投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月 7日(月)16時01分2秒
二条の父方、村上源氏の話に戻ると、二条は村上源氏の中でも久我家出身であることを頻りに強調・自慢します。
例えば鷹司兼平に比定されている「近衛大殿」は、
-------
村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにて候。あの傅仲綱は、久我重代の家人にて候ふを、岡屋の殿下、ふびんに思はるる子細候ひて、『兼参せよ』と候ひけるに『久我の家人なり、いかがあるべき』と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば、兼参子細あるまじ』と、みづからの文にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f71f109655ed3559cb528b1ffc346a00
などと言う訳ですが、実際には久我家の内情はかなり大変でした。
というのは、二条の祖父・通光が遺言で家産を全て後妻(三条尼・西蓮)に譲ってしまった結果、遺族の間で大変な相続争いが生じていたからです。
その様相は岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)に詳しいのですが、私の旧サイトでは久我家文書を所蔵する國學院大學で行われた展示会の図録『特別展観 中世の貴族~重要文化財久我家文書修復完成記念~』(1996)から若干の引用を行いました。
http://web.archive.org/web/20150906221551/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kogakeryou.htm
「久我家根本家領相傅文書案」
http://web.archive.org/web/20090608141042/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kogake-konponkaryo.htm
また、二条は祖父・通光が太政大臣だったことも頻りに強調しますが、源通親の嫡子であった通光は若年から極めて順調に出世したものの、承久の乱に加担した結果、承久三年(1221)七月、三十五歳で内大臣を辞し、その後は実に四半世紀もの間、散位のままです。
そして寛元四年(1246)十二月、突如として太政大臣に任ぜられ、従一位に叙せられますが、これは同母弟の土御門定通が後嵯峨天皇践祚に貢献した論功行賞の一端であって、通光の政治的力量とは全く無関係であったことは明らかです。
土御門定通が処罰を免れた理由(再論)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18728f3064e7515456553a7fc5fadf51
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c004b184d9f914b0a64d5510efef6f9
結局、鎌倉期においては「村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかり」、「久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば」などという実態は全くなく、通親子孫の村上源氏の中でも久我家は傑出した存在ではないですね。
『とはずがたり』を見ると二条の父・雅忠は通光の後妻との関係が悪くもなかったようで、経済的にもさほどダメージはなかったのかもしれませんが、『公卿補任』では雅忠の家名は「久我」ではなく、一貫して「中院」と記されています。
ということで、『とはずがたり』で語られる久我家像は相当に潤色されたものですね。
とはいっても、通親子孫の村上源氏は、全体としてみれば公家社会の中で相当高い家格を維持していたことは確かであり、しかも、この一族には鎌倉初期から朝廷と幕府の間をつなぐ、一種の外交官的役割を担った人物が多いですね。
その代表格は土谷恵氏が挙げる宗尊親王側近の土御門顕方ですが、通親子孫には武家社会との通婚関係も目立ちます。
この点、分析に若干の粗さがあるものの、鈴木芳道氏の「鎌倉時代における村上源氏の公武婚」(『鷹陵史学』31号、2005)という論文が参考になります。
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0031/OS00310R137.pdf
また、最近、北条義時の正室「姫の前」を調べていて気付いたのですが、義時と離縁後に京都で歌人・源具親と再婚した「姫の前」は源輔通という人物を産んでいて、この人の女子は雅忠の後室となり、『とはずがたり』にも「大納言の北の方」「まことならぬ母」として登場しています。
そして輔通の異母弟には小野宮禅念という僧侶がいて、禅念は親鸞の娘覚信尼の後夫であり、その息子が浄土真宗の歴史の上では極めて重要な人物である唯善なのですが、驚いたことに唯善は「大納言雅忠の猶子」です。
「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5425af06d5c5ada1a5f9a78627bff26e
源具親の孫・唯善(大納言弘雅阿闍梨)について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65800c8bdbfcba6cde8d34f56280c945
今井雅晴氏「若き日の覚如」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4202e02e274c369f47c699f70c68404a
