学問空間

「『増鏡』を読む会」、2月15日(土)に予定していましたが、会場の都合で中止となりました。

資料:野口華世氏「待賢門院領の伝領」

2025-02-15 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『平安朝の女性と政治文化─宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017)
https://www.akashi.co.jp/book/b284845.html

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はじめに
1.待賢門院領の形成
2.待賢門院没後の待賢門院領と待賢門院院追善仏事
3.待賢門院の伝領
 (1)伝領の実態
 (2)目録史料から
おわりに
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p216以下
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  2.待賢門院没後の待賢門院領と待賢門院院追善仏事

 待賢門院は久安元年(一一四五)八月に十二日に亡くなる。本節では待賢門院が没した直後の待賢門院領のゆくえを検討する。ここでは、待賢門院の御願寺領、円勝寺領・法金剛院領にも注目して考察を進めたい。
【中略】
 「はじめに」で述べたとおり、通説では待賢門院領をその娘の統子内親王(上西門院)が継承したとされているので、ここでの仮説としては、待賢門院の追善仏事も当然のことながら統子内親王が担っているべきであると考えられよう。はたしてそうだったのであろうか。次の史料を見てみよう。

[史料3] 『山家集』雑七七九・七八〇
 待賢門院、かくれさせおはしましける御跡に、人々またの年の御果てまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀川の局のもとへ申送りける
尋ぬとも風のつてにも聞かじかし花と散にし君が行衛を
 返し
吹風の行衛知らする物ならば花と散にも後れざらまし

[史料4] 『千載和歌集』巻第九、五七八、五七九
 待賢門院かくれさせ給うてのち、御忌はててかたがたに帰らせ給ける日 崇徳院御製
限りありて人はかたがた別るとも涙をだにもとどめてしがな
 御返し                              上西門院の兵衛
ちりぢりに別るゝけふのかなしさに涙しもこそとまらざりけれ

[史料5] 『台記』久安二年六月二十八日条(<>は割注を示す。以下同じ)
廿八日、丙寅、今日新院〔崇徳院〕三条第<故待賢門院家>に、故待賢門院の法事を定めらるると云々。件の先例非参議別当定文を書くべし、しかるに、しかるべき宿老の人々皆執筆あたわず、これによりて左馬頭隆季朝臣これを書く、年二十と云々、

 [史料3]は西行の『山家集』にある詞書と歌で、待賢門院が亡くなった次の春、つまり久安二年(一一四六)の春に、西行と待賢門院女房の堀河局が亡き女院を思って贈答した歌で、返しが待賢門院堀河の歌である。待賢門院堀河は、源顕仲の娘で院政期歌壇を代表する女流歌人であり、待賢門院の出家に際して、ともに出家した女房の一人で、待賢門院の側近の女房であった。
 [史料4]は『千載和歌集』に採られた崇徳院と上西門院兵衛との贈答歌で、待賢門院の一周忌に際して詠まれたものである。上西門院兵衛とは、[史料3]に登場した待賢門院堀河の妹で、やはり歌人であった。『山家集』には姉同様、西行との贈答歌も残っている。兵衛は、最初待賢門院に出仕して待賢門院兵衛と称したが、待賢門院の没後はその娘、前斎院統子内親王に仕え、のちに上西門院兵衛と称された。[史料4]の時期は待賢門院没の翌年のことであるから、統子内親王はまだ上西門院となっていないが、『千載和歌集』では最終的な呼称を採用して、上西門院兵衛としたのであろう。
 [史料3・4]の内容を見てみよう。 [史料3]の傍線部「待賢門院、かくれさせおはしましける御跡に、人々またの年の御果てまで候はれ」から、待賢門院が亡くなった御所には、待賢門院に伺候していた人々が女院の一周忌が終わるまでとどまっていたことがわかる。また、[史料4]の傍線部「待賢門院かくれさせ給うてのち、御忌はててかたがたに帰らせ給ける日」とそれに続く和歌からは、一周忌が終わると、それぞれに別れ解散したことも判明する。
 まず、待賢門院が亡くなった御所とは、三条高倉第であった。女院が没すると、初七日から七日ごとの仏事がいわゆる四十九日まで三条高倉第で行われた。また月ごとの命日に行われる月忌、百万遍念仏や、法華経・阿弥陀経・弥勒経など待賢門院の主な追善供養は、女院没後の一年間そのほとんどが三条高倉第で行われている。
 [史料5]は、待賢門院の一周忌が迫ってきた久安二年(一一四六)六月二十八日、新院=崇徳院が三条高倉第で、待賢門院一周忌法要の次第を定めたことが記される。そして、この一周忌法要は三条高倉第で、鳥羽院や崇徳院・統子内親王などの子どもたち、貴族・女房など多くの故女院奉仕者を集め、盛大に執り行われた。[史料2]とあわせて考えると、待賢門院に人的に奉仕していた人々が、女院没後も一周忌の喪明けまで三条高倉第に伺候していたのは、没後一年かけて行われたさまざまな待賢門院追善仏事に奉仕するためであったと考えられるのである。
 また、[史料5]の傍線部を見ると、「三条第<故待賢門院家>」とある。これは待賢門院が没した三条高倉第に、女院没後も待賢門院の家政機関である待賢門院庁が存続していたことを意味すると思われる。待賢門院庁は別当や判官代・主典代に任じられた貴族たちを構成員とした女院の家政機関であるが、[史料3・4]からは、女房たちも三条高倉第にとどまり追善仏事に奉仕したことがわかるので、その家政機関には女院の女房たちも含まれていたと推察できよう。このように女院没後の女院御所にも家政機関があり、その家政機関の主な役割は故女院の追善仏事であった。それでは待賢門院という主のいなくなった家政機関を主導したのは誰だったのであろうか。それは[史料5]の見られるように、待賢門院一周忌法要という重要な行事を差配した「新院」、すなわち待賢門院の第一皇子崇徳院であったと考えられる。
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p221以下
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(1)伝領の実態

 そもそも、待賢門院領が娘統子内親王(上西門院)に伝領されたということを最初に説いたのは、管見のかぎり芦田伊人編『御料地史稿』(一九三七年)である。次に待賢門院領を取り上げた五味文彦氏は母から娘への伝領を前提としているので、そのまま踏襲している。実は待賢門院領や法金剛院領を扱った研究が意外と少ない。王家領を取り上げた論文のほとんどは八条院領以降のもので、その前段階の待賢門院領あるいは法金剛院領などに関する専論はほとんどないのである。
 また、以下はあくまでも史料の残存状況なので一概にはいえないが、待賢門院がその所領群を統子内親王に譲ると明記した文書や記録などの史料はいまのところ残っていない。【中略】
 この上西門院の所領経営に関する印象の薄さは、前節での待賢門院仏事執行者の検討に鑑みるに、待賢門院領が待賢門院没後すぐは、その第一子で追善仏事主催者であった崇徳院の管理下にあったということが、大きく影響しているのではないか。すなわち、待賢門院から上西門院への伝領が、通説のようにスムーズになされたのではなく、その間に崇徳院を経由した。そして、その崇徳院が保元の乱で敗れるというかたちで、待賢門院の追善仏事主催者としての資格を喪失したことから、待賢門院領の維持・運営が一時困難となったのではないかと考えられるのである。
 ただし、上西門院ものちには母待賢門院のために仏事を行っているし、法金剛院には御堂を建て、御所をもつなど、待賢門院後継者たる動きをしていることも確かである。以下ではこのことについて検証していこう。
 まず、待賢門院仏事であるが、統子内親王(上西門院)が行ったとわかるもっとも早い追善仏事は、久寿元年(一一五四)六月二十日の御筆八講である。『台記』同日条によれば、「今日より統子内親王、母院のおんために五日十座講説を行われ、みずから法花経一部、開結経各一巻、転女成仏経、阿弥陀経、心経を筆写し、供養せらるなり、又みずから妙経七千部を転読し、その由を啓白す」とあるので、待賢門院のための追善仏事をみずから企画・執行したことがわかる。また同日の『兵範記』には、「今日より、前斎院(統子内親王)高松殿において御筆御八講始め行わる、一院(鳥羽院)渡りたまふ。ひとえに御沙汰たり。別当公能卿、職事惟方奉行す」とあるので、統子内親王主催の待賢門院追善仏事ではあったが、父鳥羽院の大きな援助がうかがえる。会場の高松殿も、鳥羽院の御所であり、ここからも父院のバックアップによる仏事であったといえるだろう。すなわち、久寿元年六月の御筆八講は、統子内親王が中心となって開催された追善仏事ではあったが、統子内親王がすべて用意したのではなく、費用・会場などは父鳥羽院が用意したものであった。
【中略】
 以上のことから、もっとも長く考えて、保元元年(一一五六)の保元の乱までは、崇徳院が法金剛院や法金剛院領などの待賢門院御願寺と御願寺領を含む待賢門院遺領を管理・運用していたと考えられ、統子内親王(上西門院)はそれらを自由にすることはできなかった。それゆえに、久寿元年(一一五四)の母待賢門院追善仏事では、父鳥羽院が娘の主催する仏事を援助したのであろう。その後、崇徳院が保元の乱で敗れると、ようやく統子内親王が待賢門院遺領を継承することとなった。それによって、統子内親王自身が法金剛院御所に滞在して仏事を開催したり、また新たに御堂を建立することができるようになったのだと考える。上西門院は文治元年(一一八九)に亡くなり、法金剛院あたりで火葬された。そして、法金剛院三昧堂に埋葬された母待賢門院のそば近くに埋葬されたという。これは法金剛院と法金剛院領を管理・運営し、母院の菩提を弔った娘女院だからのことであろう。
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0264 桃崎説を超えて。(その29)─「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点(後半)

2025-02-14 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第264回配信です。


一、前回配信の補足

『平安時代史事典』には「久安元年(一一四五)母待賢門院の崩後はその所領を伝領」とある。

資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb81adbe9915f86f435607f64ff992e

