学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その1)

2022-03-22 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月22日(火)21時59分15秒

今まで金沢北条氏が明空のパトロンであることを前提に論じてきましたが、「或人」が「越州左親衛」(金沢貞顕)だとしても、名門武家の貴公子が流行歌謡に夢中になっただけで、それがパトロン云々の話になるのは変ではないか、と思われた方がおられるかもしれません。
もちろん、従来の研究でも早歌と金沢北条氏の関係は別の観点からも検討されています。
それは明空を嗣いだ一番弟子、比企助員という人物に関係するのですが、「員」という字が想起させるように、この人は建仁三年(1203)の比企氏の乱で殺された比企能員の子孫と思われます。

比企能員

外村氏の『鎌倉文化の研究』を読むまでは、百年前に族滅したはずの比企氏にそんな人がいたこと自体が私にとって驚きだったのですが、同時に、『とはずがたり』に「比企」らしき人名が唐突に登場する場面があって、これと何か関係があるのだろうかと感じました。
即ち、後深草院皇子の久明親王が新将軍として鎌倉に下って来る場面で、その準備のために、二条も平頼綱に呼ばれて頼綱邸、ついで新造の将軍御所に向かうのですが、そこに、

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「将軍の御所の御しつらひ、外様のことは比企にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよ」 といはれたる。とは何ごとぞとむつかしけれども、ゆきかかるほどにては、憎いけしていふべきならねば、参りぬ。


とあります。
ま、この部分は本当に「比企」なのか、「日記」ではないか、という説もあって、私にとっても未だに謎です。
そこで、少し脱線気味になりますが、この人物を検討した外村氏の「早歌の大成と比企助員」(『鎌倉文化の研究』所収、初出は『芸能史研究』76号、1982)という論文を少し紹介しておきます。(p355以下)

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   一

 早歌は鎌倉中期の末頃から流行しはじめた長編の新歌謡である。応仁略記にも、この歌謡の元祖と記されている明空(晩年月江と称す)はその大部分の作詞・作曲者であり、また、歌曲の蒐集・撰集にも終始貢献している。というよりも、現在では早歌については明空の書きのこしたこれらのものによる他は、当時の状態を知ることが出来ないという事情がある。この明空の出自が実は不明で、歌曲の題材やこの人以外の作者の検討などから、鎌倉幕府周辺の社交圏内の人であろうとは想像されるが、はっきりとした事は判っていない。明空がどんな階層に属する人であったかということはそれだけでも興味深いものがあるが、私は、それ以上に、この人の出身が明らかになれば、早歌が何故この東国から創められ、流行しなければならなかったのかという、早歌としてはもっとも核心に迫る問題が解明され、それにともなって、さまざまの疑問が氷解されるに違いないと期待してきた。
 ところが最近、その弟子と考えられる比企助員について新しい史料が加わり、その関係から、明空の死没の頃もほぼ推定され、また、早歌の担い手の問題もこの方面からより鮮明になってきた。そこで以下に、比企助員を中心として、この人と明空の関係、ことに助員が早歌の大成にどのような働きをしたかを明らかにし、同時に、早歌とこの社会における役割、すなわち、何故この歌謡が鎌倉幕府下の東国に必要であったのかという問題も考えてみたい。

   二

 明空の書きのこした撰要目録によると、嘉元四年(一三〇六)三月下旬の識語をもつ拾菓集の序に、

  いまは六そぢのあまり、つれなき命のほど、思しらざるべきにしもあらねば、しづかなるすまゐに身をかくして、
  ひたすら仏の御名をたのむより外はと、よろづにおもひすて侍しを、のがれがたう、ここかしこより、あながち
  にすすめられしかば、なまじゐにうけひき……(以下略)

と記している。彼はこれより五年ほど前までに、宴曲集五十曲・宴曲抄三十曲・真曲抄十曲・究百集十曲の計百曲十巻を撰集し終っていた。究百集の名の通り、百曲で一応この仕事は完了したと考えていたようである。けれどもこの序によれば、周囲はこれを許さず、続いて拾菓集二十曲が作られることになったのであろう。そうして、結局、拾菓抄十一曲・別紙追加曲十曲・玉林苑二十曲と計六十一曲が要望にこたえて次々と創作され、また集められて行ったのである。
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いったん、ここで切ります。

>筆綾丸さん
>若き貞顕の才気が迸っているような名品ですね。

「明王徳」の方はエリートとしての自覚を持って猛勉強している様子が伺えて、これもたいしたものですね。
まあ、文芸作品としてはあまり面白くもないですが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

金沢貞顕という人 2022/03/22(火) 13:47:17
金沢貞顕作「袖餘波」は、『源氏物語』を踏まえ、
空蝉
柏木(女三宮)
朧月夜
須磨流謫
ときて、ここで、まるで「須磨がえり」を意識するかのように源氏を離れ、
飛鳥井女君(『狭衣物語』)
へと転じ、最後は、
業平と二条后・伊勢斎宮(『伊勢物語』)
で閉じる、という美しく重層的な構成で、若き貞顕の才気が迸っているような名品ですね。
こういう文人肌の男が老いて、最後は、武人として自刃するというのは、ダンディというか、美学というか、転た羨望の念を禁じえません。
コメント
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