第267回配信です。
一、前回配信の補足
0266 桃崎説を超えて。(その31)─統子内親王立后に関する栗山圭子説の問題点〔2025-02-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df8dce2c94a874b8c31e183215fedec8
資料:栗山圭子氏「第三章 准母立后制にみる中世前期の王家」(その1)(その2)〔2025-02-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9faea1387e5b43fc53388752b7b774e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d78f636cc0c1e9dbfc4f4844e8a9cc0
0266 桃崎説を超えて。(その31)─統子内親王立后に関する栗山圭子説の問題点〔2025-02-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df8dce2c94a874b8c31e183215fedec8
資料:栗山圭子氏「第三章 准母立后制にみる中世前期の王家」(その1)(その2)〔2025-02-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9faea1387e5b43fc53388752b7b774e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d78f636cc0c1e9dbfc4f4844e8a9cc0
(a)自襁褓中令奉養育御姫宮母儀之条者、彼院令申置御事也、帝王養母之儀者、始自延喜事也、所謂穏子<九条殿女>也、(中略)姫宮可有院号、而非后宮之院号無先例、可計申之由、先代被問仰、
「襁褓の中より養育奉らしめたる御姫宮の母儀の条は、かの院の申し置かれし御事なり、帝王養母の儀は、延喜より始むる事なり、所謂穏子〈九条殿女〉なり、(中略)姫宮院号有るべくも、后宮にあらざるの院号先例なし、計り申すべきの由、先日問い仰せらる」
※史料(a)は『山槐記』応保元年(1161)十一月十九日条。
美福門院は前年十一月二十三日死去。
(b)入夜、重方参亜相殿、称勅使所申之事、姫宮院号之間、沙汰三箇条事也、
「夜に入りて、重方亜相殿に参じ、勅使と称して申すところの事、姫宮院号の間、三箇条を沙汰す事なり」
※史料(b)は『成頼卿記』応保元年十二月十四日条。
(c)今日無品内親王暲子<鳥羽院姫宮也>、被成母后之儀云々、仍可有院号之由、自去比沙汰出来云々、(中略)今日次第頗迷可否歟、予下宿所之間、補判官代之由、蔵人告送、又迷是非、可参賀之由、相公殿有返答、仍束帯(中略)、先参内、院司事畏申旨、付如〔女歟〕、奏聞、
「今日無品内親王暲子〈鳥羽院姫宮なり〉、母后と成らせらるるの儀と云々、よって院号あるべきの由、さるころより沙汰出来と云々、(中略)今日次第頗る可否に迷うか、予宿所に下がるの間、判官代に補すの由、蔵人告げ送り、又是非に迷う、参賀すべきの由、相公殿返答有り、よって束帯(中略)、まず参内し、院司の事畏れ申す旨、女房に付け奏聞す」
※史料(c)は『院号定部類記』所引用『為親朝臣記』応保元年十二月十六日条。
二、栗山圭子説批判
「准母立后とは皇女が天皇の准母となり立后する現象」(栗山著p77)
「准母」と「立后」の二つの要素があり、栗山氏は「准母」を重視。
そして「擬制的親子関係」の「象徴的意義」を極端に強調。
「王家内部の皇統の分立状況の中で、皇女の准母立后は新天皇がいかなる皇統に繋がるものかを明示し、他皇統に対して自皇統の存在を強烈にアピールする装置として機能」(p86)
ただ、もともと幼帝の即位式において、幼帝の付き添いの必要から「准母」が生まれた。
「准母」「擬制的親子関係」だからといって、相続・被相続の関係が生まれる訳ではなく、経済的な意味はない。
しかし、「立后」となれば皇后職が設置され、多数の官人が組織され、そこに様々な利権も生まれる。
社会・経済的には「准母」よりも「立后」の方が遥かに重要ではないか。
(1)統子内親王(上西門院)の場合
後白河天皇の践祚は久寿二年(1155)七月二十四日、即位式が同年十月二十六日であるのに対し、統子内親王の立后は保元三年(1158)二月三日。
「准母」は本当に形式的。
野口華世氏の「待賢門院領の伝領」を踏まえると、旧待賢門院領の利害関係者が、新たな結集の拠点として待賢門院の娘の立后を求めたのではないか。
資料:野口華世氏「待賢門院領の伝領」(その2)〔2025-02-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec74550d0de725b3b814f6a7d05ab1f8
野口華世氏の「待賢門院領の伝領」を踏まえると、旧待賢門院領の利害関係者が、新たな結集の拠点として待賢門院の娘の立后を求めたのではないか。
資料:野口華世氏「待賢門院領の伝領」(その2)〔2025-02-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec74550d0de725b3b814f6a7d05ab1f8
崇徳院が流罪になった後、何故に後白河天皇が旧待賢門院領を承継しなかったのか。
(参考)筆綾丸さんのコメント
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df8dce2c94a874b8c31e183215fedec8
荘園に利権を持っている人々が「「荘園の本家として適合した人」=「荘園知行を守り得る本家」を選び、荘園経営の安定を図ろうとした」(野口)ので、後白河は関係者から忌避された、後白河では頼りないと思われたのではないか。
また、崇徳院の弟では再び政治的な混乱に巻き込まれるのではないか、むしろ政治と距離を置いた女性の方が適切ではないか、という判断が働いたのではないか。
(2)暲子内親王(八条院)の場合
栗山氏は、
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暲子への院号宣下は二条により発議され(a)、その間の沙汰の子細は「勅使」にみられる二条の主導があり(b)、女院司の差配も二条により行われていたことが見てとれる(c)。暲子との准母関係そのものは美福門院らによって既に設定されていたものであるが、二条は暲子を女院となし、自身の准母として正式なかたちで処遇することで、美福門院没後の自身の陣営を補強し、鳥羽の皇統の正当な後継者であることをデモンストレーションしたのである(56)。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d78f636cc0c1e9dbfc4f4844e8a9cc0
と言われる。
しかし、院号宣下の正式な手続きは二条天皇の名前で行わざるをえないだけで、実際に中心となったのは藤原伊通ではないか。
資料:永井晋氏「八条院院号宣下と二条天皇親政」〔2025-02-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/430663df9a067e8dcc014e6b73a3ef62
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