しかし、野口華世氏の「待賢門院領の伝領」(『平安朝の女性と政治文化』所収、明石書店、2017)によれば、待賢門院領は統子内親王(上西門院)にそのまま継承されたのではなく、いったん崇徳院が管理し、保元の乱の後、統子内親王が継承したとのこと。

『平安朝の女性と政治文化─宮廷・生活・ジェンダー』
https://www.akashi.co.jp/book/b284845.html

資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その1)(その2)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e801cd773da4a34bf43b0ccc85768b5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d81f56783edab70b0550abc78953490

統子内親王は多数の荘園を領有し、女院庁には練達の事務官僚や有力武士が参集。
和歌など文化活動も盛ん。
出家しても、別に女院庁が解散する訳ではない。
そもそも二条があれこれ指図できるような女性ではない。

保元三年(1158)二月三日 後白河天皇の准母として立后
保元四年(1159)二月十三日 院号宣下
永暦元年(1160)二月十七日 仁和寺法金剛院で出家

なぜ二月に重要行事が集中しているかは分からないが、出家は単に従前(平治の乱勃発以前)から予定されていた行事ではないか。

守覚法親王と上西門院はそれぞれ別個の事情から、平治の乱勃発前に出家の準備がなされ、たまたま同日に出家しただけではないか。
しかし、経宗・惟方捕縛の三日前という点は確かに気になる。
二月十七日に何らかのトラブルが発生し、それが桟敷事件、そして経宗・惟方の捕縛に繋がったのではないか。


ニ、「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点(続き)

(3)「皇位継承問題」

桃崎氏は、
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 なぜ、桟敷封鎖事件のような子供じみた嫌がらせ事件が起きたのか、私は長らく疑問に思ってきたが、ここまで多くの考察を重ねた結果、シンプルで最良の答えにたどり着いたようだ。一八歳の二条という、精神的に幼い人の仕業だったのだ、と。
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と言われるが(p192)、これは複雑な検討を重ねた上で到達すべき結論ではなく、むしろ考察の出発点ではないか。

二条天皇(守仁親王)は康治二年(1143)六月十八日生まれなので、平治元年(1159)十二月九日の平治の乱勃発時点では数えで十七歳、満年齢では十六歳。
年が明けて永暦元年(1160)二月の時点でも、満年齢ではまだ十六歳。
この年齢で、まだ自分の子すら生まれていないのに、自分の子孫に皇統を継がせようと血道を上げることがあり得るのか。

「後白河院黒幕説」に立つ河内祥輔氏の場合、「後白河は、二条の弟にあたる守覚の皇位継承を望んだが、それを不可能にして守覚を仁和寺の御室(長)に押し込む出家の予定日が、タイムリミットとして迫っていた」(p189)と想像するのは理解できる。
しかし、「二条天皇黒幕説」に立つ桃崎氏が「<平治の乱の主因が皇位継承問題にあり、焦点に守覚がいた>という氏の着眼」(p190)を自説の基礎とするのは非常に奇妙。
満十六歳の二条が「皇位継承問題」を痛切に意識するのは、さすがにもう少し先の話であろう。

結論として「皇位継承問題」は平治の乱に全く関係がないと考えるべき。
従って、「二条一派の望みに反して、信西は守覚の出家を阻止しようとしていた」(p191)とするのも無理。
確固とした信念から自分の政策を実現することに傾注していた信西にとって、「皇位継承問題」など基本的にどうでも良い話だったはず。
自分が政治を運営できるのであれば、後白河院政であろうと二条親政であろうと、また(二条のまだ生まれもいない皇子を天皇としての)二条院政であろうと、どうでも良かったはず。
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0263 桃崎説を超えて。(その28)─「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点(前半)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第263回配信です。


一、前回配信の補足

(1)女性名の読み方

「プロローグ─平治の乱に秘められた完全犯罪」に、「女性名の読みは確定できないことが多いが、『平安時代史事典』に拠って、正解だった可能性がある一つの読みで、振り仮名を施しておいた」(p12)とある。

平安時代史事典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E4%BA%8B%E5%85%B8

例えば「上西門院」は「統子内親王 むねこないしんのう」を見よ、と案内される。
かなり鬱陶しい。 

(2)天皇の書跡

二条天皇を知る手がかりを得るために書跡を確認しようとしたところ、小松茂美『天皇の書』(文春新書、2006)には項目なし。

小松茂美『天皇の書』(文春新書、2006)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166604999

『宸翰英華』によれば、平安時代の歴代天皇三十二人中、宸翰が残っているのは嵯峨・宇多・醍醐・後朱雀・後白河・高倉の僅かに六代とのこと。

「宸翰英華編纂出版事業経過概要」(『宸翰英華 第二冊』、紀元二千六百年奉祝会、1944)
http://web.archive.org/web/20090514085027/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneika-jigyokeika-gaiyo.htm


ニ、「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点

資料:桃崎有一郎氏「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」〔2025-02-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/241e0e8e3f60ea91047f9b8b78a7c5b3

(1)保元の乱についての認識

p30
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 崇徳や頼長が、本気で反逆を企んでいた形跡はない。この戦争はただ、鳥羽院・後白河の陣営が、頼長への猜疑心を無暗に募らせ、崇徳をも疑い、疑心暗鬼に囚われた根比べに負けて暴発した虐殺にすぎない。この戦争の根本原因は、かつて白河院が忠実を失脚させて忠通を取り立て、摂関家の内部紛争を引き起こしたことと、白河院が待賢門院と密通して不義の子(らしき)崇徳を儲けたことにある。つまり、すべて白河院の乱脈な政治の後始末なのだった。
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白河院(1053‐1129)の崩御は平治の乱の三十年前。
桃崎氏の認識は独特。

p187
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保元の乱は、後白河天皇が崇徳院・藤原頼長に対して、非常手段に訴えるべき危機感と、断固たる姿勢を示した事件だ。崇徳・頼長が今すぐにでも反逆を起こして後白河天皇の君臨を否定しに来る、という危機感に耐えきれなくなった天皇側が、手遅れになる前に暴力に訴えたのだ。
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これもかなり珍しい立場ではないか。
後白河側(信西・美福門院・藤原忠通)が、謀略的手段も交えて頼長・崇徳を追い詰めたと考えるのが普通では。
なお、後白河個人にとっては、保元の乱は「物騒がしき事」「あさましき事」。
落ち着いて今様を楽しむことができなくなってしまったのが残念(「今様沙汰も無かりしに」)という立場。

資料:棚橋光男氏「今様狂いの前半生」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2fb5514e7e452060a14f88ad99d998b

(2)守覚法親王と上西門院の出家

資料:河内祥輔氏「皇位継承問題のあり処」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6ac6391076aea0194097d3924f9f66e

桃崎氏は、
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<平治の乱の主因が皇位継承問題にあり、焦点に守覚がいた>という氏の着眼は、別の出来事と組み合わせると、真実に迫る鍵になる。(p190)
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とされ、守覚法親王と上西門院の二人が、大炊御門経宗・葉室惟方捕縛の三日前、二月十七日に出家していたこと重視。
そして、
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その事実は、次の構図を浮かび上がらせる。後白河の家族全体に俗世での繁栄を諦めさせる圧力がかかり、上西門院と守覚が出家に追い込まれたのだろう、と。(p191)
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と推論。
二人が同日に出家したことは確かに気になる。
しかし、守覚法親王の出家は別に失脚ではなく、仁和寺御室という仏教界の最高レベルの地位につくための栄達の道の出発点。
政治的意味の点でも、女院の出家とは別だろう。

上西門院の出家については、そもそも上西門院は二条に出家を強要されるような立場にはない。
ここが桃崎氏の根本的な誤解。

資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb81adbe9915f86f435607f64ff992e

資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その1)(その2)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e801cd773da4a34bf43b0ccc85768b5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d81f56783edab70b0550abc78953490

それでも僅か三日前というのは確かに気になるが、あえて参考になる例を探すとすれば、それは蓮華王院の落慶供養時のトラブルではないか。

資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「「中小別当」惟方」〔2025-01-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34d80c6183d14e3bd8deed97e856e7b2

守覚ないし上西門院出家の儀礼に関して二条・後白河間に若干のトラブルがあり、それが桟敷事件に発展した、といった可能性も考えられる。
桟敷事件はあまりに唐突な感じが否めないが、その前に小さなトラブルがあったと仮定すれば、多少は分かりやすくなる。
仮定に仮定を重ねるのは良いことではないが、桃崎氏の想定が唯一の可能性ではないことを示す意味はあるのでは。
コメント (3)
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資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その2)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『王朝の明暗』p422以下
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     三

