学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「「分鋳」と見誤ることは充分ありうることである」(by 前田耕作氏)

2020-07-10 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月10日(金)21時36分10秒

>筆綾丸さん
>玄奘の間違いなのか、

今日、図書館から前田耕作氏の『アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン』(晶文社、2002)を借りてみました。

-------
2001年、バーミヤンの大仏はタリバンによって爆破され地上から消失した。ヘレニズム都市や多くの遺跡が未発掘のまま眠るこの国でフィールドを重ねた第一人者が、貴重な資料を駆使し、バーミヤンの谷に秘められた東西文化交流の輝きを再現する。中央アジアの歴史と文化の広がりが見えてくる雄大な文化史。図版200点、カラー24頁。


まだ、全然読めていないのですが、パラパラめくってみたところ次のような記述があったので、取り急ぎご紹介まで。(p124以下)

-------
 玄奘は西の大仏を拝したあと、その東にある伽藍を訪れた。この伽藍はおそらく摩崖の前にあったと思われる。【中略】
 この伽藍の東に「鍮石〔とうせき〕の釈迦仏の立像」があった。鍮石とは「一種の真鍮」であるという。つまりこの高さ「百尺余」の大仏は鋳造の金仏であり、「身を部分に分けて別に鋳造し、合わせてできあがった」ものであると玄奘は記している。しかしいま、私たちが目にするこの大仏は石造であり、鍮石の像ではない。玄奘が鍮石としたのは「もともと地塗りを赤でし、その上に金を置いた」(フーシェの説)のを見誤ったのか、この石像が鋳造の外被で覆われていた(タルボットの説)のか、諸説いずれも断じがたいが、すでに彩色の剥落した地〔じ〕のままの大仏を眺めると、腰のところが継いだように見え、彫像そのものが分造された印象を与える。その上に金を置いたとすれば、「分鋳」と見誤ることは充分ありうることである。大仏をよく見ると、西の大仏の衣に朱色がよく残り、東の大仏の衣に黄色がかすかに見える。イスラーム時代、この二体の大仏が「赤像〔スルフ・ブト〕」、「白象〔ヒン・ブト〕」と呼び分けられていたことが理解できる。イランの文献学者モハンマド・カズヴィーニーはバーミヤンに「金色堂」があったといっているが、大仏がまだ黄金の輝きを失っていなかった二つの大仏龕の存在を示唆しているのであろう。
-------

>キラーカーンさん
サッカー選手の方が有名でしょうが、こちらは「俊輔」ですね。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記四つの投稿へのレスです。

Saxa loquuntur 2020/07/09(木) 14:51:19(筆綾丸さん)
小太郎さん
『フロイトのイタリア』「? 石は語る」を眺めてみました。
--------------
ところで、なぜ父親の死が蒐集のきっかけとなったのか。それには幾つかの理由が考えられるだろう。(中略)異教の偶像たちを集めるという行為は、つまるところ、ユダヤのタブーを二重に侵犯することにほかならない。すなわち、一神教にたいして多神教的、偶像崇拝の禁止にたいして偶像崇拝的な行為なのである。それゆえ、熱心なユダヤ教徒であった父親の生前には、さすがに抑制が働いていたのであろう。ところが、この抑制から解放されてからは、一転して息子は、まるで堰を切ったかのように、発掘品や骨董品を漁りはじめるのである。(中略)あたかも、ユダヤのアイデンティティをみずからすすんで突き崩していくかのように。(170頁)
--------------
サクサ・ロクウントウール(石は語る)はラテン語の三人称複数形で Saxa loquuntur と書くようですが、興味深い記述ですね。フロイトは、人が手を加えた石(彫刻)には異常な所有欲があるものの、自然が手を加えた石(浜辺の小石など)には全く興味がないのですね。もっとも、アナロジーふうに言えば、精神病理は前者に関わるものであって後者ではないから、精神分析学者フロイトにしてみれば当然のことなんですが。 

祭壇画 2020/07/09(木) 15:34:20(筆綾丸さん)
https://www.nytimes.com/2020/01/27/arts/design/mystic-lamb-ghent-altarpiece-van-eyck.html
宗教画の修復に関して、年初、ヘントの神秘の仔羊が話題になりましたね。
原画完成(1434)の後、プロテスタントの宗教改革とカトリックのトレント公会議によって神学の解釈が変わり、その影響を受けて、16世紀中葉、第三者の手で描き変えられたため、ファン・アイクの意図は隠蔽されてしまい、神の仔羊は passive lamb に成り果てたが、修復により active lamb として蘇った、つまり、仔羊の目は Christ is aware of his sacrifice. を表しているのだ、というのが、フェイク・ニュース(修復後の仔羊の顔はアンドロイドのようだ)に苛々しているデユボア女史の見解のようですね。

