学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0177 『梅松論』の作者は『増鏡』(の原型)を読んでいるのではないか。(その3)

2024-09-23 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第177回配信です。


一、前回配信の補足

『増鏡』巻十一「さしぐし」で、二条が三条と名付けられて嘆いたという場面を紹介するに際し、「二条が「三条」として登場することについての私の解釈はこちら」としてリンク先を示していたが、これは旧サイトでも少し古い記事だった。
2002年の時点での私見はこちら。

第二章 『増鏡』の作者
http://web.archive.org/web/20150831071838/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/2002-zantei02.htm

後深草院二条が『増鏡』の作者であることは、『増鏡』を最初に読んだ時点で既に私の確信となっており、現在の私にとっては自明の前提。
そして、旧サイトの時点で、武家社会で流行した早歌の作者「白拍子三条」の問題に気づいていたが、2018年に改めて「白拍子三条」について整理した。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)〔2018-03-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」〔2018-03-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a90346dc2c7ee0c0f135698d3b3a58fd
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」〔2018-03-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕〔2018-03-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26c6e1bde1b9e0a358f5eb0d5e4e7e3d

その後、2022年に「昭慶門院二条」の問題に気づき、これも二条の隠名であろうと考えている。

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」が催された時点では、昭慶門院は女院号を得ておらず。
にもかかわらず、『拾遺現藻和歌集』(元亨二年、1322)では「昭慶門院二条」が参加したとされている。

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その1)〔2022-09-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba239fca9ea719a85c4aa76e98c8ccb0
『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その1)〔2022-09-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7233f3ad4f365e54f0280694dc7248cd
2022年10月の中間整理(その1)~(その5) 〔2022-10-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a51ac87b2f3a875e870d8c9f1d1663e6
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f8d739b09248d618852064d57b27c8d

昭慶門院(1270‐1324)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%99%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

亀山院皇女。後醍醐天皇皇子の世良親王(?‐1330)を養育。
昭慶門院を通じて北畠親房との接点が出て来る。
『増鏡』と『神皇正統記』の思想が近いことは従前から指摘されている。


二、『梅松論』の承久の乱の記述

矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』(現代思潮社、1975)
http://www.gendaishicho.co.jp/book/b527.html

p39以下
-------
 去程に武蔵守泰時、相摸守時房連署として政務をとり行〔おこなふ〕の処に、同承久三年の夏、後鳥羽院御気色として関東を亡さんために、先〔まづ〕、三浦平九郎判官胤義・佐々木弥太郎判官高重・同子息経高等を以て、六波羅伊賀太郎判官光季等を誅し、則、官軍関東へ発向すべき由五月十九日其聞へある間、二位の禅尼は舎弟右京亮并びに諸侍等をめして宣ひしは、我なまじゐひに老の命残て、三代将軍の墓所を西国の輩の馬のひづめにかけん事と、甚〔はなはだ〕、口おしき次第なり。我存命してもよしなし。先、尼を害し君の御方へ参ずべしと、泣々仰られければ、侍共申けるは、我等皆右幕下の重恩に浴しながらいかでか御遺跡を惜み奉らざるべき。西を枕とし命を捨べきよし、各〔おのおの〕、申しければ、同廿一日十死一生の日なりけるに、泰時并に時房、両大将として鎌倉を立給ふ。
-------

「三代将軍の墓所を西国の輩の馬のひづめにかけん事」は『承久記』慈光寺本の、

-------
大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ者ナラバ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/07a35b665e1e27bd981fc169c4fa7ffb

を連想させる。
ただ、慈光寺本にも「先、尼を害し君の御方へ参ずべし」といった表現はなく、『梅松論』が慈光寺本の影響を直接に受けているとも言い難い。

流布本も読んでみる。(その12)─「尼程物思たる者、世に非じ」〔2023-04-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9854a9a3a206b7a5b3ad99fd91c09cf
(その13)─「一天の君を敵に請進らせて、時日を可移にや。早上れ、疾打立」〔2023-04-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64c7d8a7d233b802827b85946ddb2266
(その14)─慈光寺本の政子の演説との比較〔2023-04-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/00bd3e649b0356c54796c755db41a69e
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その10)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続々)〔2023-10-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31f9298885a988a2bbbabf1631511f8b


p40以下
-------
 然るに、泰時は父の義時に向て曰〔いはく〕、国は皆、王土にあらずといふ事なし。されば和漢ともに勅命を背者〔そむくもの〕、古今誰か安全する事なし。其元、平相国禅門は後白川院をなやまし奉たりしかば、依是、故将軍頼朝卿、潜に勅命を蒙て平家一類を誅罰ありしかば、忠賞官録残処なかりき。就中〔なかんづく〕、祖父時政を始として其賞に預る随一なり。然ば身にあたつて今勅勘を蒙る事、なげきても猶あまりあり。たゞ天命のがれがたき事なれば、所詮、合戦をやめ降参すべきよしをしきりにいさめける処に、よし時良〔やや〕暫くありていはく、此儀、尤〔もつとも〕神妙なり。但それは君主の御政道正しき時の事也。近年天下のをこなひをみるに、公家の御政古にかへて実をうしなへり。其子細は朝に勅裁有て夕に改まるに、一処に数輩の主を付らる間、国土穏なる処なし。わざわひ未及処はおそらく関東計也。治乱は水火の戦に同じきなり。如此の儀に及間〔およぶあひだ〕、所詮、天下静謐の為たるうへは、天道に任て合戦を可致、若〔もし〕、東士利を得ば、申勧たる逆臣を給て重科に行べし。又、御位におひて彼院の御子孫を位に付奉るべし。御向あらば冑をぬぎ弓をはづし頭をのべて参るべし。是又〔これまた〕、一儀なきにあらずと宣〔のたまひ〕ければ、泰時を始として東士各〔おのおの〕、鞭を上て三の道より同時に責〔せめ〕のぼる。
 東海道の大将軍は武蔵守泰時、相摸守時房、東山道は武田、小笠原、北陸道は式部丞朝時、都合其勢十九万騎にて発向し三の道より同時に洛中に乱入しかば、都門忽に破れて逆臣悉く討取〔うちとられ〕し間、院をば隠岐国に遷し奉り、則、貞応元年に院の御孫後堀川天皇を御位に付奉る。御治世貞応元年より貞永元年に至て十一ヶ年也。
-------

先に「泰時并に時房、両大将として鎌倉を立給ふ」としながら、「然るに、泰時は父の義時に向て曰〔いはく〕」とあって、『増鏡』のように、泰時がいったん出発した後にただ一人戻ってきて義時に質問したのかははっきりしない。
天理本では「鎌倉ヲ立時、泰時父義時ニ向テ曰ク」、京大本では「鎌倉ヲ立ケル時、泰時父義時ニ向テ曰ク」とあって、発つ前の出来事としている。
しかし、「御向あらば冑をぬぎ弓をはづし頭をのべて参るべし」は『増鏡』の「まさに君の御輿に向ひて弓を引くことはいかがあらん。さばかりの時は、兜をぬぎ、弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし」とそっくりではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする