学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「おーい中村君」

2018-12-03 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 3日(月)10時15分3秒

中村政則は、諏訪の製糸工女全体に占める割合で1903年(明治36)に65.2%、1918年(大正7)に59.5%とダントツの一位である長野県を含め、工女の出身が貧農だ貧農だと騒ぐのですが、ちょっと不思議なのは、中村は長野県の農民がいったいどんな農作物を育てていると思っているのか、という点です。
長野県は江戸時代から養蚕が盛んだった土地柄ですが、明治に入ってからの製糸業の発展にともない、長野県全体の農地がどんどん桑畑になり、自作農はもちろん小作農民も養蚕に精を出すようになります。
そして、大雑把に言って生糸の製造原価の8割強は原料繭の購入代金であり、出荷額と比較しても、その8割弱が原料繭の購入代金です。
ということは、諏訪の製糸業者が生糸をガンガン売りまくると、その8割弱が養蚕農家に廻ってくる訳ですね。
もちろん長野県にも地主制は存在していましたから、製糸業者への原料繭の売主が地主の場合には、実際に養蚕に関わる小作農民に廻ってくるお金は地主の取り分を差し引いたものになり、場合によっては微々たるものなのかもしれません。
しかし、それは地主・小作農民間のパイの配分の問題であり、パイ自体はけっこう巨大なものが長野県の農村に廻ってくる訳です。
とすると、長野県のかなり多くの農家は原料繭を諏訪の製糸業者に出荷して儲け、更に子女が諏訪の製糸工女になって高賃金を得て、生糸バブルでウハウハだったのじゃないかな、などと想像されます。
少なくとも1893年8月26日の『信濃毎日新聞』の記事は、そうした状況を想定しないと理解しづらいですね。

「唯一の目的は嫁入支度に在り」(『信濃毎日新聞』1893年8月26日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77c651255e9d6c135983898444d5ff0d

ま、私も長野県の地主・小作関係については全く無知なので、中村がそれをどのように認識しているのかを含め、少し調べてみたいと思います。

若原一郎「おーい中村君」
作詞:矢野亮,作曲:中野忠晴
https://www.uta-net.com/movie/43671/
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「これらの女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(by 中村政則)(その2)

2018-12-02 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 2日(日)12時05分45秒

※前回投稿は長すぎたので、二つに分けました。

続きです。(p92以下)

-------
 このような事態は、大正期にはいってもかわらない。長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県の農業状態を見ると、いずれも、五反以下の零細農民の比率の高い県(山梨県は五反以下の層が四六・八パーセントで最高)か、小作および自小作農の多い県(山梨・新潟・富山県では全戸数の七六パーセントをしめる)か、農閑期に適当な副業をもたない県(新潟・富山県)ばかりである。小作農民あるいは五反以下の自小作農民の家庭が、女工の主要な出身階層であったと考えられるのである。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県」は、大正7年には、

長野 59.5
山梨 18.5
新潟  9.9
富山  5.7
岐阜 5.0

となっていて(単位は%)、「その他」は1.4%ですから無視してよいレベルですね。
そして中村は約6割と一番人数の多い長野県については特別なコメントをしていませんが、諏訪郡を含む長野についても「零細農民」と捉えているとすれば、私は若干の疑問を抱きます。
ま、それは後で検討するとして、続きを見ると、

-------
大正期に叔父の経営する進工社※(ヤマジョウ)に勤めて、女工募集の仕事をしたことのある明治三三年生まれの山岡直人は、当時のもようをつぎのように語った。

工女はたしかに貧しい農家の出が多かったようです。とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった。畳を敷いた家は一軒もなく、みんな菰を敷いているだけでした。大正末期から昭和初期の不況のころにかけては、とくに貧農の前借がひじょうに多かったのです。私らとしては、あまりに貧しい農家には前貸ししないように避けたのですが、ある農家にいったときはたいへんでした。家中で泣いて、おたのみ申す、おたのみ申すというのです。しまいには親類中あつまって、ぜひ前貸ししてくれろという。断るのはたいへんなことだった。一年がまんすれば年末には金がゆくのだが、貧しいのでそれをまてない。まえで借りているから、娘が帰るときには空手だ。だからまた前借りしなければならない、というような悪循環でした。それでも、これらの農家では主食は大根と玉蜀黍で、こっち(岡谷)へくれば粗悪な等外米ではありましたが、それでも米を三度三度食べられるから、娘たちはよろこんでいたくらいです。