駄レス 2020/07/10(金) 00:16:04(キラーカーンさん)
お久しぶりです
>>中村俊介
別人のサッカー選手を思い浮かべてしまいました

鍮石の釈迦仏とは? 2020/07/10(金) 14:22:16(筆綾丸さん)
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-18H03591/
玄奘『大唐西域記』に、
-------------
王城の東北の山のくまに立仏の石像の高さ百四、五十尺のものがある。金色にかがやき、宝飾がきらきらしている。東に伽藍がある。この国の先の王が建てたものである。伽藍の東に鍮石の釈迦仏の立像の高さ百尺余のものがある。身を部分に分けて別に鋳造し、合わせてできあがっている。(中村俊介『世界遺産ー理想と現実のはざまで』3頁~)
-------------
とあります。
これによれば、バーミヤンの大仏は、鍮石(黄銅を含む石)の岩をくりぬいたものだから金色に輝いているという訳ではなく、奈良東大寺の大仏のように、各部を銅で鋳造して合成したものだから金色に耀いている、ということになってしまうと思いますが、これは石仏の表面に薄く銅が貼り付けてある、ということなのか、意味がよくわかりません。玄奘の間違いなのか、訳が曖昧なのか、私の認識不足なのか。・・・・・・

追記
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Anastylosis
アナスティローシスの語源はギリシャ語なんですね。ネクローシスやアポトーシスと同じ医学用語みたいですが。
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バーミヤン大仏の再建問題(その3)

2020-07-09 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月 9日(木)10時39分56秒

中村俊介氏の『世界遺産─理想と現実のはざまで』に戻ります。
中村俊介というとTVドラマで名探偵浅見光彦を演じている有名俳優を連想しますが、中村氏は俳優業の傍ら執筆活動にいそしんでいる訳ではなくて、同姓同名の朝日新聞大阪本社編集委員ですね。

-------
「国際社会で人類の至宝を守り,後世に手渡す」の理想を掲げ,観光資源としても注目される世界遺産.だが,登録物件が増え続けるなか,いくつもの遺産が危機に瀕し,また各国の政治的介入が常態化するなど課題や矛盾が噴出し始めている.数々の世界遺産の現場を訪ね歩いたジャーナリストがその「光と影」に目を向けながら,文化遺産保護の未来について考える.

https://www.iwanami.co.jp/book/b470996.html

さて、前々回投稿で引用した部分の続きです。(p6以下)

-------
 二〇一七年秋、東京藝術大学で国際会議が開かれ、再建問題をテーマに国内外の専門家八〇人が議論した。対象は東大仏。ここでは四つのグループがそれぞれのアイデアを提案した。
 ミュンヘン工科大学やドイツイコモスのチームは、残った破片をつなぎ合わせて元の形を再現しようというシンプルな考え。歴史的記念物保護の基本理念となっているヴェニス憲章は憶測による無制限な復元をきつく禁じており、極力オリジナルの素材を利用してパズルのように組み合わせていく、いわゆるアナスティローシスという手法である。ただ、ダイナマイトに吹き飛ばされた大仏のオリジナル素材がはたして何割遺存しているのか、大仏の面影が残る表面だけならばともかく、少なからぬ内部の破片の原位置を正確に特定することなど物理的に可能なのか、といった疑問が残る。ドイツ隊は当初から大仏の再建を考えていた節があるけれど、言うは易し行うは難し、といったところか。
 おなじくドイツのアーヘン大学は、基礎の上に骨組みを作り、その上に粘土を積み上げていく方式を提案。ただこれも、これだけ巨大な像だけに、その重量で変形しないかなど技術的な不安はぬぐえない。イタリアチームは、大仏の骨組みを組んで、そこに薄く削りだした大理石を貼り付けようとの構想。いかにもイタリアらしい芸術的な案だが、大理石の輝きを放つ大仏とは、ちょっと想像がつかない。
 一方、日本チームの提案は、いまはなき大仏の跡地をそのままにして再建は行わず、代わりに、丘の上の景観を損なわない場所に新たなモニュメントとして、強化プラスチックでミニチュア版の大仏を造ってはどうか、というもの。大仏だけなら約二億円、仏龕などを含めて周囲まで造り込めば一三億円というからそれなりの構造物だが、資金的に他を上回ることはあるまい。破片などを収容する博物館施設の建設も検討するという。人類が教訓とするべき負の遺産としての歴史的文脈に配慮した考え方とでも言えようか。
-------

いったん、ここで切ります。
2017年に行われた国際会議の概要は「東京藝術大学社会連携センター ユーラシア文化交流センタープロジェクト」サイトで見ることができます。
なぜ東京藝術大学で開催されたかというと、「経緯と趣旨」に、