 『平治物語』(上)は、義朝が源氏重代の太刀や鎧を一男の義平ではなく、三男の頼朝に授与したことに触れて、『三男なれ共、頼朝は末代大将ぞとみ給ひけるにや』と述べているが、これは誤解であろう。重代の宝物が譲与された理由は簡単であって、義平や朝長が庶腹であるに対して、頼朝は嫡腹の子であったからである。
 ところで、頼朝は、保元ニ、三年に十一、二歳で元服し、正六位上に叙されたらしい。保元三年(一一五八)の二月三日、統子内親王が後白河天皇の准母の故をもって皇后に冊立されると、正六位上の頼朝は、皇后宮権少進に任命された。『公卿補任』(文治元年条)や『尊卑分脈』(第三編、清和源氏)には、頼朝が翌平治元年の正月廿九日、右近衛将監を兼任した旨が記されているけれども、これは根本史料によって左兵衛尉と訂正さるべきである。即ち、平治元年二月十三日、皇后・統子内親王が女院に列せられると、頼朝は当然のこととして皇后宮権少進を停められ、代って女院の蔵人に補された。その時、彼の本官は左兵衛尉で、上西門院蔵人は兼職であった。この女院蔵人は、名ばかりのものではなく、現に二月十九日の殿上始〔てんじょうはじめ〕における三回の献盃では、頼朝は別当の藤原実定、殿上人の平清盛など十名ほどの関係者たちに対して初献の杓を取って巡廻しているのである。
 平清盛は、平治元年の初めには、正四位下太宰大弐で、四十二歳であった。二月十九日、上西門院の殿上始において頼朝が若い蔵人(十三歳)として清盛らの盃に酒をついで廻ったこと、従って『平治の乱』以前において清盛が確実に頼朝を見ていることは、注意さるべきである。頼朝は、清盛の好敵手である義朝の嫡妻腹の子であったから、清盛はそれを心に留め、頼朝の風貌や挙止を鋭く観察したことであろう。
 上西門院の蔵人としての頼朝の勤務期間は、非常に短かった。と言うのは、それから間もない三月一日、彼は母の喪に遭い、左兵衛尉ならびに上西門院蔵人を辞したからである。
 平治元年の六月廿八日、頼朝は復任の宣旨を賜わると同時に内の蔵人に補され、今度は二条天皇の側近に仕えることとなった。当時は珍しく内裏が皇居となっていたから、頼朝は、蔵人左兵衛尉として『乱』の勃発(十二月九日)まで内裏に出仕していた訳である。二条天皇の乳母の典侍・源重子(坊門局)は、義朝と昵懇な左衛門尉・源光保の娘であったから、彼の蔵人としての勤務は、それほど苦痛ではなかっただろう。それに院、内裏における暗闘に捲き込まれるにしては、頼朝は齢が若すぎたと認められる。
 頼朝の異母兄・朝長がいつ相模国の松田から京に上ったかは不明であるが、それが保元年間であることは確かであろう。朝長は、直ぐに従五位下に叙され、平治元年の二月廿一日、姝子内親王が二条天皇の中宮に冊立された日、中宮少進に任命された。『吾妻鏡』や『平治物語』(上)が朝長を指して『中宮大夫進』と記しているのは、朝長が従五位下の中宮少進であったためである。『平治物語』(中)が朝長を指して、

  朝長、生年十六歳。雲の上のまじはりにて、器量、ことがら優にやさしくおはしければ……

と評し、田舎育ちの若者にしては、態度や振舞いが洗練されていたと述べているのは、彼が中宮少進として宮廷生活に関係していたからである。中宮・姝子内親王(高松院)は、同じく内裏におられたから、出仕先こそ違え、頼朝は、次兄と一緒に内裏に勤務していた次第である。
 『平治の乱』のさなか、すなわち平治元年十二月十四日に行われた、所謂『信頼人事』によって、頼朝は従五位下右兵衛権佐に叙任された。しかしそれも束の間であって、同じ月の廿八日には、頼朝も位を剥奪の上、解官されたことであった。

     四

 頼朝の政治家としての資質や業績については、『愚管抄』以来今日まで、さまざまな角度から論評されている。この場合、恒に留意せねばならないのは、彼が都において生まれ、中級とはいえ、貴族的環境のもとで都で成人し、かつ短期間ながら女院や内裏で官人生活を送ったと言うことである。
 勤務の系統から見ると、彼は待賢門院─上西門院の圏内にあった。これは、母方の親族の主な人々がこの路線に近く、その方面からの吸引力が強かったからである。殊に上西門院の女房であった母方の伯母は、彼を上西門院側に率いた可能性が多い。確実な証拠はないけれども、彼の母も上西門院に仕えた女房であり、彼自身も殿上童として幼い頃から女院の御所に出入したとみなすのは、可能性に富んだ想定とされよう。
【中略】
 ところで、文治二年(一一八六)八月における将軍・頼朝と西行の鶴岡八幡宮での邂逅や二人の夜を徹しての芳談は、『吾妻鏡』に見られる最も興味深い挿話の一つである。恐らく初対面であろう二人が百年の知己のように終夜語り合えたのは、二人に共通の背景があったためである。
 もともと西行─佐藤義清〔のりきよ〕─は、待賢門院の実兄の左大臣・実能の家人であり、その関係もあって待賢門院や上西門院の御所に出入し、特に歌に優れた女房たちとは昵懇であった。これは、『山家集』の随所から知られるのであって、左の詞書などは、その一例に過ぎぬのである。

【以下二字下げ】
十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはしますよし聞きて、待賢門院の御時おもひ出でられて、兵衛殿の局にさしおかせける。

頼朝が上西門院に仕えていた時分、西行は高野山に籠っていたから、二人は顔を合わせる機会はなかったであろう。しかし頼朝は、二人の伯母(大進局、千秋尼)や他の女房達からいやと言うほど西行の噂を聴かされていた筈である。
 『山家集』から窺うと、西行は『宮の法印』こと元性と極めて親しかった。四一九頁の系図の示す通り、元性(崇徳天皇々子)の母の典侍は、頼朝の従姉妹であったのである。
【中略】
 他方、文覚が蛭島に配流中の頼朝に強引に蹶起を勧めたと言う話は、『平家物語』や『源平盛衰記』にかなりの潤色を加えて述べられている。ここではこの問題を分析・批判する余白もないし、また頼朝と文覚との永年に亘る交際の歴史を述べる余裕もないけれども、頼朝の旗挙げに関して『愚管抄』(巻第五)に見られる、

【以下二字下げ】
……四年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝に馴れたりける、その文覚さかしき事どもを、仰せも無けれども、上下の御の内をさぐりつゝ、いひいたりけるなり。(『御の内』の意味は不明。誤写があるらしい)

と言う記事は、信用してよかろう。文覚が伊豆国に配流されたのは、承安三年(一一七三)五月のことであった。それより四年間、文覚は朝夕頼朝の許に出入し、政界の情勢を説いていずれ蹶起すべきことを勧めたという次第である。しかしそれにしても、文覚はなぜ頼朝の許に気易く出入し得たのであるか。
 ここで改めて注意されるのは、文覚は遠藤左近将監・茂遠の子で、俗名を盛遠と言い、上西門院の所衆〔ところのしゆう〕であったと言う伝承である。彼の父の名については異伝があるけれども、彼が上西門院に出仕していたとする点では、どの史料も一致している。所衆は、蔵人所に属するから、もし盛遠が平治元年頃、上西門院に出仕していたとすれば、頼朝は当然盛遠と面識があった訳である。またとい出仕の時期が互に喰い違ったとしても、これら二人の流人は、同じ穴の貉であって、共通の話題が多かったはずである。まして二人とも同じ流人と言う身分であり、場所は都よりほど遠い伊豆国の片田舎であってみれば、出会いの当初から二人が互いに親近感を抱いたであろことは、充分に肯けるのである。
 頼朝が都で生まれ、待賢門院や上西門院と関係の深い環境で育ち、少年時代には上西門院に仕えたと言う閲歴は、彼の生涯を考える上で重視さるべきである。その時分に彼が得た印象、体験、願望は、いかに永く阪東に身を置いても払拭されることはなく、心の底に深く沈潜していたのであって、彼が後年、権力の座に就けば、それらは湧然と噴出する可能性があった。
【後略】
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資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その1)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『王朝の明暗 平安時代史の研究─第二冊─』(東京堂出版、1977)
http://philosophy7136.blog.fc2.com/blog-entry-771.html

※初出は『古代文化』第26巻第12号(1974)

p414以下
-------
   一

 源頼朝の生母については、学界では余り関心がもたれていないようである。幸田露伴が『母は尾張の熱田の大宮司藤原季範の女』と述べるにとどめているのは、評伝の都合で止むをえなかったにしても、永原慶二氏などですら、

【以下二字下げ】
母は熱田大宮司藤原季範の娘であった。(中略)頼朝の母で義朝の正室だった藤原季範の娘も、種々のことからおして、熱田宮の父のもとにいたとみるよりは、京都にのぼって宮仕えをしていたと考える方が自然のようである。とすれば、頼朝の出生地については、鎌倉説、熱田旗屋町説もあるが、京都とする方がよいということになる。

に見る通り、簡単な説明に終始しておられる。
 その間にあって、大森金五郎氏(一八六七~一九三七)は、頼朝の母についてやや突込んで考究し、頼朝の旗屋町出生説を述べた後に、彼が平治元年(一一五九)三月一日、母を喪ったことを論証されている。
 右の旗屋町出生説というのは、早く『太平記』劔巻にも見える所伝であって、幡屋、すなわち名古屋市熱田区旗屋町の誓願寺の境内を出生地とする伝説である。この誓願寺は、念仏をもって知られた日秀妙光尼が慶長頃に建立した寺院であるが、それ以前、この地には大宮司・千秋家の下屋敷が存したとのことである。これは大変尤もらしい所伝であるけれども、全般的な見地から勘案すると、そう簡単には信用し難いものがあるのである。
 頼朝の母が熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘であったことは、『尊卑分脈』、『公卿補任』等の明記するところであり、何等疑いを要しない。またこの婦人の歿年月日も、大森氏が夙に論証された通りである。即ち、『平家物語』(下)は、永暦元年(一一六〇)二月に捕われた頼朝について、

  去年〔こぞ〕の三月には母御前にをくれまいらせ、……

と記し、頼朝が平治元年(一一五九)三月に母を喪ったことを伝えている。『公卿補任』(文治元年条)は、保元四年(平治元年)のこととして、

  同三月一日服解(母)。

と記載し、この婦人が平治元年三月一日に歿した事実を伝えている。これを傍証するのは、『吾妻鏡』の養和元年(一一八一)三月一日条に見る左の記事である。

  今日、武衛〔頼朝〕、依為御母儀忌日、於土屋次郎義清亀谷堂被修仏事。(下略)

 同じ『吾妻鏡』によると、頼朝の母の七七日の供養は、母の実弟に当たる園城寺の祐範法橋が一切沙汰し、唱導をもって知られた安居院の澄憲(信西入道の子)を導師に請じ、懇に後生を弔ったという。
【中略】

