから、調曲の際に、詞章の取捨がまず行なわれて、節付けがされる必要があったのであろう。
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いったん、ここで切ります。
外村氏は第一段階の曲にもあった「明空成取捨調曲」を「明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲すること」と考えておられる訳ですね。
私は「曲だけの調整の意」に改説したばかりですが、早歌研究に一生を捧げた外村氏の説明を聞くと、再びグラついてしまいます。
ま、それはともかくとして「二条羽林」が誰かは諸説があったのですが、これも早大本により飛鳥井雅孝であることが確定しました。
飛鳥井雅孝は飛鳥井雅有の甥で、雅有の養子となって飛鳥井家を継いだ人ですね。
飛鳥井雅有(1241-1301)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masaari.html
飛鳥井雅孝(1281-1353)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masataka.html
蹴鞠の家に生まれた飛鳥井雅有は歌人としても著名で、京都と関東を頻繁に往来し、『春の深山路』なども書いた才人です。
その正室は金沢実時の娘なので、早歌の作者であってもおかしくない人ですが、雅有自身の曲は確認されていません。
ただ、「名取河恋」と「暁別」の作詞者「冷泉羽林」(二条為通)は雅有の娘を妻としているので、早歌の世界に近い人であったことは間違いないですね。
そして雅有が「洞院前大相国家」(洞院公守)や「花山院右幕下」(花山院家教)との接点となり、明空とは身分が隔絶したこの二人を早歌の世界に結び付けた可能性もありそうです。
ま、私自身は「白拍子三条」が仲介した可能性を疑っている訳ですが。
『撰要目録』は「夫れ当道の郢曲は、幼童の口にすさみ、万人の耳にさへぎるたぐひ、様々多しと雖も」で始まる序文の後に十巻・百曲の曲名と作詞・作曲家の名前等が記載されたリストが載り、最後に「正安三年八月上旬之比録之畢 沙弥明空」と記されて、これで一旦完結します。
その後、「いまは六そじのあまり」云々の序と『拾菓集』上下二巻・二十曲のリストが追加され、「嘉元四年三月下旬之比重加注畢」と記されます。
即ち、正安三年(1301)の原リスト成立の五年後、嘉元四年(1306)に追加がなされ、更に正和三年(1314)に再追加、文保三年(1319)に再々追加がなされて、結局、全体で四つの段階に区分されることになります。
この内、序が付されるのは第二段階までで、第二段階の序は、
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いまは六十路の余り、つれなき命の程、思知らざるべきにもあらねば、静かなる住ひに身を隠して、ひたすら仏の御名を頼むより外はと、万を思ひ捨て侍(り)しを、逃れ難う、此所彼所より、あながちに勧められしかば、なまじひにうけひき、上の目録にこそ漏れ侍(れ)ども、なほざりにて止まむも、しかすがなるべければ、重ねて記す。然かあれば、外の家の風に、吹(き)伝ふる言葉の花の匂(ひ)は、先づ先立ちて手折らまほしく、色にうつる数々も、多くこれを選び、拙きそともに、寂しき老木に残る言の葉は、かつは古り果てぬるも珍らしからず。冬枯の梢稀れに人に知られぬ隠家の、深き林に庵を占めし後に、拾ひ集むる業なれば、拾菓集と名づけ、巻を二つに分ちて上下と言へるなるべし。
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というものです。(岩波古典文学大系、p44)
第一段階の序に比べると、有力者の名前を『古今集』序の六歌仙になぞらえて並び立てるといった気負いもなく、「いまは六十路の余り」の心境を淡々と述べるといった趣になっていますね。
この冒頭の一文から、明空は1240年代半ばに生まれたのだろうという推測がなされている訳です。
さて、外村論文の続きです。(p356以下)
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ただ、この拾菓集の頃から、明空にはこれ以前と相違している行動のあることも注目させられる。すなわち、拾菓集を境に、弟子の養成に尽くしはじめている様子がうかがわれるのである。それは、この集の作詞・作曲の記載に珍しいものが出てきていることで察せられる。
比企助員がその一人で、例えば拾菓集下にある「蹴鞠」には「二条羽林作歟 助員調曲明空加取捨」の注記がみられる。作詞の二条羽林は早稲田本の朱注によれば、蹴鞠の家の飛鳥井雅孝とみられるが、それを助員が作曲し、その上、明空が手を入れ取捨を加えて完成させたものである。
こういう取捨の方法はこれまでに見られないことである。拾菓集以前には、明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲することはあった。概して、それぞれの内容に応じて、専門分野の人が作詞する場合が明空以外では多かったから、調曲の際に、詞章の取捨がまず行なわれて、節付けがされる必要があったのであろう。
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いったん、ここで切ります。
外村氏は第一段階の曲にもあった「明空成取捨調曲」を「明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲すること」と考えておられる訳ですね。
私は「曲だけの調整の意」に改説したばかりですが、早歌研究に一生を捧げた外村氏の説明を聞くと、再びグラついてしまいます。
ま、それはともかくとして「二条羽林」が誰かは諸説があったのですが、これも早大本により飛鳥井雅孝であることが確定しました。
飛鳥井雅孝は飛鳥井雅有の甥で、雅有の養子となって飛鳥井家を継いだ人ですね。
飛鳥井雅有(1241-1301)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masaari.html
飛鳥井雅孝(1281-1353)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masataka.html
蹴鞠の家に生まれた飛鳥井雅有は歌人としても著名で、京都と関東を頻繁に往来し、『春の深山路』なども書いた才人です。
その正室は金沢実時の娘なので、早歌の作者であってもおかしくない人ですが、雅有自身の曲は確認されていません。
ただ、「名取河恋」と「暁別」の作詞者「冷泉羽林」(二条為通)は雅有の娘を妻としているので、早歌の世界に近い人であったことは間違いないですね。
そして雅有が「洞院前大相国家」(洞院公守)や「花山院右幕下」(花山院家教)との接点となり、明空とは身分が隔絶したこの二人を早歌の世界に結び付けた可能性もありそうです。
ま、私自身は「白拍子三条」が仲介した可能性を疑っている訳ですが。