-------
 2001年、バーミヤン大仏が爆破された直後から、東京藝術大学学長であった故平山郁夫画伯は、海外へ流出したアフガニスタンの文化財保護を国際社会に訴え、自らも「流出文化財保護日本委員会」を組織し、ブラックマーケットなどを通じて日本に辿り着いたアフガニスタン流出文化財を「文化財難民」として保護・保管活動を始めました。このとき集められた102点にのぼる流出文化財は、東京藝術大学の手で一部保存修復の措置が施され、2016年、無事に母国帰還を果たしました。またそれと併行して、東京藝術大学では爆破されたバーミヤン東大仏天井壁画の復元と展示公開に取り組むなど、アフガニスタンの文化財保護に向け、幅広い活動を展開しています。【後略】

https://www.eurasia-geidai.org/bamiyanfuture

とあるように、アフガニスタン文化財保護活動が元学長・平山郁夫(1930-2009)の遺産としての一面を持つからですね。
中村氏が描いている国際会議は、このサイトに紹介されている三つの国際会議の内の一番最初のものです。

-------
①国際会議「大仏再建に関する国際専門家会議」(非公開)

2017年9月27日(水)~29日(金)

 アフガニスタン政府関係者及び各国の専門家が一堂に会し、これまでのバーミヤン保護事業の成果を踏まえた上で、文化財の意図的な破壊と大仏の再建を取り巻く歴史的な側面、修復倫理的な側面、技術的な側面、政治社会的な側面などが議論される予定です。それに引き続き、国際公募による5件程度の大仏再現案が提示されます。
-------

「国際公募による5件程度の大仏再現案」とありますが、プログラムを見ると、

Proposal 1 )
Germany (ICOMOS Germany, Lehrstuhl für Restaurierung, Kunsttechnologie und
Konservierungswissenschaft Technische Universität München)
Proposal 2 )
Germany (RWTH Aachen University, German University of Technology in Oman,
Fraunhofer Institute for Applied Information Technology)
Proposal 3 )
Italy (UNESCO Chair on Prevention and Sustainable Management of Geo-Hydrological Hazards,
University of Firenze, Andrea Bruno, TORART, Zamani Project)
Proposal 4 )
Japan (Tokyo University of the Arts, Mukogawa Women’s University)

https://1787c8a0-fa28-40f5-9340-38f2cc7d60e9.filesusr.com/ugd/58a395_09e5751d7e3b4990944c422bc258c8f6.pdf

ということで、四つだけですね。
そして二つはドイツですから、ドイツはずいぶん熱心です。
あるいは「足」再建をめぐるトラブルの汚名を挽回したいという意図もあったのでしょうか。
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バーミヤン大仏の再建問題(その2)

2020-07-08 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月 8日(水)13時00分25秒

前回投稿で紹介した「The Art Newspaper」の2014年2月6日付記事、ドイツ人の言い訳の見事さを鑑賞するために前半を翻訳しておきます。


この件で興味深いのは、大仏脚部の再建が現地に派遣されたドイツの一部考古学者の暴走によって勝手に行われたのではなく、イコモス(国際記念物遺跡会議)ドイツ支部の組織的関与、しかもイコモス本体の会長を長く務めた著名学者であるミヒャエル・ペツェット氏の指導の下に行われた点ですね。

-------
アフガニスタンの遺跡保存

ユネスコは像の一つを部分的に再建したドイツの考古学者たちの行為は「犯罪との境目」と主張

ドイツの考古学者チームが、2001年にタリバンによって爆破されたアフガニスタンの二体のバーミヤン大仏の小さい方の脚部を再建した、とのニュースは国際社会の憤激を呼んだ。ユネスコに知らされず、その許可もないまま行われたこの再建に関するニュースは、12月にイタリアのオルヴィエートで開催されたユネスコのバーミアン作業部会の第12回会議において明らかにされた。

イコモス(国際記念物遺跡会議)ドイツ支部の考古学者のチームは、昨年、ほぼ一年をかけて小さい方の大仏の脚部を鉄筋と強化コンクリート、レンガで再建した。このチームを率いたのは1999年から2008年までイコモス会長を務めたミヒャエル・ペツェット氏である。ユネスコの事務局長補、フランチェスコ・バンダリン氏は、この工事は「あらゆるレベルで間違っている」と述べる。「ユネスコはこのプロジェクトとは何の関係もない。工事はアフガニスタン政府の同意なしに行われたもので、既に中止された」と彼は言明する。

過去40年間、ユネスコの建築顧問を務めてきたアンドレア・ブルーノ氏は、この作業が「仏像を再建しないという[2011年に行われた]ユネスコの決定に反して」行われたことを確認した上で、ユネスコは当該工事が進行中であることを決して認識していなかった、と述べる。 ブルーノ氏は、この工事は「犯罪との境目にある不可逆的な損害」を惹起したと語った。そして、昨年3月に彼がアフガニスタンを訪問したとき、この工事はまだ始まっていなかったと付け加えた。