 この話には誇張はないと思う。山梨県は甲州財閥の名で知られているように、若尾逸平・根津嘉一郎などの地方財閥を生みだすとともに、大地主の多い県であった。貧富の差ははげしく、娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた。山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって、信州寄りの北巨摩郡や中巨摩郡からは、たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていたのである。
-------

ということで、悲しいエピソードには違いないのですが、素材も中村の解説も山梨県に偏り過ぎではないか、という印象を受けます。
山岡直人なる人物も「とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった」と言っていて、全体の6割と一番重要な長野県については、中村のように「娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた」とは認識していないようですね。
また、中村は「山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって」と述べるのですが、まあ、普通に考えれば、山梨県の工場より諏訪の工場の方が賃金が高かったから「たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていた」のではないですかね。
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「これらの女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(by 中村政則)(その1)

2018-12-02 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 2日(日)11時19分41秒

それではまず、中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)から「女工の出身地」と題する部分を紹介します。(p90以下)

-------
 明治三〇年代の製糸女工の実態を知るうえで欠かすことのできないのは、明治三六年(一九〇三)に農商務省商工局工務課の工場調査掛が刊行した『職工事情』(全五巻)である。この調査は、工場法の制定を審議するにあたって、まず労働者の実態を政府がよくつかんでおく必要があるとの認識からおこなわれたもので、付録には各府県からの労働実態アンケートや関係者の談話などがおさめられている。この報告書の主要部分は、『綿糸紡績職工事情』『生糸職工事情』で、女工にかんする実態が数多くのデータをもって克明に記録されている。
-------

『生糸職工事情』を実際に読んでみると、本文は50ページほどで、「克明」というのは若干大袈裟な感じもします。
また、単に製糸業者から聞き取った内容をそのまま書いただけで、しっかり考察した訳でもなさそうな記述も多いですね。
ま、そうはいっても、もちろん貴重な記録ではあります。

-------
 これによれば、製糸工場の労働者の九〇%以上が女工であり、しかもそのほとんどは未婚の娘たちであった。「生糸工女ノ多数ハ十六、七歳乃至廿一、二歳トス。而シテ多クハ未婚者ニシテ、稀ニ既婚者ヲ見ルノミ。彼等ノ工女トナルヤ十六、七歳ニ始マリ、結婚期ニ及ベバ乃チ退場(退職)スルヲ常トス」とあるように、女工の多くは貧しい農家の娘たちであって、いわば嫁入りまえの口べらし、あるいは家計補助的な賃金を得るために糸引きに出るのがふつうであった。女工には通勤女工と寄宿女工との二種類があったが、どちらかといえば寄宿女工は大工場に多く、通勤女工は小工場のほうに多かった。すでに述べたように、遠隔地募集がおこなわれるようになると、しだいに出稼ぎ型の寄宿女工が支配的となっていったようである。
-------

「女工の多くは貧しい農家の娘たちであって、いわば嫁入りまえの口べらし、あるいは家計補助的な賃金を得るために糸引きに出るのがふつうであった」とありますが、『生糸職工事情』には女工の出身階層についての記述は特になく、これらは全て中村の解釈・主張であって、ちょっと紛らわしい書き方ですね。