    ニ

 源頼朝の熱田神宮への尊崇は、頗る著名である。無論これは、熱田大神の神威もさることながら、彼の生母が大宮司・季範の娘であったと言う事実に負うているのである。
 しかしながら藤原季範(一〇九〇~一一五五)を単に熱田神宮大宮司とのみみなし、義朝や頼朝の事績を大宮司・季範との関連だけで理解しようとするのは、明らかに一方に偏した見方と言わねばならない。これまでの研究者たちは、この季範が従三位・藤原悦子〔よしこ〕の従兄弟であったという事実を看過することによって大きな不始末を演じている。周知の通り、悦子は、権中納言・藤原顕隆(一〇七二~一一二九)の妻、権中納言・顕頼(一〇九二~一一四八)らの母、そして鳥羽法皇の乳母であった。顕隆・顕頼父子は、官こそ権中納言であったけれども、白河・鳥羽両院の無雙の寵臣であり、隋一の実力者として知られていた。例えば、藤原宗忠は、顕隆の薨伝の中で、

【以下二字下げ】
抑モ去ル保安元年十一月、魚水之契リ忽チ変ジテ自リ、合体之儀俄ニ違ヘシ以来(忠実の関白罷免を指す)、天下之政此ノ人ノ一言ニ在リ。威ハ一天ニ振ヒ、富ハ四海ニ満ツ。世間ノ貴賤傾首セ不ルハ無シ。

と評している。『今鏡』には、顕隆が『世には夜の関白など聞えし』旨を伝えている。顕頼も、乳母子として鳥羽法皇の信任が絶大であったが、彼は策謀に巧みであり、その点では政治家として父より凄みがあった。顕隆、顕頼が院の近臣として顕枢の地位にあったのであるから、鳥羽法皇の乳母としての悦子が隠然たる勢威を保有し、法皇庁への接近が彼女の紅唇にかかるところが大きかったことは当然であろう。
【中略】
 季範の息子・範忠も、熱田大宮司でありながら殆ど都で過ごしていた。彼は、後白河上皇の近臣として上皇に常侍しており、大宮司の職にあっても、熱田神宮の方はいつも留守にしていた。『後清録記』の応保二年(一一六二)六月廿三日条には、範忠が上皇の側近として二条天皇の逆鱗に触れ、周防国に配流されたことについて、

  藤範忠〈周防。 前内匠頭、式部、熱田宮司。〉

と見えている。範忠が左近衛将監を経て、応保元年十一月に内匠頭に任じられたことは、他の史料からも知られる。要するに、範忠は、熱田神宮の大宮司でありながら、専ら都に居住し、中央官人としての途を歩んでいたのである。
 ここに掲げた系図三編は、『尊卑分脈』の記載に基づいて作成したものである。いま、系図を眺めると、季範は都に居住しながらいかに待賢門院に接近することを図っていたかが了解されるのである。
【中略】
 近衛天皇の治世、即ち一一五〇年前後において清和源氏を代表する大立者は、源頼政、源為義、源義康の三人であった。彼等について指摘されるのは、武門としての実力を涵養する一方、婚姻関係を通じて裏から法皇や女院に取入ろうと努めていたことである。四二〇頁の系図に示した通り頼政(一一〇五~七九)【ママ】の母は、弁三位・悦子の姪であったし、彼自身は娘を源隆保の妻としている。また四一九頁の系図に見るように、源義康(足利判官)は、鳥羽法皇の北面に祗候している間に前記の範忠の娘を娶っているし、彼の息子のうち、義清は上西門院判官代、義長は上西門院蔵人、義兼は八条院(暲子内親王)蔵人を勤めた。源為義(一〇九六~一一五六)は、白河法皇の眷顧を蒙っていた太皇太后(令子内親王)大進の藤原忠清─寵臣・隆時の弟─の娘を娶って義朝(一一二三‐六〇)を儲けた。『保元物語』(上)に為義の言葉として、『嫡子にて候義朝こそ、坂東そだちのものにて』、とある通り、義朝は早く坂東に下向し、鎌倉を根拠地として自家の勢力の培養に努め、その間、一、二人の現地妻に義平、朝長らを産ませていた。
 久安元年(一一四五)において義朝は、廿四歳となっていた。その頃、彼は上洛して暫く都に逗留していたらしく、この間にどう言う手蔓によってか季範の娘を正妻に迎えたことであった。その時分、為義は検非違使左衛門大尉として院の北面に祗候し、大いに活躍していた。この為義の嫡男たる義朝は、婿として好条件を備えていたと言ってよい。
 四二一頁の系図は、源義朝の母方の親族を示している。これを一瞥するならば、権中納言清隆(一〇九二~一一六二)を初めとして、待賢門院や上西門院の関係者が多いのに驚かされる。また待賢門院と極めて親密であった太皇后・令子内親王(白河皇女)の関係者たちも若干混っている。これらの人々が待賢門院女房・大進局の妹と義朝の縁結びに協力したことは、充分に思考【ママ】されるのである。
 こうして義朝は、季範の娘を正妻に迎え、頼朝(久安三年出生)、希義、某女を儲けたが、前期の通り、この正妻は、平治元年(一一五九)三月に歿したのである。この某女は、四三二頁に説く通り、権中納言・藤原能保の妻となって大きな歴史的役割を果たしたのであるが、二人の結びつきが古く由来することは、四一九頁の系図を見れば判然とするであろう。
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資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『平安時代史事典』より。

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統子内親王 むねこないしんのう
(一一二六~八九)鳥羽天皇第二皇女。母は大納言藤原公賢女璋子(待賢門院)。同母兄弟に禧子内親王、後白河天皇、通仁・君仁・本仁親王(覚性法親王)がいた。大治元年七月二十三日誕生。本名恂子。同年十二月着袴。翌年四月、無品のまま三后に准ぜられ、賀茂斎王に卜定。長承元年(一一三二)病のため在任六年にして退下。同三年、式部大輔藤原敦光の勘申により改名。康治二年(一一四三)新造三条烏丸第に移徙。久安元年(一一四五)母待賢門院の崩後はその所領を伝領。同三年、三条東洞院第に遷る。保元三年(一一五八)、同母弟後白河天皇の准母として皇后に冊立。翌平治元年院号を宣下され、上西門院と号した。永暦元年(一一六〇)法金剛院において出家。法名は真如理といった。寿永元年(一一八二)関白藤原基房の子家房を養子とする。文治五年七月、六条院において崩御。法金剛院において火葬に付された。武家政権の出現に果たした役割は大きく、源義朝・頼朝の政治的進出の背景には上西門院の存在があった。義朝は上西門院の女房である大進と婚しており、また頼朝は上西門院蔵人を務め、右兵衛権佐に任ぜられている。また和歌に秀で、一大文芸サロンを形成。西行との交流も深かった。
[史料]【中略】
[研究]目崎徳衛『西行の思想史的研究』(東京、昭53)、五味文彦『院政期社会の研究』(東京、昭和59)、所京子『斎王和歌文学の史的研究』(東京、平1)
[関口勉]
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0262 桃崎説を超えて。(その27)─「守覚擁立計画」について

2025-02-09 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第262回配信です。


一、前回配信の補足

ISHIDA BUNICHIさんより以下の指摘。

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後白河の二条への「愛情」については、蓮華王院の一件で、後白河が「何の憎さに…」とぼやいたことで理解できるかと存じます。
https://x.com/uizhackiinmuufb/status/1887741028536390119

0245 桃崎説を超えて。(その10)─平治の乱以降の後白河・二条父子の関係〔2025-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65981c52b916a7e741ba8e02949cc673

『日本古典文学大系86 愚管抄』(岩波書店、1967)p239以下
-------
サテ後白河院ハ多年ノ御宿願〔しゆくぐわん〕ニテ、千手観世音千体ノ御堂ヲツクラントオボシメシケルヲバ、清盛承リテ備前国ニテツクリテマイラセケレバ、長寛二年十二月十七日ニ供養アリケルニ、行幸アラバヤトオボシメシタリケレド、二條院ハ少シモオボシメシヨラヌサマニテアリケルニ、寺ヅカサノ勧賞〔けんじやう〕申サレケルヲモ沙汰モナカリケリ。親範職事〔しきじ〕ニテ奉行シテ候ケル、御使〔おんつかひ〕シケル。コノ御堂ヲバ蓮華王院トツケラレタリ。ソノ御所ニテ御前ヘ召テ、「イカニ」ト仰〔おほせ〕ラレケレバ、親範、「勅許候ハヌニコソ」ト申タリケレバ、御目ニ涙ヲ一〔ひ〕ヒトハタウケテ、「ヤゝ、ナンノニクサニ/\」トゾ仰ラレテ、「親範ガトガトマデオボシメサレ候〔さふらひ〕ニシ。ヲソレ候テ」トゾ親範ハカタリ侍ケル。此御堂ハ、真言ノ御師〔おんし〕ニテコマノ僧正行慶ハ白河院ノ御子也。三井門流〔みゐもんりう〕ニタウトキ人ナリシカバ、院ハ偏〔ひとへ〕ニタノミオボシメシタリケルガ、コトニサタシテ中尊ノ丈六ノ御面相ヲ御手ヅカラナヲサレケリ。万〔よろづ〕ノ事ニ心キゝタル人トゾ人ハ云ケル。六宮ノ御師ナリ。
-------

資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「「中小別当」惟方」〔2025-01-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34d80c6183d14e3bd8deed97e856e7b2

後白河は蓮華王院の落慶供養に二条の行幸を希望。
しかし、二条は無視。
寺の諸役人の功労を賞するよう申し入れたが、これも二条は無視。
後白河と二条は完全に対立・断絶している訳ではないが、非常に冷たい関係。
後白河は二条をそれなりに尊重しているが、二条は冷酷であり、その二条の冷酷さが後白河には理解できない。
→非常に不幸な父子関係


ニ、「守覚擁立計画」について

資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5

資料:桃崎有一郎氏「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」〔2025-02-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/241e0e8e3f60ea91047f9b8b78a7c5b3
コメント (3)
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資料:桃崎有一郎氏「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」

2025-02-08 | 鈴木小太郎チャンネル2025
資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd
資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5


