学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0175 『梅松論』の作者は『増鏡』(の原型)を読んでいるのではないか。(その1)

2024-09-20 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第175回配信です。


一、序文の類似性

増鏡
梅松論

通説では『梅松論』の成立は『増鏡』に先行。
しかし、『増鏡』を1330年代の成立と考えると、『梅松論』作者が『増鏡』を読んでいる可能性が出て来る。

p36以下
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 何〔いづ〕れの年の春にや有けん。二月〔きさらぎ〕廿五日を参籠の結願に定て北野の神宮寺毘沙門堂に道俗男女群集し侍りて、或は経陀羅尼を読誦し、或は坐禅観法を凝し、あるひは詩歌を吟じけるに、更闌夜寂にて松の風梅の匂何れもいと神さびて心すみわたり侍りけり。
 角〔かく〕て暫く念珠の隙有けるに、有人の云、かゝる折節申せば憚あれども御存知ある方もやあるとおもひ侍て、多年心中の不審を申也。知召かたもあらば御物語あれかし、抑〔そもそも〕、先代を亡して当代御運を開かれて、栄曜代に越たる次第、委く承度候。誰にても御語り候へかしと申し侍りければ、良〔やや〕静返りてありけるに、なにがしの法印とかや申て、多智多芸の聞えありける老僧出て申けるは、とし老ぬるしるしに古よりの事ども聞をき侍しをあら/\かたり申べき也。失念定て多かるべし、其をも御存知あらん人々、助言も候へと申されければ、本人は申に不及、満座是こそ神の御託宣よと悦の思をなして聞侍けるに、法印いはく、爰に先代と云は元弘年中に滅亡せし相模守高時入道の事なり。承久元年より武家の遺跡絶えてより以来、故頼朝卿後室二位禅尼のはからひとして、公家より将軍を申下りて、北条遠江守時政が子孫等を執権として、於関東天下を沙汰せしなり。
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p141
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 去程に春宮、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会の御沙汰ありて、公家は実〔まこと〕に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と云事もきこえず。されば天道は慈悲と賢聖を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にもこえ、ありその海のはまの砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数には、いかでかおよぶべきとぞ法印かたり給ひける。
 或人是を書とめて、ところは北野なれば、将軍の栄花、梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳をひとしくすべし。飛梅老松年旧〔ふり〕て、まつ風吹けば梅花薫ずるを、問と答とに准〔なぞ〕らへて、梅松論とぞ申ける。
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『増鏡』序
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 二月(きさらぎ)の中の五日は、鶴の林に薪(たきぎ)尽きにし日なれば、かの如来二伝(によらいにでん)の御かたみのむつましさに、嵯峨の清涼寺(しやうりやうじ)にまうでて、「常在霊鷲山(じやうざいりやうじゆせん)」など、心の中(うち)にとなへて拝み奉る。かたはらに、八十(やそぢ)にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖(つゑ)にかかりて参れり。とばかりありて、「たけく思ひ立ちつれど、いと腰いたくて堪へ難し。こよひはこの局(つぼね)にうちやすみなん。坊(ばう)へ行きてみあかしの事などいへ」とて、具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば返しぬめり。
 「釈迦牟尼仏(むにぶつ)」とたびたび申して、夕日の花やかにさし入りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端(は)近くかたぶきぬめる日影かな。我が身の上の心地(ここち)こそすれ」とて寄りゐたる気色(けしき)、何(なに)となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近く寄りて、
「いづくより詣(まう)で給へるぞ。ありつる人の帰り来(こ)ん程、御伽(おとぎ)せんはいかが」などいへば、「このあたり近く侍(はべ)れど、年のつもりにや、いと遙けき心地し侍る。あはれになん」といふ。「さてもいくつにか成り給ふらん」と問へば、「いさ、よくも我ながら思ひ給へわかれぬ程になん。百年(ももとせ)にもこよなく余り侍りぬらん。来(こ)し方行く先、ためしもありがたかりし世のさわぎにも、この御(み)寺ばかりつつがなくおはします。猶(なほ)やんごととなき如来の御(み)光なりかし」などいふも、古代にみやびかなり。【後略】

http://web.archive.org/web/20150916221050/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu0-jobun.htm

(1)時期
 『増鏡』…「二月の中の五日」(二月十五日)
 『梅松論』…「二月廿五日」
(2)場所
 『増鏡』…「嵯峨の清涼寺」
 『梅松論』…「北野の神宮寺毘沙門堂」
(3)語り手
 『増鏡』…「八十にもや余りぬらんと見ゆる尼」
 『梅松論』…「なにがしの法印とかや申て、多智多芸の聞えありける老僧」
(4)謙遜の言葉
 『増鏡』…「そのかみの事はいみじうたどたどしけれど、まことに事の続きを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなん。僻事(ひがごと)ぞ多からんかし。そはさし直し給へ。いとかたはらいたきわざにも侍るべきかな。かの古ごとどもには、なぞらへ給ふまじうなん」
 『梅松論』…「とし老ぬるしるしに古よりの事ども聞をき侍しをあら/\かたり申べき也。失念定て多かるべし、其をも御存知あらん人々、助言も候へ」


二、「かしこくも問へるをのこかな」エピソードとの類似性

『梅松論』p41
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【前略】若、東士利を得ば、申勧たる逆臣を給て重科に行べし。又、御位におひて彼院の御子孫を位に付奉べし。御向あらば冑をぬぎ弓をはづし頭をのべて参るべし。【後略】
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「巻二 新島守」(その6)─北条泰時〔2018-01-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード〔2018-01-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9
コメント (2)
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