学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0167 「護良は後醍醐に無断で将軍を自称」したのか。(その1)

2024-09-12 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第167回配信です。


一、護良親王について

護良親王(1308‐35)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/325/

「尊氏は、生真面目な弟とは違って適当な人間である」(by 亀田俊和氏)〔2017-12-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9771b1e1d8aa827144a122c0d9a7ded1
護良親王の征夷大将軍解任時期との関係〔2020-12-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe78f236a9c90bb5ae313028bd0e3fed
征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その1)〔2020-12-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22bc2fda80bb8070e6da5425f64f3316
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード〔2020-12-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

p59
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 清忠から護良の返答を聞いた後醍醐は困り果てた。倒幕の最大の功労者である尊氏を討つなど、狂気の沙汰としか言いようがない。結局、後醍醐は尊氏討伐を中止するよう息子を諭し、征夷大将軍に任命することでなだめた。
 これでようやく護良も信貴山を下山し、帰京した。その時期は諸説あるが、六月中であったことは確実である。『大日本史料』は、一三日の出来事としている。このときの護良の軍勢は非常に華美で豪勢だったようで(『増鏡』)、幕府打倒直後の彼の権勢を物語っている。
 ちなみに、遅くとも五月一〇日から、護良は令旨で「将軍宮」と称している(案文、摂津勝尾寺文書)。この段階は六波羅探題が滅亡した直後であり、後醍醐もまだ伯耆にとどまっていた。つまり、護良は後醍醐に無断で将軍を自称しており、後醍醐の将軍任命は、その追認にすぎなかったわけである。
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二、護良親王は征夷大将軍を「自称」したのか。

「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)〔2021-01-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158

森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その1)~(その4)〔2021-01-27 〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03c87ed5d3659ae5cf21bff4531d6265
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d

四月初めの中間整理(その8)〔2021-04-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/929b03c5eaf5f936ea38589ab4530ffd
コメント (2)
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