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  第一〇章 「信西謀反」の真相と守覚擁立計画

二条天皇の動機─後白河院政否定=信西一家失脚=二条親政実現
二条親政で二条は傀儡ではなかった─多子入内という暴走
二条は君臨の危機を暴力で解決するため三条殿を襲撃させた
信西の梟首は二条に対する謀反容疑の証拠
守覚・上西門院の出家は信西一家の赦免と一つの事件
信西の「謀反」の内実は守覚擁立による二条皇統の否定
守覚擁立の動機─美福門院との訣別
二条は一年後に同じ構図で異母弟の立太子を拒む
恩人の美福門院も疎んじて皇位に執着する二条
王家で孤立して子供じみた独善に走る二条
皇位継承抗争の結末と清盛の台頭
-------

p186以下
-------
【前略】二条は政務を執るためではなく、後白河院政の否定そのものを目的として事件を起こした可能性が高い。
 では、そのためになぜ、後白河の三条殿を襲撃・放火する必要があるのか。
 ヒントは、この事件が保元の乱の二番煎じだったことにある。保元の乱は、後白河天皇が崇徳院・藤原頼長に対して、非常手段に訴えるべき危機感と、断固たる姿勢を示した事件だ。崇徳・頼長が今すぐにでも反逆を起こして後白河天皇の君臨を否定しに来る、という危機感に耐えきれなくなった天皇側が、手遅れになる前に暴力に訴えたのだ。そこから類推すると、三条殿襲撃は、後白河院・信西が今すぐにも二条天皇の君臨を否定しに来る、という危機感に耐えきれなくなった二条が、ことの重大さと緊急性から、非常手段をもって断固たる姿勢を示す決意を固め、手遅れになる前に暴力に訴えた事件だった可能性が高い。

信西の梟首は二条に対する謀反容疑の証拠

 では、それほど緊急の、重大な危機とは何か。鍵は、信西一家の処罰理由にある。
 一二月一七日、信西の首は鴨川の河原で検非違使に引き渡され、検非違使は大路を渡し、つまり群衆の収容能力が高い大路をわざと通り、沿道の群衆に首を誇示しながら進んでから、西の獄の門前にあった木に首を吊して晒した(『百錬抄』平治元年一二月一七日条)。
 これは朝廷の伝統的な梟首(晒し首)の作法である。【中略】
 このように、謀反人でも梟首されない事例はあるが、梟首された人が謀反人でなかった事例は、平安時代にはない。したがって、すでに河内氏が指摘した通り、信西が梟首された事実は、朝廷が信西を謀反人と断定したことを意味する[河内02‐一二五頁]。【中略】
 では、二条が公的に認定した<信西の二条に対する謀反>の中身は、何だったのか。【中略】

守覚・上西門院の出家は信西一家の赦免と一つの事件

 その内実を探れる材料は、現状では一つしかない。河内氏が指摘した、守覚の出家である。後白河は、二条の弟にあたる守覚の皇位継承を望んだが、それを不可能にして守覚を仁和寺の御室(長)に押し込む出家の予定日が、タイムリミットとして迫っていた、と河内氏は主張した。【中略】
 先述の通り、河内説の全体は成立しない。しかし、<平治の乱の主因が皇位継承問題にあり、焦点に守覚がいた>という氏の着眼は、別の出来事と組み合わせると、真実に迫る鍵になる。
 その出来事とは、後白河の姉である上西門院の出家だ。守覚は、永暦元年(一一六〇)二月一七日に出家した〔『仁和寺御室系譜』、『仁和寺御伝』喜多院御室〕。その全く同じ日に、上西門院も出家していた〔『女院記』『女院小伝』〕。河内説に従った場合、そうなった理由を説明できない(そのためか、氏は上西門院の出家に言及しない)。守覚の母は、藤原季成の娘の成子(高倉三位局)であり〔『仁和寺御伝』喜多院御室、『本朝皇胤紹運録』〕、上西門院・後白河を産んだ待賢門院は季成の姉だ。入り組んでいるが、上西門院の母方の祖父藤原公実は、守覚の父方の曾祖父(父の母の父)であり、守覚の母方の曾祖父(母の父の父)でもある(一四三頁図15参照)。いい換えると、守覚は、父後白河院を通せば上西門院の甥であり、母成子を通せば上西門院の従姉妹の子である。その意味では濃密な一族関係にあるが、同じ日に出家するには、養子関係でもよいから上西門院が直系の尊属であるくらいの近さがないと、自然でない。上西門院には、守覚と一緒に出家する理由がないのである。【中略】
 彼女が病気だった形跡もない。すると、彼女自身には、この日に出家する個人的理由がなくなる。そして当時、彼女の最も重要な社会的属性は、<同母弟の後白河が最も大切にした家族>という点にあった。その後白河の家族(次男)で、なおかつ彼女と直接つながりがない守覚が、同じ日に出家した。その事実は、次の構図を浮かび上がらせる。後白河の家族全体に俗世での繁栄を諦めさせる圧力がかかり、上西門院と守覚が出家に追い込まれたのだろう、と。
 では、それはどこからの圧力か。ヒントは経宗・惟方の逮捕だ。後白河は二人を逮捕させるために、清盛に躊躇なく内裏を襲撃させ、二人を内裏の門前に引き据え、自らそこに出向き、眼前で拷問させた。その凄まじい怒りを後白河が爆発させた逮捕劇の日は、実は後白河の大切な家族である上西門院と守覚が出家した永暦元年(一一六〇)二月一七日の、わずか三日後だった。さらに興味深いことに、その経宗・惟方の逮捕のわずか二日後に、信西一家が赦免され復権した。その六日間の三つの事件は、一つの大事件と考えるべきだ。

信西の「謀反」の内実は守覚擁立による二条皇統の否定

 その大事件とは、次のようなものと考えざるを得まい。二条一派は、上西門院と守覚を出家に追い込み、上皇御所の桟敷を封鎖して院政を否定する大攻勢を、後白河一家に仕掛けた。しかし、忍耐の限界を超えた後白河は逆襲に転じ、経宗・惟方を失脚させて二条の羽翼を奪い、彼らが弾圧した自分の羽翼の信西一家をすぐに復権させた、と。
 なぜ、桟敷封鎖事件のような子供じみた嫌がらせ事件が起きたのか、私は長らく疑問に思ってきたが、ここまで多くの考察を重ねた結果、シンプルで最良の答えにたどり着いたようだ。一八歳の二条という、精神的に幼い人の仕業だったのだ、と。
 二月一七日~二二日の六日間は、二条一派が容赦なく後白河一派を弾圧して優勢だった段階から、後白河一派が一発逆転を果たし、優勢に立った正念場だった。そして逆転の結果、経宗・惟方は解官・流罪となって失脚し、それで勝敗が確定した。この六日間は、後白河が劇的に劣勢を覆し、そのまま二条一派との抗争の勝利を確定させた最終決戦だったのだ。
 この一連の事件に、守覚の出家と信西一家の復権が含まれていた。つまり、守覚の出家と信西一家の没落は直結し、どちらも二条一派の画策だった。ならば、こう考えられる。二条一派の望みに反して、信西は守覚の出家を阻止しようとしていた、と。その動きを「謀反」と断定するのは飛躍だ。その飛躍を埋める筋書きは、こうなるだろう。信西は、二条の次の天皇に守覚を立てようとした。それは、現天皇の二条が持つ皇位の処分権を踏みにじり、正統な次代天皇である二条の息子から皇位を奪い、そして二条が天皇の父として治天の君となって院政を敷ける可能性を奪う。すべて君主権の侵害であるから「謀反」である、と。
【後略】
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※傍点部を太字としました。
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0261 桃崎説を超えて。(その26)─やる気のない帝王・後白河

2025-02-07 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第261回配信です。


一、前回配信の補足

守覚法親王の問題は河内祥輔氏が提起。
河内氏の「後白河院黒幕説」は誰の支持も得ていない超絶単独説なので、守覚法親王についても今までさほど検討して来なかった。
しかし、桃崎有一郎氏は河内氏が守覚法親王に着目した点について「従来の学説の中で最大の価値があった着眼といっていい」とまで絶賛され、河内説を「二条天皇黒幕説」の立場から修正した独自説を展開。

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5

桃崎説は極めて難解だが、これを理解するためには前提として河内説をきちんと押さえておく必要があるので、改めて検討してみたい。


ニ、やる気のない帝王・後白河

資料:河内祥輔氏「皇位継承問題のあり処」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6ac6391076aea0194097d3924f9f66e

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101
資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1

河内説:
「天皇は往々にして、父(祖父)の決めた通りに事が進むことに反発するもの」
「鳥羽自身がそうであった」
「後白河の数々の行状、すなわち、保元の乱で崇徳を葬り去り、平治の乱後に二条と対立し、さらには平清盛とも対立した、その激しさを見るとき、温和に父の遺志を受け容れるイメージは何とも似つかわしくない。むしろ、後白河のような人物にこそ、父に対して反抗する姿が似合っているであろう」
「しかしながら、文献上にその徴証を見出すことができるわけではない。無意味なことと言われるかもしれないが、あえて想像を廻らしてみよう」

二条天皇(1143‐65、母:大炊御門経実女・懿子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
守覚法親王(1150‐1202、母:藤原季成女・成子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%A6%9A%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
以仁王(1151‐80、母:藤原季成女・成子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B

父・鳥羽院が決めた二条天皇ではなく、自分の希望する別の皇子に皇位を継承させようと執念を燃やす後白河院像は、「今様狂いの前半生」(棚橋光男氏)との整合性があるのか。

資料:馬場光子氏『梁塵秘抄口伝集 全訳注』〔2025-02-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/de06bbf68834c38687844ac47911b41e
資料:棚橋光男氏「今様狂いの前半生」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2fb5514e7e452060a14f88ad99d998b

二条天皇に主体性を認めず、平治の乱は平治元年(1159)十二月で終わりとする通説的な立場だと、乱の終了後から後白河と二条の権力闘争が始まり、その嚆矢が桟敷事件となる。
しかし、「二条天皇暴発説」からは、二人の暴力的対立は経宗・惟方流罪で既に終わっていて、以後は比較的平穏な時代が二条の死まで続くことになる。
この間、後白河・二条・藤原忠通・基実の四者による協調期(というより責任回避のタライ回し期)を経て、平滋子所生の皇子(高倉天皇)誕生の頃から後白河が「排除」され、二条と忠通が主導するようになると言われている。
しかし、実際には当該時期から後白河が従来のような形で朝廷の意思決定に関わらなくなった事実が確認されるだけで、「排除」の具体的根拠はない。
→後白河が自制した可能性も。