ペツェット氏は記者に、彼と彼のチームは「保存できるものを保存したかっただけだ」と語った。 彼は「私達がした作業の全てはアフガニスタン当局との話し合いの上で行われた。このプロジェクトに目新しいものはない」と話した。しかし、バンダリン氏は、彼がこの工事を止めるようにアフガニスタンの文化大臣に依頼した時、大臣は当該工事を知らなかったと言う。

ペツェット氏は、彼のチームの資金は当初、ユネスコから提供されていたと言う。バンダリン氏は、ユネスコが「訪問者を落石から守るためのプラットホームを(小さい方の大仏があった場所に)建てる契約をイコモスドイツ支部と結んだ」ことは認めたが、再建は契約の一部ではなく、ユネスコは解体を望んでいると繰り返し述べた。

問題は、ペツェット氏のチームが誰にも気付かれずにこのような大規模な工事をどのように実行したのか、ということだ。「アフガニスタンの遠隔地では、このようなことが起こる可能性がある」とバンダリン氏は言う。「特に、彼らは何年も前からそこで働いていたから」。 1965年に設立され、世界中の遺産を保護するために活動するイコモスは、世界遺産に関してユネスコに助言は行うが、世界遺産の管理、保存、修復はユネスコが責任を負っている。 ユネスコの専門家は、イコモス中央事務局に対して、今月初めまでに、アフガニスタン当局に報告書を提出するよう要請しており、更に6月には、本件に関する追加報告書を世界遺産委員会に提出するよう要請している。【後略】


ミヒャエル・ペツェット氏は去年亡くなられたそうで、ユネスコの公式サイトに、その追悼記事がありますね。

-------
In Memoriam: Michael Petzet
Friday, 31 May 2019

The team of the UNESCO World Heritage Centre would like to express its sadness after learning that former President of ICOMOS International, Prof Michael Petzet passed away on 30 May 2019.


この記事の中に、

As an example of his fieldwork, he undertook many missions to Afghanistan with the UNESCO team, where he was leading projects on the safeguarding of the remains of the Bamiyan Buddhas. He always inspired others with his unconventional creativity and his deep knowledge of cultural heritage.

とありますが、「彼はいつも型破りな創造性(unconventional creativity)と文化遺産についての深い知識で他の人を刺激しました」という表現には若干の皮肉が込められているような感じもします。

Michael Petzet(1933-2019)

>筆綾丸さん
>アドリア海を望む小綺麗な港町ブリンディジ(Brindisi)

最近、知らない地名を見ると、当該地名に「drone」を加えてユーチューブで検索してみたりしているのですが、確かに綺麗な町ですね。
あまりイタリア南部らしくない、といったら失礼かもしれませんが。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

南伊紀行(続き) 2020/07/07(火) 17:50:57
クロトーネから海沿いの道をメタポントまで行きヘラの神殿趾を見て、ターラントで昼食を摂り、さらに東進して、アドリア海を望む小綺麗な港町ブリンディジ(Brindisi)へ行きました。アッピア街道の終点であり、鷗外の『舞姫』(1890)の初めの方に、「嗚呼、ブリンヂイシイの港を出でゝより、早や二十日あまりを経ぬ」とあるところで、停泊中のクルーザーを眺めながら、明治のエリートは独逸留学を終えて此処から日本に帰ったのか、往事は渺茫として夢幻の如くだな、などと感慨に耽りました(Brindisi 末尾の si はイタリア語では濁音になるのですが、鷗外は清音で表記しています)。なお、フロイトと同じユダヤ人のメンデルスゾーンはイタリアを訪れて、名曲『イタリア』(1831-33)を作曲していますね。
四大マフィアの勢力図で言えば、クロトーネやメタポントを含むカラブリア州はヌドランゲータ(Ndrangheta)の支配地で、ターラントやブリンディジを含むプッリャ州はサークラ・コローナ・ウニータ(Sacra Corona Unita)の支配地です。これらマフィアは、中近東からの麻薬とアフリカからの難民で、ずいぶん儲けているようです。
霊魂は輪廻転生し、万物は自然数で表現できる、というピタゴラスの浮世離れした思想の残滓は、もはや何処にもありません。
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バーミヤン大仏の再建問題(その1)

2020-07-07 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月 7日(火)11時20分26秒

宗教に無関係な人々が宗教的遺物を熱心に再建しようとしている事例としては、バーミヤン大仏が興味深いですね。
朝日新聞編集委員・中村俊介氏の『世界遺産─理想と現実のはざまで』(岩波新書、2019)から少し引用してみます。(p4以下)