-------
 岡谷製糸業における女工の出身地は、次ページの表のように、明治三十年代にすでに他郡出身者が諏訪郡をうわまわっている。そして、長野県内ではとくに上伊那郡と東筑摩郡出身者が多く、県外では山梨・岐阜の両県で全女工の三〇%前後が供給されている。大正期にはいると新潟県と富山県出身の女工がふえてくるが、明治期にはまだ全女工の四、五パーセントをしめるにすぎない。これらの女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった。昭和四〇年、私は明治四三年の山梨家の一製糸工場における女工の出身階層をしらべたことがあるが、それによると八一パーセントの女工が三反以下所有の零細農家から析出されており、これを七反歩で切れば、じつに九二パーセントの女工がこれら零細農家から送り出されている。
-------

中村が『平野村誌』下巻から作成した「岡谷に働く製糸女工の出身地」という一覧表を見ると、明治36年(1903)と大正7年(1918)の「長野県内」「長野県外」からの人数が書かれています。
「長野県内」は郡毎に細分化されていますが、「長野県外」は県名のみで、山梨・新潟・富山・岐阜の四県と「その他」となっています。
そして、「長野県内」の小計は明治36年には2,689人で全体の65.2%、大正7年には14,589人で全体の59.5%ですね。
また、総計は明治36年には4,125人、大正7年には24,526人と、僅か15年の間に約6倍になっており、諏訪の製糸業の膨張のすごさが窺われます。
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「唯一の目的は嫁入支度に在り」(『信濃毎日新聞』1893年8月26日)

2018-12-01 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 1日(土)21時18分49秒

二つ前の投稿で、

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(1)については、少し前の「女工の出身地」という部分で、『生糸職工事情』から「女工の多くは貧しい農家の娘たち」(p91)だったとか、岡谷製糸業における「女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(同)などと言っているのですが、『生糸職工事情』にはそんなことは書かれておらず、また、中村は「明治四三年の山梨県の一製糸工場における女工の出身階層をしらべたことがある」(同)だけで、日本全国はもちろん、諏訪の製糸工場に限っても、「製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること」は全然証明されていないですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7f625b2fffaf3361a9cb1c002819fbe

と書いたことは、対象を黒く描いてからその黒さを批判するというやり方であり、あまり芳しいものではなかったので、公平を期すために中村の言い分は全て紹介しようと思います。
ついでに「インド以下的低賃金」に関する部分(p168以下)も紹介します。
まあ、説教臭くてビンボー臭い話がちょっと続くことになりますが、事前の毒消しとして、そうした左翼版の勧善懲悪物語とは異質な史料をひとつ紹介しておきます。
中林真幸氏の「製糸業における労使関係の形成」(『史学雑誌』108編6号、1999)からの引用です。(p21以下)

-------
  三 優勝劣敗・賞罰必至・自働自営

 最後に、諏訪製糸業と社会との結節点としての、工女の生活と心性について検討しよう。

史料二〇 〔「諏訪製糸工女」、『信毎』一八九三年八月二六日〕

唯一の目的は嫁入支度に在り 女子十一二才より二十才位に至るまで、貴賤貧富の別なく殆ど製糸工女とならざるものなく、而して其得る所の金銭は、未来に於ける事業の資本となるにあらずして、皆之れ変じて不生産的の虚飾品、即ち彼等の嫁入支度となる、希望は辛苦に克つ、彼らが星を戴いて出で月を踏んで帰へり太陽を見ること稀に終日孜々として稼ぎ溜むる所の目的は、一に彼等が他に嫁入る時に着飾る綾羅を得んが為めなり、左れば此地方に於て婦女が熱心に語る所のものは嫁入支度の多少にして、母親の十七八才に至れる娘を持てるものは、明け暮れ娘の支度を案じ煩ひ殆んど寝食を忘れて心配し、其支度を多くせんがためには、故らに嫁期を延して二十才以上となし(娘も亦支度が少なければ世間へ対し外聞悪しとて動かず)、中等の家にても箪笥三個、長持一個、振袖拾枚(一枚金五円位より二三十円までにて大抵十円前後が多し)を持たせて遣るを通常とし、尚ほ追々華奢に趨むく風あり。