本郷和人氏『北条氏の時代』について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b6f029b9bc8dfec18af4136a6ccf8869
『とはずがたり』だけ読んでいると、二条が出家後に関東に向かうのはずいぶん唐突な展開のように見えますが、通親子孫の村上源氏の動向、そして二条自身の周辺の人間関係を見ると、二条と関東の間には様々な結びつきがあったようですね。
さて、『とはずがたり』に虚構が含まれること自体は多くの国文学者の共通認識ですが、しかし、どの部分は真実で、どこからどこまでが虚構なのか、という区分についての認識は千差万別です。
そもそも『とはずがたり』だけを扱っていたのでは虚構の限界の見極めは原理的に不可能で、『とはずがたり』研究が検証可能な、客観性のある学問であるためには、『とはずがたり』という作品の内部ではなく、二条が『とはずがたり』の外部の現実世界に残した痕跡を調査する必要があります。
田渕句美子氏の方法論的限界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e561cd5f2b6ad2e0750379f3cfb62e71
この観点から見て、最も重要な文献は外村久江氏の『鎌倉文化の研究-早歌創造をめぐって』(三弥井書店、1996)です。
外村氏は同書の「第四章 早歌の撰集について-撰要目録巻の伝本を中心に」において、早歌に「源氏」「源氏恋」という曲があること、そしてその作者は「白拍子号三条」であることを指摘された上で次のように書かれています。
-------
早歌の撰集とほぼ同時代の『とはずがたり』に作者二条は後深草・亀山両院の小弓の負け態として、この六条院の女楽の場をまねて、二条は琵琶をよくしていたから、明石の君になって琵琶をひくという記事がある。これは、建治三年(一二七七)の事になっているが、『とはずがたり』は嘉元四年(一三〇六)著者四十九才までの記載が見られ、この頃の作品といわれている。六条院の女楽のまねごとが、事実談であるか、或いはフィクションかは不明にしても、とにかく、当時源氏物語を代表する場面として、人気があって、歌謡化などにも格好のものであったことが知られる。増鏡にはこの二条が後に三条と改名させられていることがあって(山岸徳平氏『とはずがたり』解題)、白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である。
http://web.archive.org/web/20150918011404/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-tonomura-hisae-shirabyoshisanjo.htm
二条の父方、村上源氏の話に戻ると、二条は村上源氏の中でも久我家出身であることを頻りに強調・自慢します。
例えば鷹司兼平に比定されている「近衛大殿」は、
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村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにて候。あの傅仲綱は、久我重代の家人にて候ふを、岡屋の殿下、ふびんに思はるる子細候ひて、『兼参せよ』と候ひけるに『久我の家人なり、いかがあるべき』と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば、兼参子細あるまじ』と、みづからの文にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f71f109655ed3559cb528b1ffc346a00
などと言う訳ですが、実際には久我家の内情はかなり大変でした。
というのは、二条の祖父・通光が遺言で家産を全て後妻(三条尼・西蓮)に譲ってしまった結果、遺族の間で大変な相続争いが生じていたからです。
その様相は岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)に詳しいのですが、私の旧サイトでは久我家文書を所蔵する國學院大學で行われた展示会の図録『特別展観 中世の貴族~重要文化財久我家文書修復完成記念~』(1996)から若干の引用を行いました。
http://web.archive.org/web/20150906221551/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kogakeryou.htm
「久我家根本家領相傅文書案」
http://web.archive.org/web/20090608141042/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kogake-konponkaryo.htm
また、二条は祖父・通光が太政大臣だったことも頻りに強調しますが、源通親の嫡子であった通光は若年から極めて順調に出世したものの、承久の乱に加担した結果、承久三年(1221)七月、三十五歳で内大臣を辞し、その後は実に四半世紀もの間、散位のままです。
そして寛元四年(1246)十二月、突如として太政大臣に任ぜられ、従一位に叙せられますが、これは同母弟の土御門定通が後嵯峨天皇践祚に貢献した論功行賞の一端であって、通光の政治的力量とは全く無関係であったことは明らかです。
土御門定通が処罰を免れた理由(再論)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18728f3064e7515456553a7fc5fadf51
