第174回配信です。
一、前回配信の補足
ISHIDA BUNICHIさんから、「還京」は「かんけい」と読むとの指摘あり。
https://x.com/uizhackiinmuufb/status/1836678468974825944
入京・帰京・離京などは全て「きょう」。
何故に還京だけが「けい」なのか。
明治東京異聞~トウケイかトウキョウか~東京の読み方
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0715tokei.htm
送人還京(岑参)
https://kanbun.info/syubu/toushisen361.html
ISHIDA BUNICHIさんから、「還京」は「かんけい」と読むとの指摘あり。
https://x.com/uizhackiinmuufb/status/1836678468974825944
入京・帰京・離京などは全て「きょう」。
何故に還京だけが「けい」なのか。
明治東京異聞~トウケイかトウキョウか~東京の読み方
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0715tokei.htm
送人還京(岑参)
https://kanbun.info/syubu/toushisen361.html
中村直勝『増鏡の史実性について』(「国語と国文学」昭和36年6月号、有精堂『日本文学研究資料叢書 歴史物語Ⅱ』所収)
http://web.archive.org/web/20150918011505/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/nakamura-naokatu.htm
『増鏡』-従来の学説とその批判-
http://web.archive.org/web/20150916220408/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/jurai2.htm
『増鏡』の作者について、小川剛生氏は「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号、2000)から『二条良基研究』(笠間書院、2005)を経て、『人物叢書 二条良基』(吉川弘文館、2020)へと改説を重ね、結局、旧来の通説(二条良基説)に戻ってしまった。
小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)〔2020-01-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25bff1410b6473592b94072dc69d40b4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8dd111d27c6978b428f696122434f45c
小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その1)〔2020-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52cc631d465c4aad8fc74b4c0f0adfde
「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」の検討は中止します。〔2020-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/011a4c892afe58215f480c70fb4a9358
私見では『増鏡』の成立時期は1330年代。
『太平記』や『梅松論』に先行。
『梅松論』の作者は『増鏡』を読んでいるのではないか。
二、『梅松論』に描かれなかった護良の還京
矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』(現代思潮社、1975)
http://www.gendaishicho.co.jp/book/b527.html
底本は流布本系の彰考館文庫蔵延宝六年書写本(延宝本)
p64以下
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去程に、京都には君伯耆より還幸なりしかば御迎に参られける卿相雲客かうさう花をなせり。今度忠功をいたしける正成・長年以下供奉の武士其数を知らず。宝祚は二条内裏なり。保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として政務を恣にせしかども、元弘三年の今は天下一統に成しこそめづらしけれ。君の御聖断は延喜天暦のむかしに立帰て武家安寧に民屋謳歌し、いつしか諸国に国司・守護をさだめ、卿相雲客各其階位に登りし躰、実に目出〔めでた〕かりし善政なり。武家楠・伯耆守・赤松以下山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいつつべし。御聖断の趣、五幾七道八番に分られ卿相をもて頭人として新決所〔しんけつしよ〕と号て新たにつくらる。是は先代引付の沙汰のたつ所なり。大儀におひては記録所におひて裁許あるも、又窪所と号して土佐守兼光・大田大夫判官親光・冨部大舎人頭〔とみべおほとねりのかみ〕・三河守師直等を衆中として御出有て聞食〔きこしめ〕す。むかしのごとく武者所をおかる。新田の人々をもて頭人として諸家の輩を結番〔けちばん〕せらる。古の興廃を改て、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべしとて、新なる勅裁漸々きこえけり。
大将軍の叡慮無双〔ぶさう〕にして御昇進は申に不及、武蔵・相摸、其外数ヶ国の守をもて、頼朝卿の例に任て御受領あり。次に関東へは同年の冬、成良親王征夷将軍として御下向なり。下〔しも〕の御所左馬頭殿供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩、大略属し奉て下向す。鎌倉は去夏の乱に地を払ひしかども、大守御座ありければ庶民安堵の思ひをなしけり。
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『梅松論』には『太平記』の信貴山エピソードに相当する、倒幕直後の尊氏・護良親王間のトラブルは全く存在しない。
そもそも護良親王還京の場面がない。
なお、『梅松論』では「関東へは同年の冬、成良親王征夷将軍として御下向」とあって、成良親王は鎌倉下向の時点で既に征夷大将軍に任ぜられている。