 諏訪郡の農家の娘が製糸工女となる動機が「嫁入支度」にあり、そのために長時間労働を甘受するという指摘は、工女の「家」に対する「没人格的融合関係」の指摘とも合致する。製糸家が盆暮に工女に「贈物」を与える場合にも、「帯」、「着物」、「箪笥」、「長持」といった「嫁入支度」の要求に積極的に対応した(『信毎』一八九五年一一月二九日)。
-------

この新聞記事は「百円工女」続出の1919年(大正8)ではなく、その四半世紀前のものですね。
中村の「女工の多くは貧しい農家の娘たち」「女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」などという主張とは矛盾しそうですが、果たして中村の主張が基本的には正しくて、上記は諏訪だけの極めて例外的な事象なのかが問題となりそうです。
なお、<「没人格的融合関係」の指摘>は、注37を見ると東條由紀彦『製糸同盟の女工登録制度』(東大出版会、1990)p55の見解ですが、中林氏が東條氏に賛成しているらしいのはちょっと意外ですね。
東條由紀彦氏は少し変わった、癖のあるタイプの研究者で、私は中林氏の『近代資本主義の組織』を読む前に『製糸同盟の女工登録制度』を四苦八苦しながら読んでしまい、順番を間違えたなとちょっと後悔しました。

東條由紀彦(明治大学サイト内)
https://www.meiji.ac.jp/keiei/faculty/01/toujyo.html
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「糸目テトロ」の謎

2018-12-01 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 1日(土)18時11分47秒

>筆綾丸さん
>ティトラツィオーネとは糸の等級を決める作業のこと

山本茂実『あゝ野麦峠』を見たら、

 工女殺すにゃ刃物は要らぬ
 糸目テトロ(検査)でせめ殺す

とありますね。(角川文庫版、1977、p95)
中村がテトロを「繊度」としているのに対し、山本は「検査」であり、また、「しめ殺す」ではなく「せめ殺す」ですね。
そもそも「糸目」とは何かというと、中林『近代資本主義の組織』によれば「原料繭1杯(4升=7.216リットル)当たりの繰糸量」です。
中林著から「第2部 工場制工業の発展」「第5章 賃金体系による誘因制御」の関連部分を引用してみると、

-------
3 近代製糸業における賃金決定の仕組み

 それでは, 諏訪郡の近代製糸業における女性繰糸労働者の賃金決定の概要を確認しておこう. 労働者は寄宿舎に生活し, 食費をはじめとする生活費は企業が負担する. 労働者の賃金は, 年度末(12月)に一括して支払われる. この賃金を決定するために, 1900年代半ば以降, 企業は各女性繰糸労働者について,

・労働生産性:「繰目〔くりめ〕」. 1労働日(人工〔にんく〕)当たりの繰糸量.
 単位は匁(3.75グラム).
・原料生産性:「糸目〔いとめ〕」. 原料繭1杯(4升=7.216リットル)当たりの繰糸量.
 単位は匁. いかに原料繭を節約しているかが問われる.
・生糸の繊度の均一性:繰糸された生糸の繊度(太さ)のばらつき. 繊度の単位
 「デニール」によって計られる. いかに繊度の均一な生糸を繰糸しているかが問われる.
・生糸の光沢:繰糸された生糸の光沢の良し悪し.

の4項目の検査結果を記録するようになった. 原料生産性, 繊度の均一性, 光沢はいずれも丁寧な繰糸作業によって向上し, 労働者の能力と努力水準を所与とすれば, 労働生産性とはトレード・オフの関係にある. それらは半月ごとに項目別に集計され, さらに12月下旬の閉業後に合計されて年間成績が算出された. この成績点から, 相対評価に従って賃金額が決定される. すなわち, 同一期間, 同一業務に従事する全労働者の平均成績に対する, 各労働者の成績の総体的な優劣によって, 各労働者の賃金額が決定された. 【後略】
-------

ということで(p248)、糸目と繊度(太さ)は関係ありません。
そして、山本の「検査」で意味は通り、筆綾丸さんご指摘の「ティトラツィオーネとは糸の等級を決める作業のこと」と整合性も取れるので、こちらが正しいようですね。
うーむ。
1976年の中村助教授、何故にここまで雑なのか。
時間と手間を無駄にさせられて「しめ殺」したくなる、とまでは言いませんが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