そもそも三条殿襲撃・放火という二条の露骨な暴力に比べれば、経宗・惟方の捕縛・流罪は微温的な暴力であり、全く釣り合っていない。
経宗・惟方流罪後、後白河は二条を完全に排除することも可能だったはずだが、タライ回しとはいえ、むしろ二条を尊重するような扱い。

平治の乱後、基本的には後白河が二条に対して自制しているのではないか。
その理由は何か。

(1)芸術家肌の後白河はもともと余り政治が好きではない。
(2)信頼を偏愛し、増長させてしまったのは自分で、自分も平治の乱に全く責任がない訳ではない、という引け目。
(3)二条に対する父親としての愛情。

また、二条に対しては藤原伊通が『大槐秘抄』を献じている。
内容は大半が平凡な説教であって、あまり面白いものではない。
ただ、二条も若気の至りをいろいろ反省し、このような忠告を受け容れる程度には成長した、ということで、これも後白河が自制した理由に加えてよいのではないか。
コメント (3)
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資料:河内祥輔氏「皇位継承問題のあり処」

2025-02-07 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34533.html

資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その1)(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8ea4593a6466c0bf0bff9f5a0f7dead
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e
資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』「はじめに」〔2025-01-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/144dd2989f95f008e84c6114845660d1
0259 桃崎説を超えて。(その24)─河内祥輔説の問題点〔2025-02-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac9db96aefb10ef274ecd9767e432a16

p113以下
-------
(8)皇位継承問題のあり処

 以上のごとく、皇位継承は鳥羽法皇の決めた通りに進んでゆくということであり、もはやその問題は解決し切っているように見える。しかし、はたしていかがであろうか。表面上はそのようであっても、実はそこに問題が胚胎するであろう。
 天皇は往々にして、父(祖父)の決めた通りに事が進むことに反発するものである。鳥羽自身がそうであった。彼が崇徳を冷遇したのは、祖父白河が崇徳を直系に定めたからであった。天皇は後継者を自らの意思で選ぼうとする。それによって、天皇としての自らの権威を確立しようとするのである。後白河についても、この観点は必要であろう。
 後白河は父鳥羽が定めた通りに、二条を直系として素直に認めていたのであろうか。後白河の数々の行状、すなわち、保元の乱で崇徳を葬り去り、平治の乱後に二条と対立し、さらには平清盛とも対立した、その激しさを見るとき、温和に父の遺志を受け容れるイメージは何とも似つかわしくない。むしろ、後白河のような人物にこそ、父に対して反抗する姿が似合っているであろう。
 しかしながら、文献上にその徴証を見出すことができるわけではない。無意味なことと言われるかもしれないが、あえて想像を廻らしてみよう。問題は、二条の即位によって、皇太子が空いたことにある。誰が次の皇太子に立つのであろうか。
 勿論、朝廷には合意があった。二条の男子を皇太子に立てることが鳥羽の遺志であり、そのために鳥羽の皇女(姝子内親王)が二条に配されてもいた。しかしながら、その結婚から二年を経たにもかかわらず、まだ懐妊の徴候はない。他の妻にも子供は生まれていない。まだ合意がそのままに実現されてはいない状態にあった。
 そこで一つの可能性が生まれよう。合意の柔軟な運用という方法である。二条の男子が皇位を継承するという合意を認めた上で、なおその間に別の者の即位があってもよいのではないか、という考え方がありえるだろう。ここに後白河がその意図を実現できる手懸かりが潜んでいるように思われる。二条に男子が誕生しない間がそのチャンスであろう。
 それでは、後白河はどのような皇位継承の候補者を用意できたであろうか。当時、後白河には三人の男子がいた。長男は二条、次男は後の守覚法親王、三男は後の以仁〔もちひと〕である。次男と三男は同腹で、母は藤原季成(公実の男子)の娘季子(高倉三位局)であり、同母姉妹に殷富門院(亮子内親王)や式子内親王らがいる。閑院流が外戚であるとなれば、二条に引けは取らない。次男は一一五九(平治元)年に十歳、三男は九歳であった。
 後白河の妻には中宮に忻子(公能の娘)、女御に琮子(公教の娘)がいた。どちらでも男子を産めば、有力な皇位継承者として公然と浮上したであろうが、ついに男子は生まれていない。したがって、二条以外に皇位継承者を挙げるとなれば、それは次男である。
 この次男は、一一五六(保元元)年十一月、七歳で仁和寺の入道親王覚性に入室し、出家の道を歩んでいた。皇位継承には縁のない存在にされていたわけである。しかし、それで話が決まるかといえば、この場合は必ずしもそうではなかろう。まさに身近に二条の例がある。二条も入室して出家の道を歩みながら、一転、立太子したのであった。二条と同じことが、次男の身の上にも起こらないとは限らない。
 結果をいえば、次男は平治の乱の二ヵ月後、一一六〇(永暦元)年二月十七日に出家を遂げている。これによって、次男、すなわち、守覚の皇位継承資格は失われた。それにしても、平治の乱と守覚の出家との時間的関係はきわめて微妙であろう。守覚がこの二月に出家することは、おそらくかなり以前に決まっていたはずである。平治の乱は、まだ守覚の出家を止めることができるという、そのタイムリミットの時期に起きているのである。
 この点に、卑見は無視しがたい問題性を感じる。たしかに守覚と皇位継承問題との絡みは憶測にすぎず、文献には表れない。しかし、これはそもそも文献に表れるはずのない話なのではなかろうか。
 後白河が守覚の立太子を望んだとしても、彼はそれを誰に相談できるであろか。守覚擁立案に理解を示してくれる者が、後白河の周囲にいるとは思われない。後白河はこの意図を、自分一人の心の中に密かに封じ籠める以外になのではないか。
 まずは信西が問題になろう。もしも信西が守覚擁立案を知れば、おそらく真っ先に反対するであろうという予想がつく。信西に漏らすことはできない。そのような信西は、後白河にとって鬱陶しく邪魔な存在といえるのではないか。
 となると、その信西のライバルとして、信頼がにわかに登場することの意味が問われなければならない。なぜ突然に後白河は信頼を寵愛するようになったのか、一筋の糸が繋がるように思われる。後白河の鬱屈した衝動、すなわち鳥羽法皇の遺志の遵守という合意に対する反感が、そこにみえてくるのではなかろうか。
-------


参考:河内説への批判

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101
資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1
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資料:棚橋光男氏「今様狂いの前半生」

2025-02-07 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『後白河法皇』(講談社選書メチエ、1995)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151368
 
資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」〔2024-12-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861

p84以下
-------
今様狂いの前半生

 いよいよ後白河論(本論)に入る。
 まず、関係系図を掲げておこう。《後白河王朝》の創設をめざしての精力的な邁進の日々がご理解いただけるであろう。

鳥羽・後白河関係系図(要部)【略】

 雅仁親王(後白河)の践祚は、一一五五年(久寿ニ)七月二十四日。二九歳(満ニ七歳一〇ヵ月)のことだ。その践祚が鳥羽=美福門院=関白忠通の提携によったこと、むしろ崇徳の子重仁親王即位の野望を封殺し、守仁親王(当時一三歳)即位を実現するまでの"ワンポイント・リリーフ"の性格が当初は強かったこと、践祚・即位後の親政の期間は擁立に暗躍した乳父(乳母の夫)信西が政策立案・遂行の全般をリードし、"後白河親政"というよりは、"信西親政"(「信西政権」)の性格が強かったことなどは周知の事実だ(だから、「後白河が信西を重用した」というよりは「信西が後白河を傀儡にして"自己実現"をはかった」といった方が正確だ)。鳥羽=美福門院=関白忠通ラインの策謀も、信西の思惑も、後白河は少なくとも政治的には暗愚で政治的執着が希薄で、御しやすいという判断が基底にあったことは間違いない。
 ともかく白河院政以降、堀河(一〇歳)、鳥羽(五歳)、崇徳(五歳)、近衛(三歳)と幼少の天皇が続いた。二九歳の践祚はそれだけでも異例であった。そして、践祚までの後白河の前半生は、まさしく《今様狂い》の前半生であり、《今様狂い》は践祚・即位後も際限なく続く。
 まず、そのハンパでない VITA MUSICA =音楽的自叙伝『梁塵秘抄』口伝集巻十から。

【以下二字下げ】
そのかみ十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事無し。……四季につけて折を嫌はず、昼は終日〔ひねもす〕に謡ひ暮らし、夜は終夜〔よもすがら〕謡ひ明かさぬ夜は無かりき。夜は明くれど戸蔀〔としとみ〕を上げずして日出づるを忘れ、日高くなるを知らず。その声を止まず。大方夜昼を分かず、日を過し月を送りき。その間、人数多〔あまた〕集めて、舞ひ遊びて謡ふ時もありき。四五人・七八人、男女ありて、今様ばかりなる時もあり。常に在りしものを番におりて、我は夜昼相具して謡ひし時もあり。又、我独り雑芸集をひろげて、四季の今様・法文〔ほうもん〕・早歌〔はやうた〕に至るまで、書きたる次第を謡ひ尽くす折もありき。声を破〔わ〕る事三箇度なり。二度は法の如く謡ひ交はして、声の出づるまで謡ひ出したりき。あまり責めしかば、喉腫〔は〕れて、湯水通ひしも術無かりしかど、構えて謡ひ出しにき……。