-------
 イスラム原理主義勢力のタリバーンがバーミヤンの遺跡群を破壊したのは二一世紀になってすぐ、二〇〇一年のことである。度重なる国際社会の制止にもかかわらず、彼らは大仏破壊という暴挙に出た。爆破に至るまでの詳しい経緯には謎も多いが、いずれにしても、歴史遺産がいわば「人質」として駆け引きの具に利用される先駆けとなってしまったのは確かだ。
 タリバーン支配の崩壊後、国際社会の動きは早かった。イタリア、ドイツ、そして日本のチームがバーミヤンの修復に名乗り出る。戦乱の余韻さめやらぬ二〇〇二年にカブールで開かれた国際会議では、とりあえず大仏の再建問題は先送りに。技術論的な熟度に見解のばらつきがあったのは当然として、少なからぬ関係者には、大仏の無残な姿に人類が犯した歴史的過ちを留めておきたいとの思いもあったのではなかろうか。だが、その後に催されたパリやアーヘン(ドイツ)での国際会議に、再建をめぐる声が消えることはなかった。
 二〇一三年、予想もしない出来事が起こった。破壊された東大仏の足元に、突如として日本の足首がドイツの手で造られたのだ。なんとも異様な光景だった。
 聞くところによれば、ドイツ隊は落石を防止するための屋根の土台だと言い張ったそうだが、写真を眺める限り、どう見ても「足」だ。将来の大仏再建に向けた布石と見られたが、その後、なぜか作業は中止され、そのままの状態で放置されているという。
 だが、この出来事は先送りにされてきた、大仏再建は是が非かという難問の封印を解くことになった。二〇一六年、イスタンブール(トルコ)での第四〇回世界遺産委員会では、アフガニスタン政府は少なくとも一体の大仏の再建を要請したといい、地元でも賛同する論調が出始めたようだ。
-------

いったん、ここで切ります。
爆破に至る経緯は、ウィキペディアの英語版には割と詳しく出ていますね。
写真も日本語版より豊富です。

Buddhas of Bamyan
https://en.wikipedia.org/wiki/Buddhas_of_Bamyan

そしてドイツ隊が作った「足」ですが、これについては「インターネットアーカイブ」に関係記事が保存されています。
それによると、

-------
Organisation says actions of German archaeologists who have partially rebuilt one of the statues “border on the criminal”
By Alessandro Martini and Ermanno Rivetti. News, Issue 254, February 2014
Published online: 06 February 2014

The international community has reacted furiously to news that a German-led team of archaeologists has been reconstructing the feet and legs of the smaller of the two Bamiyan Buddhas, the monumental Afghan sculptures blown up by the Taliban in 2001. News of this reconstruction, which has taken place without Unesco’s knowledge or permission, was revealed during the 12th meeting of Unesco’s Bamiyan working group, in Orvieto, Italy, in December.

A team of archaeologists from the German branch of Icomos (the International Council on Monuments and Sites), led by Michael Petzet, who himself served as the head of Icomos from 1999 to 2008, spent most of last year rebuilding the smaller Buddha’s lower appendages with iron rods, reinforced concrete and bricks, an operation that Francesco Bandarin, Unesco’s assistant director-general for culture, describes as “wrong on every level”. He says: “Unesco has nothing to do with this project. It was undertaken without the consent of the Afghan government and has now been stopped.”

https://web.archive.org/web/20150115033225/http://www.theartnewspaper.com/articles/Unesco-stops-unauthorised-reconstruction-of-Bamiyan-Buddhas/31660

とのことで、中村氏の言われる「ドイツ隊」とはイコモスドイツ支部の考古学者のグループなんですね。
写真を見ると、確かに「足」ですね。
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クロトーネとピタゴラス教団

2020-07-06 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月 6日(月)18時37分55秒

>筆綾丸さん
>ターラント湾を望む靴底の町クロトーネ

『フロイトのイタリア─旅・芸術・精神分析』の第Ⅰ章「イタリアからの便り、前篇」によれば、

-------
 フロイトは、知る人ぞ知る大のイタリア通であった。その生涯で二十数回もイタリアの土を踏んでいる。記念すべきその第一回目は、一八七六年の春にウィーン大学の医学生として、付属の海洋生物学実験所のあるトリエステに奨学生として送り込まれたときのことであった。このときの研究課題が、「ウナギの生殖腺」についてだったというのは、来たるべき性の探求者にとって、どこか象徴的である。
-------

とのことですが(p5)、当時のトリエステはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったので、正確にはイタリア旅行とも言えないようですね。
この後、約二十年もの間、ブランクがあって、次にフロイト(1856-1939)がイタリアを訪問したのは1895年だそうです。

