学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

『増鏡』を読む会(第10回)「二条天皇とは何者か」

2025-02-24 | 鈴木小太郎チャンネル2025
毎週土曜日に開催しています。
『増鏡』を基軸として、『平治物語』『今鏡』『平家物語』『吾妻鏡』『承久記』『六代勝事記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『太平記』『梅松論』等にも随時言及し、中世史と中世文学の中間領域を探求して行きます。
第10回のテーマは「二条天皇とは何者か」です。
桃崎有一郎氏の「二条天皇黒幕説」に基本的に賛同しつつも、なお修正すべき点が多々あると考えて検討を進めてきた結果、二条天皇がいかなる人物なのかについて私見が一応纏まりましたので、それを述べたいと思います。

日時:3月1日(土)午後3時~5時
場所:甘楽町公民館

群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡 161-1
上信越自動車道の甘楽スマートICまたは富岡ICから車で5分程度。

連絡先:
iichiro.jingu※gmail.com
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またはツイッターにて。
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資料:米澤隼人氏「平家のトノヰ所と押小路東洞院殿」

2025-02-24 | 鈴木小太郎チャンネル2025
元木泰雄編『日本中世の政治と制度』(吉川弘文館、2020)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b535909.html

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はじめに
一 六波羅と西八条
二 京中の平家の居所
三 左京三条三坊の地域的特徴
四 二条天皇の周辺
おわりに
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p23以下
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三 左京三条三坊の地域的特徴

 平治の乱後、朝廷の政治的意思は後白河院・二条天皇と大殿である藤原忠通の合議によって決められた。ところが、応保元年(一一六一)九月に後白河院の皇子憲仁(高倉天皇)が誕生したことをきっかけとして、皇位継承に不安を抱いた二条天皇は後白河院を政務から排除し、二条天皇の親政が始まった(16)。その当時の二条天皇と平家の関係をあらわすものとして注目されてきたのが『愚管抄』巻第五(17)の有名な一節である。

【以下二字下げ】
サテ主上〈二条院〉世ノ事ヲバ一向ニ行ハセマイラセテ、押小路東洞院ニ皇居ツクリテオハシマシテ、清盛ガ一家ノ者サナガラソノ辺ニトノヰ所ドモツクリテ、朝夕ニ候ハセケリ。イカニモ/\清盛モタレモ、下ノ心ニハ、コノ後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメス(18)コトヲバ、イカゞトノミオモヘリケルニ、清盛ハヨク/\ツゝシミテイミジクハカラヒテ、アナタコナタシケルニコソ。

親政を開始した二条天皇は押小路東洞院に里内裏を造営し、その近辺に平清盛の一家は「トノヰ所」を設け、朝夕に祗候したという。二条天皇と後白河院のあいだを清盛が気を遣って「アナタコナタ」したという表現は、この当時の不安定な政治情勢を表わす言葉として、あまりに有名である。
 二条天皇が造営した里内裏とは、応保二年三月に完成した押小路東洞院殿である(19)。この里内裏は、平基盛・藤原雅隆・藤原季能の受領成功によって造営され、このうち負担の大きい紫宸殿の造営を担当したのが基盛である(20)。この里内裏の所在地は左京三条三坊十五町であり、この周囲にあったのが平経盛・平頼盛・平清子・小輔掌侍の居所である。
 本稿の立場から注目したいのは、二条天皇に清盛の一家が朝夕と祗候したという記述である。これは平治の乱後の混乱する社会のなかで二条天皇と清盛が結びつきを強め、あからさまな武力によって天皇が守護されるようになったことを示していると理解されている(21)。【後略】

(16) 龍粛『平安時代―爛熟期の文化の様相と治世の動向―』(春秋社、一九六二年)「後白河院の治世についての論争」。下郡剛『後白河院政の研究』(吉川弘文館、一九九九年)。佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、二〇一五年)第二部第二章「二条親政の成立」(初出二〇〇四年)。
(17) 『日本古典文学大系 愚管抄』二三九頁。
(18) この部分の引用は岡見正雄・赤松俊秀校注『日本古典文学大系 愚管抄』(岩波書店、一九六七年)二三九頁による。
 これを底本とする大隅和雄訳『〔講談社学術文庫〕愚管抄 全現代語訳』(講談社、二〇一二年。初刊一九七一年)は、このうち「清盛モタレモ下ノ心ニハ、コノ後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバ、イカゞトノミオモヘリケルニ」という部分を、「清盛も誰も心の底ではどう考えても、この後白河上皇がおいでになるのに二条天皇が政治をおとりになることにすっきりしないものがあったが」(二六四頁)と訳し、平清盛は二条天皇が政治をとることに不快感を抱いていたと解釈している。
 しかし、二条天皇と清盛が政治的に密接な関係を構築していたことは、この時期を対象とする多くの研究によって、よく知られている。また、あえて読み手が主語を補わなければならないことから、この部分の解釈は研究者によって一致していない。
 ところで、あまり参照されることはないが、中島悦次『愚管抄全註解』(有精堂、一九六九年、初刊一九三一年)は、この部分を「清盛も誰も、下の心には、この後白河院の御世にて世をしろしめさぬことをばいかゞとのみ思へりけるに」(四〇五頁)とする。これによれば問題の部分は「清盛も誰も、心の底では、この後白河院がおいでになるのに自身で政治をおとりにならないことにすっきりしないものがあったが」と無理なく解釈することができる。原本の調査をふまえたテキストの研究が必要なことは言うまでもないが、二条天皇が「世ヲシロシメス」のではなく、後白河院が「世をしろしめさぬ」のであるとすれば、清盛の不信感は二条天皇ではなく後白河院にむけられていたことになり、当時の政治的慣行として院政が定着していたことや、研究によって知られている二条天皇と清盛の関係を裏づける史料として位置づけることができる。
 なお、『日本古典文学大系』は島原公民館蔵本を底本とし、中島悦次『愚管抄全註解』は「東京帝国図書館蔵の平仮名の写本」全六巻を底本とする。また、近年における『愚管抄』のテキスト研究については、坂口太郎「『愚管抄』校訂私考」(『古代文化』第六八巻第二号、二〇一六年)を参照。
(19) 『園太暦』貞和二年(一三四六)七月二十一日条所引「代々内裏造畢年限事」「造内裏里年限并事始事」。
(20) 宮内庁書陵部蔵『東洞院内裏遷幸記(公通卿記)』応保二年(一一六二)三月二十八日条。『山槐記』同日条(樋口健太郎「資料紹介 国立歴史民俗博物館所蔵・田中穣氏旧蔵本『山槐記』応保二年三月」『神戸大学史学年報』第二二号、二〇〇七年)。
(21) 五味文彦『〔人物叢書〕平清盛』(吉川弘文館、一九九九年)一五二頁。元木泰雄「王権守護の武力」(薗田香融編『日本仏教の史的展開』塙書房、一九九九年)二三九頁。高橋昌明『〔講談社選書メチエ〕平清盛 福原の夢』(講談社、二〇〇七年)四四頁。
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資料:龍粛「後白河院の治世についての論争」(その1)〔2025-01-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b73d875e7467560321c662c350f89043
資料:下郡剛氏「二条天皇期の国政運営」〔2025-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/48f57ac24cd76a8f93e064392538fe3c
資料:佐伯智広氏「二条親政の成立」(その1)(その2)〔2025-02-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bfbb33d914c9ce7337a84490d035e83d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ccff8868af1121075d2063cea3ea493
資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「「中小別当」惟方」〔2025-01-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34d80c6183d14e3bd8deed97e856e7b2
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