テトロ 2018/12/01(土) 12:28:16
小太郎さん
いえいえ、こちらこそ勉強になります。

https://ja.glosbe.com/it/ja/titolo
La titolazione è l'operazione che determina il titolo di un filo o di un filato.
は、ティトラツィオーネとは糸の等級を決める作業のことである、と訳せ、titolo 本来の意味は等級で、糸とは無関係ながら、製糸業の世界でテトロに繊度という意訳が定着したのでしょうね。
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「インド以下的水準にある」研究者たち

2018-12-01 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 1日(土)12時23分3秒

中村政則は「女工賃金は一家を養うだけの高さを必要とせず、家計の補充になれば足りるということから低賃金でもすむ」などと頻りに製糸工女が「低賃金」であったと強調するのですが、そもそも何と比べて低いのか。
普通の論理的思考力のある人だったら、諏訪の笠原製糸場の「女工の賃金用途」を縷々分析した後に「低賃金」について述べている以上、製糸工女が同じ製糸工場で働く男子労働者より「低賃金」であったとか、他の地域の工場で働く製糸工女より「低賃金」であったとか、あるいはもっと一般的に、同年代の他の職業に従事する女子労働者より「低賃金」であったとか、比較の対象を明示するはずですが、中村が何と比較して「低賃金」と言っているのか、私には理解できません。
中村は山田盛太郎の『日本資本主義分析』に言及して、「(山田が)女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあることは証明されたが(一六八ページ以下参照)」などと言っているので、インドの紡績女工と比較しているのかな、とも思いますが、そもそもインドと比較して何の意味があるのかが分かりません。
山田盛太郎や中村は、自分がインドの大学教授・助教授より高い賃金をもらっていることが「判明」すれば喜ぶのか。
逆にインド以下であることが「判明」したら嘆き悲しむのか。
まあ、インドへの言及とかになると、「講座派」のディープな世界に通暁している特殊な研究者以外にはさっぱり理解できないし、説得力もないですね。
さて、改めて中村の頓珍漢な主張をできるだけ分りやすく理解しようと努めてみると、中村は、「女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあること」は山田盛太郎に丸投げして「証明」したことにした上で、

(1)製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること
(2)その賃金の圧倒的部分は家計補充部分として一家の家計を補充していること

を自分が「証明」したと言いたいようです。
(1)については、少し前の「女工の出身地」という部分で、『生糸職工事情』から「女工の多くは貧しい農家の娘たち」(p91)だったとか、岡谷製糸業における「女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(同)などと言っているのですが、『生糸職工事情』にはそんなことは書かれておらず、また、中村は「明治四三年の山梨県の一製糸工場における女工の出身階層をしらべたことがある」(同)だけで、日本全国はもちろん、諏訪の製糸工場に限っても、「製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること」は全然証明されていないですね。
また、(2)については、たかだか笠原製糸場という諏訪の一工場の「女工の賃金用途」を調べただけでずいぶん壮大なことを言っているのですが、阿呆としか思えません。
中村が笠原製糸場の「女工の賃金用途」を分析して分かったことは、せいぜい女工が得た賃金が家計内でどのように配分されたか、だけであって、笠原製糸場の女工が「低賃金」だったどうかの問題とすら全く関係ありません。
まあ、普通に考えれば、少なくとも1919年の賃金はどう見ても「高賃金」だと思いますが、中村は「大正八年は生糸ブームで糸価が高騰し、平均賃金が一〇〇円をこえ、「百円工女、百円工女」といって農家をおどろかせた年でもあった」などと言いながら、素通りしていますね。
以上、私は現在の研究水準に照らして、中村政則が古臭いことを言っているから駄目だ、と批判しているのではなく、1976年に中村が書いた文章だけを見て、何の論理性もなく、支離滅裂だなと思っている訳です。
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