 掲載したのは、口伝集の冒頭部分。このあと、「十余歳」、今様の魅力にとりつかれた初心から治承年間(一一七七~一一八一)、五十代の「今」まで、一途な執心が回顧される
 左の系図は、『今様之濫觴』(尊経閣文庫所蔵)に記す師資相承の系譜をリライトしたもの。口伝集では、回想をたどりつつ後白河の真摯な精進が時を追って綴られていく。
 このような後白河にかかっては、『愚管抄』が「鳥羽院失せさせ給ひて後、日本国の乱逆と云ふことはをこりて後、むさ(武者)の世になりにける」とおどろおどろしく書き記した内乱の時代への突入=保元乱も、「鳥羽院崩〔かく〕れさせ給ひて、物騒がしき事ありて、あさましき事出で来て、今様沙汰も無かりしに」という表現になってくるのだ。このような表現と記述に、私は後白河の魔性と狂気を見る。
 口伝集全篇を通じて、今様という芸術の広さと深さが存分に描写されていく。そして次の叙述など、同じ一つの道、芸術を通じてのみ共有することのできる感動が惻々と我々の心を打つ。

【以下二字下げ】
法住寺の広御所にして今様の会あり。小大進が足柄を聞くに、我(後白河)に違はぬ由〔よし〕申す。……人々、「いづらあこ丸がに似たりける。五条がには違がはず」など云ひ合ひたり。「釈迦の御法〔みのり〕は浮木」の歌、「今は当来弥勒」と上ぐる所など、露ばかりも御所(後白河)の御様に違はずと、その座に侍る成親卿……(等)、色代〔しきだい〕かひがひしく、この節〔ふし〕違はぬを賞〔め〕で感ず。広時、「御歌も聞かぬ居中〔いなか〕より上りたるが、欺【ママ】く露違はぬ事の、物の筋あはれなる事」とて流涕するを、人々これを笑ひながら、皆涙を落とす。あこ丸腹立ちて、小大進が背中を強く打ちて、「良かむなる歌、また謡はれよ」と云ふ。皆人憎み合ひたり……。

 今様という芸術のみによって結ばれた人々の、芸道精進の深さの分だけ増幅される愛憎悲喜劇だ。
 口伝集末尾に、後白河は、

【以下二字下げ】
大方、詩を作り和歌を詠み手を書く輩は、書き留めつれば、末の世までも朽つる事無し。声技の悲しきことは、我が身崩〔かく〕れぬる後、留まる事の無きなり……。

と記す。
 一つの芸術をきわめた者のみに許される執心が、傍点部にはこめられている。
-------

※「傍点部」を太字としました。

参考:「梁塵秘抄口伝集巻第十」(「紅玉薔薇屋敷」サイト内)
http://false.la.coocan.jp/garden/kuden/index10.html

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0260 桃崎説を超えて。(その25)─「平治の乱直前アンケート」

2025-02-06 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第260回配信です。


一、前回配信の補足

資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1

呉座氏の見解の興味深い点。
普通は「二条親政派」の筆頭に大炊御門経宗を挙げるが、呉座氏は「藤原惟方ら二条親政派」とする。
経宗は謎の存在。

資料:遠藤基郎氏『後白河上皇 中世を招いた奇妙な「暗主」』〔2025-01-11〕
0243 桃崎説を超えて。(その8)─後白河院と「アスペルガー症候群」〔2025-01-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f123a0c2ea76e7758a7d44570f6cd0e3
資料:遠藤基郎氏『後白河上皇 中世を招いた奇妙な「暗主」』(その2)〔2025-01-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2fc8effdfd6073f8ddd64aac778202e
0245 桃崎説を超えて。(その10)─平治の乱以降の後白河・二条父子の関係〔2025-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65981c52b916a7e741ba8e02949cc673


ニ、「平治の乱直前アンケート」

実施日:平治元年(1159)十一月十五日
対象 :朝廷関係者(武士を含む)
内容 :

Q1:あなたは朝政に興味がありますか。

大いに興味がある。
ある程度興味がある。
あまり興味がない。
全然興味がない。

Q2:Q1で「あまり興味がない」「全然興味がない」と答えた方への質問です。
   あなたが「あまり興味がない」「全然興味がない」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

政治は難しくて理解できない。
政治家の質が低い。
応援したい政治家や派閥がない。
自分がどう考えようが、政治に影響を与えることはできない。
趣味(和歌・今様・管弦・蹴鞠等)の方が大切である。
世俗の出来事には興味がなく、早く出家したい。
その他。(具体的に:            )

Q3:あなたは信西氏の政治運営に満足していますか。

大いに満足している。
ある程度満足している。
あまり満足していない。
全く満足していない。

Q4:Q3で「大いに満足している」「ある程度満足している」と答えた方への質問です。
   あなたが「大いに満足している」「ある程度満足している」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

知識が豊富で信頼できる。
大内裏の造営等の実績が素晴らしい。
従来の慣行にとらわれず、斬新な政策を打ち出してくれる。
性格が良い。
自分の官位官職を引き上げてくれた。
自分に荘園の職などの利権を与えてくれた。
自分の嫌いな人を弾圧・放逐・圧迫するなどしてくれた。
その他。(具体的に:            )

Q5:Q3で「あまり満足していない」「全く満足していない」と答えた方への質問です。
   あなたが「あまり満足していない」「全く満足していない」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

知識が乏しい人を馬鹿にする。
頭が良いのを誇って偉そうにしている。
性格が良くない。
家族・親族への依怙贔屓が過ぎる。
自分の官位官職を引き下げた。
自分の荘園の職などの利権を奪った。
自分の親族や友人を弾圧・放逐・圧迫するなどした。
その他。(具体的に:            )

Q6:Q3で「あまり満足していない」「全く満足していない」と答えた方への質問です。
   仮に信西氏の政治運営を止めさせる動きが生じた場合、あなたは参加しますか。

大いに参加したい。
ある程度参加したい。
あまり参加したくない。
全く参加したくない。

Q7:Q6で「あまり参加したくない」「全く参加したくない」と答えた方への質問です。
   あなたが「あまり参加したくない」「全く参加したくない」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

信西以外の人が政治を運営しても、特に世の中が良くなるとは思えない。
自分が参加しても、特に活躍できそうもない。
トラブルに巻き込まれたくない。
失敗したときの報復が怖い。
その他。(具体的に:            )

Q8:Q6で「大いに参加したい」「ある程度参加したい」と答えた方への質問です。
   あなたが「大いに参加したい」「ある程度参加したい」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

正義の実現に貢献したい。
自分の官位官職の上昇につながると予想されるから。
荘園の職の獲得など、自分の経済的地位の上昇につながると予想されるから。
中心となるはず人が、自分の親族・友人だから。
その他。(具体的に:            )

Q9:Q6で「大いに参加したい」「ある程度参加したい」と答えた方への質問です。
   信西氏打倒の手段としてはどこまで許容しますか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

信西氏が失脚するように、後白河院または二条天皇に要請する。
信西氏が失脚するように、信西氏に関する悪い噂などを流す。
信西氏を襲撃し、傷害を負わせる(殺害まではしない)。
信西氏の自宅を襲撃・放火し、信西氏とその家族を殺害する。
信西氏の勤務先である三条殿を襲撃・放火し、信西氏とその家族を殺害する。(三条殿に居合わせた人に多少の犠牲が出るのは仕方ない)
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資料:馬場光子氏『梁塵秘抄口伝集 全訳注』

2025-02-06 | 鈴木小太郎チャンネル2025
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『梁塵秘抄口伝集 全訳注』(講談社学術文庫、2010)

平安末期に大流行した「今様」を集大成し、歌詞集十巻・口伝集十巻、現存すれば五千余首を数え『万葉集』にも匹敵したとされる大歌謡集「梁塵秘抄」。このうち、後白河院が生涯を通しての今様習練、今様の歴史、傀儡女たちとの交流、編纂の意図等を綴った『梁塵秘抄口伝集』こそが主流であった。全訳、懇切な注釈に加え、今様の基礎知識も詳しく解説。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211476

p32
-------
 神楽〔かぐら〕、催馬楽〔さいばら〕、風俗〔ふぞく〕、今様の事の起こりより始めて、娑羅林〔しやらりん〕・只の今様・片下〔かたおろし〕・早歌、歌ふべきやう、初積・大曲足柄〔だいごくあしがら〕、長歌をはじめとして様々の声変はる様の歌、田歌にいたるまで記し終はりぬ。かやうの事、一様ならねば、のちに謗ること多からむか。それを知らず。
 故事を記し終はわりて九巻は撰び終はりぬ。詠む歌には、髄脳〔ずいなう〕・打聞〔うちぎき〕などいひて多くありげなり。今様には、いまださること無ければ、俊頼が髄脳を学びて、これを撰ぶところなり。
-------

p37以下
-------
 そのかみ十余歳の時より今にいたるまで、今様を好みて怠ることなし。遅々たる春の日は、枝に開け庭に散る花を見、鶯の啼き郭公〔ほととぎす〕のかたらふ声にもその心を得、蕭々〔せうせう〕たる秋夜、月をもてあそび、虫の声々にあはれを添へ、夏は暑く冬は寒きをかへりみず、四季につけて折をきらはず。昼はひねもすに歌ひくらし、夜はよもすがら歌ひあかさぬ夜はなかりき。夜は明くれど戸・蔀〔しとみ〕を上げずして、日出づるを忘れ、日高くなるをしらず、その声小止まず。おほかた夜昼を分かず、日を過ぐし月を送りき。
-------

p42
-------
 そのあひだ、人あまた集めて舞ひ遊びて歌ふ時もありき。四、五人、七、八人男女ありて今様ばかりなる時もあり。つねにありしものを番におりて、我は夜昼、あひ具して歌ひし時もあり。また我ひとり雑芸集をひろげて、四季の今様・法文・早歌にいたるまで、書きたる次第を歌ひつくす折もありき。声を破〔わ〕ること三箇度なり。二度は法のごとく歌ひ交はして、声の出づるまで歌ひ出だしたりき。あまり責めしかば喉腫れて、湯水かよひしも術〔ずち〕無かりしかど、構えて歌ひ出だしにき。あるいは、七、八、五十日、もしは百日の歌など始めてのち、千日の歌も歌ひ通してき。昼は歌はぬ時もありしかど、夜は歌を歌ひ明かさぬ夜はなかりき。
-------

