投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月24日(木)12時05分35秒
続きです。(p357)
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けれども、助員の場合は曲も出来てからの取捨で、弟子に手を取って教えている感が濃い。助員のこの作品の他に「文字誉」(拾菓抄)には「宮円上人禅林寺長老 月江成取捨 高階基清調曲」というのがあるが、これも、明空即ち月江が作詞に手を入れている。そして基清に曲を作らせている点、この基清も弟子の一人とみられる。この人は単独でも調曲していて、梅華(拾菓集下)・袖情(同)・暁思留記念(拾菓抄)・善巧方便徳(玉林苑上)・鹿山景(同)等があるが、梅華をのぞき、あとの曲はすべて明空=月江の作詞であるから、すでに調曲し易く作られているといえるので、取捨はもちろん必要がないわけである。梅華は「自或所被出之」とあるものである。基清の他にも、こういう仕方で入江羽林源定宗・菅武衛頼範・因州戸部二千石行時・金沢顕香・左金吾春朝等、晩年になるにしたがって、調曲者がふえて来る。
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うーむ。
「宮円上人禅林寺長老 月江成取捨 高階基清調曲」などという表現と比較すると、「明空成取捨調曲」は「明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲すること」との外村説が正しそうですね。
そうだとすれば、「越州左親衛」(金沢貞顕)は作詞のみということになります。
調曲者の内、高階基清は足利家被官の高一族の人ではないか、などと思って少し調べたことがありますが、今のところ手がかりはありません。
金沢顕香は貞顕の兄・顕実の息子で、「日精徳」(「玉林苑上」)の作曲者「予州匠作」に比定されています。
外村氏は「第四章 早歌の撰集について─撰要目録巻の伝本を中心に」に、早大本によって解明された事項の一つとして、
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(九) 玉林苑上の日精徳の作曲者予州匠作は「顕香」の朱書きがある。この人については、私は竹柏園文庫本に日精徳の作詞者として「頼老・顕香」、作曲者に「与州道作」となっているのをたよりに、金沢文庫で有名な金沢氏の顕時の孫頼茂・顕香の兄弟、特に顕香を比定した(『早歌の研究』四六頁・四七頁)が、これで、金沢顕香と決めてよいようである。柴田氏は筆者の説にふれず六条家の顕香説を出されたが、玉林苑の集められた文保二年二月(或いは三年)には既に従三位となっており、右中将を経ている(公卿補任、文保二年正月五日従三位、前右中将)ので、撰要目録の官職位記載の正確さからみて、予州匠作即ち予州修理大夫とは書かれることはないはずで問題にはならない。
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と書かれており(p291)、「予州匠作」は金沢顕香で確定ですね。
さて、続きです。(p357以下)
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ところで、助員に戻って、この人は蹴鞠の他に、単独で琵琶曲(別紙追加曲)・山王威徳(玉林苑下)・余波(同)の三曲も作曲している。琵琶曲は洞院左幕下家(比定者左大臣実泰)の作詞で、山王威徳は法印忠覚の作詞、余波は内大臣法印道恵(通阿と号す)の作詞で、ともに軽いものではなく、弟子としてもこの頃は十分独立して作曲できる実力を養っていたと思われる。明空=月江の弟子の中でも、助員は比較的早く撰集に載ることやその扱いなどからみて、第一の弟子であったのではなかろうかと察せられる。そう考える理由は次の異説や両曲に関する撰集についての助員の作品・行動をみても言えることである。
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「洞院左幕下家」に比定されている洞院実泰は「洞院前大相国家」(公守)の嫡子で、『園太暦』の公賢の父ですね。
洞院実泰(1270-1327)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saneyasu.html
「法印忠覚」は岩波日本古典文学大系の新間氏の注に「大炊御門冬忠の子、山の僧正忠覚か(後藤博士説)」とあり(p47)、確かに『尊卑分脈』等を見ても「山王威徳」という曲にふさわしい「忠覚」はこの人くらいです。
ところで大炊御門冬忠の名前は『とはずがたり』に二箇所出て来て、最初は巻三の冒頭、二条と有明の月の関係を知った後深草院が述懐する場面に、
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わが新枕(にひまくら)は故典侍大(すけだい)にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れず覚えしを、いまだいふかひなきほどの心地(ここち)して、よろづ世の中つつましくて、明け暮れしほどに、冬忠・雅忠などに主(ぬし)づかれて、ひまをこそ人わろく窺ひしか。腹の中にありし折もこころもとなく、いつかいつかと、手のうちなりしより、さばくりつけてありし。
【次田香澄訳】
わたしの新枕はおまえの母(故大納言典侍)から教えてもらったので、とにかくにも人知れず思いを寄せていたが、まだ少年の年ごろで、大人たちに気をつかいながら明け暮れしていたその間に、おまえの母は冬忠や雅忠などの愛人になってしまって、わたしはみっともなくも、隙(ひま)をうかがってこっそり逢っていたものだよ。おまえが母の胎内にあった間も、気に掛かり、生れてからも、まだ赤ん坊のときから、はやく大きくならないかと楽しみに、あれこれかまったりしていたものだよ。
http://web.archive.org/web/20150512043602/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-2-kokuhaku.htm
とあります。
つまり二条の母「典侍大」(四条近子?)が中院雅忠と結婚する前の愛人ないし前夫が大炊御門冬忠ですね。
大炊御門冬忠(1218-68)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%82%8A%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%86%AC%E5%BF%A0
そして二番目は、巻四で鎌倉から戻った二条が奈良の春日社を経て法華寺を訪問した場面に、
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明けぬれば、法華寺へたづね行きたるに、冬忠の大臣の女、寂円房と申して、一の室といふところに住まるるに会ひて、生死無常の情なきことわりなど申して、しばしかやうの寺にも住まひぬべきかと思へども、心のどかに学問などしてありぬべき身の思ひとも、われながらおぼえねば、ただいつとなき心の闇にさそはれ出でて、また奈良の寺へ行くほどに、春日の正の預祐家といふ者が家にゆきぬ。
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という具合いに、「寂円房」という尼の父親として「冬忠の大臣」が出てきます。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p274)
「法印忠覚」が大炊御門冬忠の息子であれば法華寺の「寂円房」とは同母ないし異母兄妹、または姉弟の関係ですね。
そしてこの二人は二条とも異父兄弟ないし姉妹の可能性もなきにしもあらず、ということになります。