学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その6)

2022-03-27 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月27日(日)16時38分9秒

>筆綾丸さん
>戸部が何処を指すのか

戸部は民部省の唐名ですね。
「因州戸部二千石行時」についても外村氏の説明を紹介しておきます。(p57以下)

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   二 因州戸部二千石行時・附「永福寺勝景」「同砌并」

 次に因州戸部二千石行時について述べよう。この人の作品は「永福寺勝景」(玉林苑上)「同砌并」(同)の作曲をしている。前述の如くこの玉林苑は文保三年(一三一九)二月の撰集である。この時に因幡守の家の人で戸部即ち民部関係の官職の人、この条件に相応する人は誰であろうか。この頃、因州と呼ばれた一人は、工藤二階堂行政の系統の行佐である。しかもその子に民部丞になった行時があるので、この人ではないかと思われる。

 工藤二階堂系図(尊卑文脈)
     【略】

 行佐が因幡守になったのは文永九年(一二七二)七月廿一日で、建治三年(一二七七)二月十四日(尊卑分脈では三月)に出家、同六月五日に卒した(関東評定伝)。彼の家はこれ以来因州を冠して呼ばれていたらしい。行佐の弟行重の玄孫の一女子の肩書に「因幡三郎左衛門尉行清妻」と記されており、行清は行時の孫で、行佐以来因幡守になった人はこの家にいないから、彼以来こう呼ぶ習慣があったことが判る。
 二階堂家は鎌倉幕府の創業時代の行政以来、行光・行盛・行泰・行佐と代々文筆に秀でていて、特に三代将軍実朝の頃は行光の邸で将軍を招いて和歌・管弦等の遊宴が催されたことが吾妻鏡に見られ(建保元年十二月十九日)、鎌倉の御家人中では伝統文化の面で特に秀でた家の一つである。行光の息行盛、行光の弟行村等は北条泰時の評定衆設置に当って、中原・三善・大江と共に政務に通じた家柄の一として選ばれてその任に就き、後も代々この要職にあって鎌倉時代末期に及んでいる。行時は正安三年(一三〇一)八月廿四日出家し行勝と云った。正安三年十月に書かれたと思われる金沢貞顕の書状に、前民部少輔行時とあるのはこの人のことであるらしく、また元亨元年と考えられる他の一通には因州戸部禅門と出て来、この書状によると病気であった様子で、その後、円覚寺文書北条貞時十三年忌供養記に因幡民部大夫と出て来るのはその子行憲のことであろうが、当時の幕府及び北条氏関係の人々が殆ど列挙されている中に彼の名がないのはこの元亨三年(一三二三)には既に病没していたためではなかろうか。それはとにかく彼が金沢貞顕と特に近い関係にあったことがこれらの書状に於てうかがわれる。
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いったん、ここで切ります。
『尊卑文脈』で二階堂氏の系図を見ると、行政の子の行村・行光の代で隠岐流・信濃流に大きく分れ、その後、それぞれが複雑に分岐して行っており、鎌倉時代における二階堂氏の隆盛を窺うことができますね。

二階堂氏

行時の父・行佐は建治三年(1277)に没していますが、『尊卑分脈』によれば享年は四十一歳です。
ということは嘉禎三年(1237)生まれであり、仮に行時が父の二十五歳の時の子とすると弘長元年(1261)生まれで、正安三年(1301)の出家時には四十一歳となりますね。
「彼が金沢貞顕と特に近い関係」であったとしても、金沢貞顕は弘安元年(1278)生まれなので、貞顕よりは相当年上の人ですね。
さて、続きです。(p59)