-------
 ところで、なぜ彼は二〇年もの長いあいだ、憧れのイタリア行きをためらっていたのであろうか。それには幾つかの理由が考えられるだろう。けっして楽だったとはいえない懐事情、みずからも認める鉄道不安、ヨゼフ・ブロイアーとの共著でちょうど一八九五年に上梓された『ヒステリー研究』のための準備など。
 だが、話はもっと複雑で、しかも精神分析の誕生というトピックの根幹にまでかかわる重要な問題をはらんでいるように思われる。というのも、イタリア旅行にくわえて、それと関連するような幾つかの出来事が、この一八九五年以後の数年間に集中しているからである。しかもこの時期は、フロイトが、神経生理学者から精神分析の開拓者へと変身を遂げる時期ともぴったり重なるのである。
 一八九五年にイタリア旅行を再開─実質的には開始─したフロイトは、これを機に、それまでとは打って変わって、まるで心のわだかまりでも解けたかのように、ほぼ毎年、夏になると南の国への思いを抑えきれず、鉄道不安を克服しながら長靴の半島をすすんで南下していくことになる。そしてそれは、第一次世界大戦勃発の直前の一九一三年までつづく。さらに、このイタリア旅行と並行するかのように、生来のコレクション癖が頭をもたげてきて、エジプトやギリシア=ローマ、中近東、果てはインドや中国にいたるまで、多神教的な神々の偶像を熱心に蒐集しはじめる。こうして彼は、ユダヤ人としてのタブー ─一神教にして偶像禁止─を二重に犯すことになるのである(これについては第Ⅲ章を参照)。フロイトによるフロイトの分析、いわゆる自己分析が本格的に開始されるのも、やはり一八九〇年代の後半のことである。そして、父ヤコプの死(一八九六年)
 これら一連の出来事に、名高いエディプス・コンプレックスの発見をくわえることもできるだろう。【後略】
-------

岡田温司氏は実に文章が巧みで、まるで推理小説の導入部分のように読者をフロイトの迷宮に誘って行きますね。
フロイトのイタリア旅行の訪問先を見ると、最初はイタリア北部だけですね。
何故かローマ入りに若干の躊躇いがあったようで、初めてのローマ訪問は1901年です。
翌1902年にはローマからナポリを廻り、ポンペイ・アマルフィも訪れますが、その後は再び北イタリアが多くなります。
そして1910年にシチリアに行きますが、このときはナポリからパレルモまで海路とのことで、結局、クロトーネ近辺には一度も行っていないようですね。
まあ、当時はおよそ国外の観光客が行くような場所ではなかったのでしょうね。
ピタゴラス教団の建造物が残っていたら世界遺産間違いなしでしょうが、少なくとも地上からは跡形もなく消え去っているようですね。

ピタゴラス教団
Italy Trip 2016: Metaponto and Crotone, Towns of Pythagoras

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ピタゴラスの石ー宗教と科学 2020/07/05(日) 14:59:50
イタリアと言えば、二年前の夏、シチリアからメッシーナ海峡を渡り、ターラント湾を望む靴底の町クロトーネに行きました。紀元前六世紀頃、ピタゴラス教団があったところです。
教団は、霊魂の輪廻転生という宗教と万物は数(自然数)であるという科学が渾然一体となった思想を奉じていたようですが、所謂ピタゴラスの定理によって無理数(√2)の存在を発見してしまい、内部分裂を起こして崩壊したと伝えられています。
クロトーネは、若い頃から憧憬の地でしたが、いざ訪ねてみると、ただの平凡な田舎町にすぎず、教団の面影など何もありません。
素数好きの私は、砂浜に降りて、薄くて丸い小石を17個拾って持ち帰り、宇治茶の空き箱に納め、蓋にピタゴラスの石と書いて保存しました。砂岩と泥岩がほとんどですが、花崗岩もあります。
ジャン・コクトーふうに言えば、
Mon oreille est un coquillage
Qui aime le bruit de la mer.
(私の耳は貝の殻
海の響きを懐かしむ)
という訳です。ゲーテやフロイトの紀行にはおそらく出てこないであろう靴底の話です。
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「旧興宗教」と科学、そして『フロイトのイタリア』

2020-07-03 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月 3日(金)06時42分42秒

前回投稿で書いたことを一言でまとめると、「旧興宗教」は科学と相性が良い、ということです。
新興宗教は概ね知性に乏しく非科学的であり、教団が発展して信者が二世・三世ともなるとそれなりに知性的となって科学とも折り合いをつけるようになりますが、「旧興宗教」は最初から極めて知性的で、科学とも親和的ですね。
過去の完全な復活は不可能ですが、それを目指して研究を重ねることにより、過去に向かって無限に進化するであろうことも科学的態度の反映です。
また、「旧興宗教」は狂信・熱狂を伴わず、むしろ精神の安定化に資することになります。
古いモノが精神の安定に寄与することは経験的に明らかですが、その良い例は無神論者のユダヤ人、フロイトが古いモノ好きだったことですね。
人間の無意識を探ることは極めて危険な行為であり、フロイトは常に危ない領域の間近に接していた訳ですが、それでも精神の均衡を失わなかったのは古いモノのおかげも相当にあったろうと思います。
そのあたりの事情は岡田温司氏の『フロイトのイタリア』(平凡社、2008)で何となく感じることができます。