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c004b184d9f914b0a64d5510efef6f9
結局、鎌倉期においては「村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかり」、「久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば」などという実態は全くなく、通親子孫の村上源氏の中でも久我家は傑出した存在ではないですね。
『とはずがたり』を見ると二条の父・雅忠は通光の後妻との関係が悪くもなかったようで、経済的にもさほどダメージはなかったのかもしれませんが、『公卿補任』では雅忠の家名は「久我」ではなく、一貫して「中院」と記されています。
ということで、『とはずがたり』で語られる久我家像は相当に潤色されたものですね。
とはいっても、通親子孫の村上源氏は、全体としてみれば公家社会の中で相当高い家格を維持していたことは確かであり、しかも、この一族には鎌倉初期から朝廷と幕府の間をつなぐ、一種の外交官的役割を担った人物が多いですね。
その代表格は土谷恵氏が挙げる宗尊親王側近の土御門顕方ですが、通親子孫には武家社会との通婚関係も目立ちます。
この点、分析に若干の粗さがあるものの、鈴木芳道氏の「鎌倉時代における村上源氏の公武婚」(『鷹陵史学』31号、2005)という論文が参考になります。
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0031/OS00310R137.pdf
また、最近、北条義時の正室「姫の前」を調べていて気付いたのですが、義時と離縁後に京都で歌人・源具親と再婚した「姫の前」は源輔通という人物を産んでいて、この人の女子は雅忠の後室となり、『とはずがたり』にも「大納言の北の方」「まことならぬ母」として登場しています。
そして輔通の異母弟には小野宮禅念という僧侶がいて、禅念は親鸞の娘覚信尼の後夫であり、その息子が浄土真宗の歴史の上では極めて重要な人物である唯善なのですが、驚いたことに唯善は「大納言雅忠の猶子」です。
「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5425af06d5c5ada1a5f9a78627bff26e
源具親の孫・唯善(大納言弘雅阿闍梨)について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65800c8bdbfcba6cde8d34f56280c945
今井雅晴氏「若き日の覚如」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4202e02e274c369f47c699f70c68404a
本郷和人氏『北条氏の時代』について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b6f029b9bc8dfec18af4136a6ccf8869
『とはずがたり』だけ読んでいると、二条が出家後に関東に向かうのはずいぶん唐突な展開のように見えますが、通親子孫の村上源氏の動向、そして二条自身の周辺の人間関係を見ると、二条と関東の間には様々な結びつきがあったようですね。
さて、『とはずがたり』に虚構が含まれること自体は多くの国文学者の共通認識ですが、しかし、どの部分は真実で、どこからどこまでが虚構なのか、という区分についての認識は千差万別です。
そもそも『とはずがたり』だけを扱っていたのでは虚構の限界の見極めは原理的に不可能で、『とはずがたり』研究が検証可能な、客観性のある学問であるためには、『とはずがたり』という作品の内部ではなく、二条が『とはずがたり』の外部の現実世界に残した痕跡を調査する必要があります。
田渕句美子氏の方法論的限界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e561cd5f2b6ad2e0750379f3cfb62e71
この観点から見て、最も重要な文献は外村久江氏の『鎌倉文化の研究-早歌創造をめぐって』(三弥井書店、1996)です。
外村氏は同書の「第四章 早歌の撰集について-撰要目録巻の伝本を中心に」において、早歌に「源氏」「源氏恋」という曲があること、そしてその作者は「白拍子号三条」であることを指摘された上で次のように書かれています。
-------
早歌の撰集とほぼ同時代の『とはずがたり』に作者二条は後深草・亀山両院の小弓の負け態として、この六条院の女楽の場をまねて、二条は琵琶をよくしていたから、明石の君になって琵琶をひくという記事がある。これは、建治三年(一二七七)の事になっているが、『とはずがたり』は嘉元四年(一三〇六)著者四十九才までの記載が見られ、この頃の作品といわれている。六条院の女楽のまねごとが、事実談であるか、或いはフィクションかは不明にしても、とにかく、当時源氏物語を代表する場面として、人気があって、歌謡化などにも格好のものであったことが知られる。増鏡にはこの二条が後に三条と改名させられていることがあって(山岸徳平氏『とはずがたり』解題)、白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である。
http://web.archive.org/web/20150918011404/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-tonomura-hisae-shirabyoshisanjo.htm