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 彼が作曲したと考えられる作品の題材となった永福寺は源頼朝が奥州の藤原氏の中尊寺大長寿院を模して造営した二階堂と、その廻りに泉石の美を経営したので有名であり、この一族の家も近くにあったので、二階堂の名を冠している。又前述の行光の弟行村(山城判官)は二階堂の事を奉行するように命ぜられているので、単に近隣にあったという関係ばかりでなく、一族とこの寺とは、特別縁が深い様子で、その後も何かと密接な交渉があったのであろうと思われる。それに、行佐の弟の行重ではないかと思われる人物が琵琶の相伝を、一族の宗藤・知藤が笙の相承をうけている事等を考え合せ、題材の面、環境及び交遊の面から二階堂行時は、この早歌の作者として、相応しい人物と考えられる。
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「行佐の弟の行重ではないかと思われる人物が琵琶の相伝を、一族の宗藤・知藤が笙の相承をうけている事等」に付された注(4)を見ると、

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(4)文机談「廷尉従五位下藤原行重このなかれをうく。但流泉の曲をは孝行にうけり。」
 続群書類従管弦部鳳笙師伝相承
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とありますが、『文机談』を確認したところ、全五冊の最後の最後、聞き手として設定されている尼と作者・隆円とのやり取りの直前に「廷尉従五位下藤原行重」云々の一文がありますね(岩佐美代子『校注文机談』、笠間書院、1989、p154)。
その少し前には隆円の師匠・藤原孝時から教えを受けた人として「西園寺大納言実兼」「中納言公宗」「東院【ママ】中納言公守」等の名前が登場し、更に孝時の娘「刑部卿局」から教えを受けた人として大宮院・東二条院、そして後深草院の名前も出てきます。
二階堂行時は作詞ではなく作曲の才能に恵まれた人ですが、叔父が琵琶の相承を受けるほどの人であったら、行時も琵琶を習っていた可能性はありそうです。
そして、行時と同世代の後深草院二条は、

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 琵琶は七つの年より、雅光の中納言にはじめて楽二三習ひて侍りしを、いたく心にも入らでありしを、九つの年より、またしばし御所に教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合・万秋楽などはみな弾きて、御賀の折、白河殿くわいそとかやいひしことにも、十にて御琵琶をたどりて、いたいけして弾きたりとて、花梨木の直甲の琵琶の紫檀の転手したるを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして、折々は弾きしかども、いたく心にも入らでありしを、


と書いているので、仮に「白拍子三条」が後深草院二条であって、鎌倉滞在時に何かの機会で二階堂行時と会ったならば、きっと二人は琵琶談義に花を咲かせたことだろうと思います。
なお、『文机談』には「久我太政大臣通光のおとど」「御嫡子右大将通忠」「その御をとうと中納言雅光」も登場し(『校注文机談』、p116)、雅光については重ねて、

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一、久我中納言雅光卿、この孝経にならひ給き。灌頂の後いくほどなくてうせ給にき。御比巴がらあしからず。
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とあって(p129)、琵琶灌頂を受けた相当の名手であったようであり、琵琶の腕前についての二条の自負も、まんざら根拠のないことではなさそうです。
また、「白拍子三条」が後深草院二条なら、琵琶との関係でも「洞院前大相国家」公守との接点が出て来ることになります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

秩石 2022/03/26(土) 14:22:41
小太郎さん
春朝は、高氏一族の師冬、師夏、師秋、師春を連想させますね。ホイジンガ「中世の秋」ならぬ「中世の四季」(ヴィヴァルディ作)です。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%83%E7%9F%B3
中世は貫高制で、石高制は織豊時代以後なので、因州戸部二千石行時の二千石が理解できず、崩し字の誤読ではあるまいか、と思いましたが、これは漢の時代の秩石を表すものなのですね。知りませんでした。
転用として、二千石が地方長官を指す、とあるので、因州二千石は因幡守になりますか。戸部が何処を指すのか、わかりません。
後宮佳麗三千とか、白髪三千丈とか、中国では、三千は際限のないものを表すので、そうか、二千とは三千に一千も足らないのか、とちょっと笑えますね。

春朝の父ですが、草冠に「馬」と書いて、どう読むのか、ナゾナゾみたいな諱で、残念ながら、ウマい読み方ができません。
コメント
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