-------
フロイトは大のイタリア通であった。鉄道恐怖をかかえながらも、生涯で二十回以上も長靴の半島へ足を踏みいれている。そして驚くことに、『夢判断』をはじめフロイトが精神分析理論を構築する重要な契機のことごとくにおいて、イタリアが大きな影を落としている。本書は、旅行中の膨大な書簡からフロイトのイタリア体験を再構成し、芸術強迫、考古学偏愛、骨董蒐集、食通、買物好きなど、その旅の内実を徴候的に読み解いたうえで、フロイトの主要テクストを詳細かつ大胆に検討する。

目次
イタリアからの便り
「イタリアへ向かって」/「生殖器」
「石は語る」
レオナルドとミケランジェロへの挑戦
イタリアのフロイト―カトリシズムとファシズムの狭間で

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784582702798
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もう一つの「宗教と科学の接点」

2020-07-02 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月 2日(木)21時45分28秒

ユング派の臨床心理学者で国際日本文化研究センター所長・文化庁長官等を歴任した河合隼雄(1928-2007)に『宗教と科学の接点』(岩波書店、1986)という著書があります。

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今まで宗教と科学は対立的にとらえられてきた.しかし科学と技術の最先端と接して,再び宗教の問題が浮上している.たましい,死,意識,自然など,両者の接点はどこにあるのか.人間の最大の課題に真正面から取組む.

https://www.iwanami.co.jp/book/b261098.html

私が大学に入学したのは遥か昔、1979年ですが、当時は大学生協書籍部の書棚にユングが溢れていたように記憶しています。
そのユングブームを牽引したのは言うまでもなく河合隼雄ですが、当時、私自身はユングに全く興味がなく、ユング、というか河合隼雄が日本人向けに分かりやすく翻案してくれたユングの学説に夢中になったのは世間のユングブームの相当後、1990年くらいでした。
ただ、その個人的ユング熱も、『宗教と科学の接点』のシンクロニシティがどうたらこうたらといった記述を見て、まあ、オカルトだよな、これはダメだな、てな感じで急速に冷えてしまいました。
そして『とはずがたり』に興味を抱くようになってから、河合と富岡多恵子の『とはずがたり』に関する対談(「キャリアウーマンの自己主張」、『物語をものがたる-河合隼雄対談集』所収、小学館、1994)を見つけて読んでみましたが、そこで河合は、

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そう、みなもう全体として生きているのですね。そして全体として生きている象徴的な中心は、この作者の場合は帝ということになります。そういう生活のなかで、いろんな関係というより流れがあって、そしてその流れは結局は、なろうことなら浄土へいかなければならないわけですね。そういう全体として生きる流れというものは、ひょっとしたら、いまでも日本にずっとそのままあるように考えているのです。たとえば日本の外交には「個人の顔が見えない」とよくいわれるでしょう、日本人は何を考えているのかわからないと。

http://web.archive.org/web/20100829220906/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kawaihayao-monogatariwo-monogataru.htm

などと言っています。
これを見て、二人とも阿呆だな、と思ったこともあって、河合の著書を読むことは全くなくなってしまったのですが、それでも「宗教と科学の接点」という表現だけは妙に心に残りました。
世界には現在でも著名な物理学者でカトリックの熱心な信者でもあるような人もいますから、確固たる信仰の立場から科学との接点を求めた人は相当にいたのでしょうが、大多数の日本人が持つ曖昧な宗教観の立場からも、オカルト寄りではなく、科学がその本来の性格を歪めることなく宗教と接触する地点を探ることはできないのか。
例えば古代ギリシアの特定の神殿を、その創建当時の姿を求めて復元するような試みを想定してみると、これは宗教と科学の接点になる可能性を持つのではないかと私は思います。
単に建物だけではなく、そこで行われていた宗教儀礼を可能な限り再現しようとするならば、土木・建築などの工学だけではなく、考古学・歴史学・宗教学・人類学等のあらゆる人文科学を総動員する必要があります。
そして、その試みは古代人の宗教観・世界観の復元に近づくことになります。
単に建物を復元するだけでなく、そこで行われていた宗教儀礼も復元するとなると、ある種のテーマパークのような存在になりそうですが、それはバブル期にワラワラと簇生したテーマパークとどこが違うのか。
観光の対象となる存在であることは共通であっても、少なくとも人文科学の研究者を雇用できる点では差が出せそうです。
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「宗教的空白」の過去と未来

2020-07-02 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月 2日(木)10時23分2秒

前回投稿で「ヘラヘラした宗教観」と書きましたが、これは宗教を「霊的存在への信念」「超自然的な存在の確信」などのように定義したら「宗教」の範疇にも入らない感情ですね。
日本人の宗教観を考える上で、私にとって特に参考になったのはエマニュエル・トッドの諸著作で、トッドの「宗教的空白」論については2016年に少し検討しました。

日本の宗教的空白(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c685d9ef8a0773b9b1d90c3465625d5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a7c61ab0ad3b0b3e3be33d6adec2dfa
BOSSを飲みながら
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f09e132e14d1294a1486dbc017248201

また、こうした「宗教的空白」が形成された歴史的経緯についても少し調べようとしたことがあるのですが、かなり難しい問題なのであっさりあきらめて今に至ります。

『河内屋可正旧記』と「後醍醐の天皇」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32c50e451a30bc8476cb288a49b36481

ただ、幕末維新期の「宗教的空白」の実態については、昨年末、渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(葦書房、1998)に紹介されていた外国人の観察記録をまとめて読み、自分が従来から想像していた状況が概ね正確であったことを確認し、また、特に宣教師ニコライの詳細な日記を通じて、明治期の宗教事情についても理解を深めることができました。

渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea34f26b6dc10670eb6411ff825e9ec5
中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その18)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb8c5cb5f725ff9346aff0164fdbbd83

こんな具合に、ここ数年、行きつ戻りつを繰り返しながら日本人の宗教観を眺めてきたのですが、過去の分析はそれなりに充分にやったので、これから先の投稿は将来に向かっての具体的提案を目指すつもりです。
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コロナ後の世界と日本の役割

2020-07-01 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月 1日(水)18時13分31秒

さて、承久の乱をめぐる「官宣旨」や「院宣」のチマチマした話から、突如としてコロナ後の世界と日本の役割という、いくら何でもデカすぎるだろう的な話題に転じたいと思います。
以前から私は、個別宗教の本質を究明するようなことは全くせず、宗教一般の歴史的な、そして深みのない表面的な観察を続けてきたのですが、その研究成果を踏まえて、日本が世界の精神的安定に寄与し、同時に経済的繁栄をもたらすことのできる具体的方策を検討してみたいと思います。
その前提としてざっと今般の世界情勢を鑑みるに、アメリカはマスク嫌いの大統領の下、パンデミックに全く対応できないばかりか、ブラック・ライブズ・マターを名目とする「紅衛兵」たちが混乱を一層拡大させ、上も莫迦なら下も莫迦、という惨状です。
他方、プーさん主席が支配する金満中国はコロナで世界に迷惑をかけたことを反省しないどころか、香港に関する国際的約束を反故にして弾圧の準備を整え、隣接諸国との国境紛争は強面一辺倒、更にどんな些細な問題でも他国から批判されると血相を変えて反論し、軍事的・経済的圧力を加えて執拗に反撃するなど、まるで凶暴な「祟り神」の様相です。
また、アメリカと中国以外にも、冷戦終結後の世界経済のグローバル化と、その鬼っ子のような宗教原理主義がもたらした精神的不安定が、コロナによって改めて活性化される状況を免れている国・地域はなさそうです。
こうした世界的な精神的不安定が、近い将来に本格的な世界戦争に転化する可能性はないのか。
二つの超大国に挟まれた日本は、仮に両国の軍事衝突が起これば擂り鉢の中の胡麻の如くに微塵にされるでしょうが、かといって、現在の日本には戦争の心配をしている人は、原子力発電所から出るトリチウムの安全性を心配する人より遥かに少なそうです。
そして、戦争反対を声高に叫ぶ人々も、憲法九条が大切です、みたいな古色蒼然たる念仏をひたすら唱えるだけで、およそ現実に戦争を防ぐ実効性のある運動を展開しているようには見えません。
右を見ても左を見ても、自己の正義を騒がしく喚き立てる人々のみが目立ち、どうにもお先真っ暗な世界の状況の中で、私が以前から感じているのは、我が日本における多数派の漠然とした人間観、特にそのヘラヘラした宗教観を世界に「輸出」できたら、世界はけっこう平和になるのではなかろうか、という予想です。
こういうと、ああ、梅原猛流の「多神教と一神教の対立」と多神教の「寛容」の話か、そんなお説教は聞き飽きたぜ、という反応が返ってきそうですが、そんなことは全然考えていません。
「寛容」という正義のお説教が無意味であることは明らかで、検討の必要もありません。
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