p47
-------
 資賢、季兼など語らひよせても聞き、鏡の山のあこ丸、主殿司〔とのもりづかさ〕にてありしかば、つねに呼びて聞き、神崎のかね、女院に候ひしかば、参りたるには申して歌はせて聞きしを、「あまりにては。時々はこれにても、いかで聞かではあらむずるぞ」とて、「夜まぜに賜ばむ」とて給ひしかば、あの御方へ参る夜は、人をつけて暁帰るを呼び、我給はる夜は、いまだ明かきより取り籠めて歌はせて、聞き習ひて歌ふ歌もありき。明け方に返し遣りても、なほ歌ひしを、かねが局〔つぼね〕、対〔むか〕へなりしかば、明けてのちもなほ鼓の音の絶えぬさまに、「いつの暇にか休むらん」とあさみ申しき。かくのごとく好みて、六十の春秋を過しにき。
-------

p213以下
-------
 我、永暦元年十月十七日より精進をはじめて、法印覚讃を先達〔せんだち〕にして、二十三日進発しき。二十五日、厩戸の宿に、為保、左衛門尉にてありしに、それが具したりし先達の夢に、「このたび参らせたまふはうれしけれど、古歌を賜ばぬこそ口惜しけれ」と見たる由を申す。「もとより、王子にては、する事をばすなるに、御歌などは、あるべきものを」など言ふ者ありしかど、「あまり下臈がちにて顕証〔けんそ〕にや」など言ふ者もありて、ありしほどに、かく夢のことを聞きて、左右なく歌はむとて、厩戸を夜深く発ちて、長岡の王子に夜のうちに参りぬ。相具したりしかば、太政大臣清盛、大弐と申しし折なるべし、参りあひてありしに、この夢を言ひ合はせしかば、「さる事候はば、さにこそ候なれ。沙汰に及び候はぬ」由を返事に申して、心のうち、「いたく雑人など数多〔あまた〕ありて、いかが」と思ひけるほどに、きと寝入りたりけるに、束帯したる御前具して、唐車に乗りたる者、御幸のなるやらむとおぼしくて、王子の御前に立てたり。この歌を聞くにかと思ひて、きと驚きたるに、今様を或る人出だしたりけり。その歌に曰く、
  熊野の権現は     名草の浜にぞ降りたまふ
  和歌の浦にましませば 年はゆけども若王子〔にやくわうじ〕
これを、驚きて資賢卿に語りてあさまれける。夢に思ひ合せられて、人々、験兆なる由を申し合ひたりき。霜月二十五日、奉幣して、経供養・御神楽など終はりて、礼殿にて、我音頭にて、古柳よりはじめて、今様・物様〔もののやう〕まで数を尽くす間に、やうやうの琴・琵琶・舞・猿楽を尽くす。初度の事なり。
-------

参考:「梁塵秘抄口伝集巻第十」(「紅玉薔薇屋敷」サイト内)
http://false.la.coocan.jp/garden/kuden/index10.html
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0259 桃崎説を超えて。(その24)─河内祥輔説の問題点

2025-02-05 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第259回配信です。


一、前回配信の補足

『平治の乱の謎を解く』p185
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 二条はこの頃、強い自我によって強引な政治を始めていた。その証拠が藤原多子の入内である〔『今鏡』六─ふじなみの下─宮木野〕。多子は徳大寺公能の娘で、教養高く筆跡・絵・音楽に優れ、下々の者にまで気配りを尽くす「なさけ多くおはします」性格に二条が惚れたらしい。多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は統子内親王・姝子内親王・徳大寺忻子(多子の義理の姉妹)の相次ぐ入内によって玉突きで昇進し、平治の乱の日には皇太后となっていた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

「玉突き」の正確な経緯は以下の通り。

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(1)「多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は」、保元元年(1156)10月27日、(「多子の義理の姉妹」ではなく)六歳上の同母姉の忻子が後白河天皇に入内して中宮となったことにより、皇后から皇太后に転じ、
(2)保元3年(1158)2月3日、後白河天皇の一歳上の同母姉、統子内親王が(入内ではなく)後白河天皇の「准母」として立后したことにより、皇太后から太皇太后に転じたが、
(3)保元4年(1159)2月21日、姝子内親王が二条天皇に入内して中宮となったことの影響は受けず、「平治の乱の日には」(「皇太后」ではなく)太皇太后となっていた。


「中宮→皇后→皇太后→太皇太后」の順番が「玉突き」のルールであるが、多子は出発点が皇后なので、二回の「玉突き」で太皇太后に。


資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e

経宗・惟方の逮捕から六日後、二月二十六日に後白河は公卿を院御所に招集。
議題は皇居の件、日吉社参詣の件、熊野参詣の件の三つ。
特に重要なのは皇居の件。
どこを内裏にするかを議論するのは「院政の復活」を象徴。
何故に後白河院政が突如として復活したのか。
河内氏は、ここで「二条方と貴族の間に亀裂が生じるような問題」として「多子の入内」を提示。
「公教らの貴族は、鳥羽法皇の遺志を遵守しようとして、二条を支持し、後白河に反抗したのであった。ところが、乱後一ヵ月にして事態は転変し、二条は鳥羽法皇の遺志を無視する行動をとった。美福門院は怒り、貴族の心はたちまちに二条から離れたであろう」とされる。

しかし、河内説では「二代后」問題が平治元年(1159)十二月の三条殿襲撃・京都合戦と切り離され、永暦元年(1160)正月に突如として発生したような印象を受ける。
以前、私はこの問題を「長恨歌絵」と関連づけて、信西は二条天皇に反省を促すために「長恨歌絵」を作成したものと考えた。
しかし、再考の結果、「長恨歌絵」は「二代后」とは無関係と考えるに至った。

0235 桃崎説を超えて(その1)─「二代后」問題の発生時期〔2024-12-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/374251d95ee52146acc518fa6fba966d
0248 桃崎説を超えて。(その13)─「長恨歌絵」再考〔2025-01-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db4abbbc794a481a23e6c1d2f2467d91

ただ、「二代后」問題の発生時期自体は三条殿襲撃の前で間違いないだろう。
『今鏡』には、二条天皇が何度も多子に手紙を書いたが、多子本人は嫌がり、父親の徳大寺公能も繰り返し反対したとある。
さすがに三条殿襲撃以降にそんなのんびりしたやり取りをするはずはなく、二条が「二代后」問題を惹起して公家社会から反発を受け、特に美福門院・姝子内親王との間に緊張をもたらしたのは三条殿襲撃以前であろう。
そして、二条天皇が三条殿襲撃・京都合戦で自分に逆らう者は殺戮も厭わない冷酷な人間であることを公家社会に周知させたために徳大寺公能も恐れをなし、多子の再入内を認めたということであろう。

資料:『平家物語』巻第一「二代后」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a
資料:『源平盛衰記』巻第二(ろ巻)「二代后の事 附 則天皇后の事」〔2025-01-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eff0f461d9bea75d10cfa4ef78002876


二、河内祥輔説の問題点

『保元の乱・平治の乱』p163
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 公教らの貴族は、鳥羽法皇の遺志を遵守しようとして、二条を支持し、後白河に反抗したのであった。ところが、乱後一ヵ月にして事態は転変し、二条は鳥羽法皇の遺志を無視する行動をとった。美福門院は怒り、貴族の心はたちまちに二条から離れたであろう。
 ここに後白河の付け入る隙が生まれる。後白河は美福門院と貴族の側にすり寄り、二条と経宗・惟方の軽率な行動を咎めることに成功した。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e

河内氏の議論は「後白河院黒幕説」を前提としているので分かりにくい。
河内説の最大の弱点は後白河院が信西を討つ、しかもその際に自らの御所である三条殿を襲撃・放火させる動機。

河内氏は、後白河が二条を退位させて二条の七歳下の異母弟(守覚法親王)を即位させる計画を立てていて、この計画に反対するであろう信西の殺害を謀ったとする。
しかし、史料的根拠は皆無。
この点については、以前、古澤直人氏の河内説批判を紹介したが、呉座勇一氏の見解が非常に分かりやすい。

資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101

なお、桃崎有一郎氏は河内氏が守覚法親王に着目した点について「従来の学説の中で最大の価値があった着眼といっていい」とまで言われるが、河内説を「二条天皇黒幕説」の立場から修正した桃崎説は極めて難解。

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5
コメント (3)
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資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」

2025-02-04 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321609000109/

呉座勇一氏『陰謀の日本中世史』〔2018-03-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c38d905a374d9dc5a351afb8161781

p43以下
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後白河黒幕説は成り立たない

 ところが、河内祥輔氏は右の通説を批判して大胆な新説を提起した。河内氏は平治の乱の政治的背景として後白河院政派と二条親政派の対立を想定する従来の見解を完全に否定する。両派の対立は平治の乱後に発生したものであり、乱前の朝廷は二条親政の速やかな実現という合意が形成されていたというのである。
 確かに両派の対立が露わになるのは平治の乱後であり、乱前から対立していたことを具体的に示す史料はない。信西は後白河上皇の側近だが、もともとは鳥羽法皇の側近であり、鳥羽の遺志である二条親政の実現に反対するはずがないという河内氏の論理展開は一定の説得力を持つ。実際、信西も二条親政への移行は早晩避けられないと考えていた節があり、二条が即位する前から長男俊憲を近侍させるという布石を打っている。
 だが、ここで注意すべきなのは、藤原惟方ら二条親政派が二条天皇の親政の実現そのものを目的としているわけではないという点である。彼らは二条親政下で政治の実権を握ることを目論んでいた。信西は息子たちを朝廷の要所に配置し、二条親政開始に備えて周到に準備を進めていた。惟方らにしてみれば、二条親政が実現したところで、信西一門が権力を維持するのでは意味がない。信西と惟方らの利害が一致していると捉えるのは皮相な見方だろう。
 さて河内氏は、後白河の寵愛によって異例の昇進を遂げた信頼が後白河の意に反する軍事行動を起こすはずはないとする。そして『愚管抄』の記述を読み直し、後白河が信頼らによって監禁されていないと主張した。
 河内氏は従来、藤原信頼らのクーデターにより幽閉された被害者と見られてきた後白河上皇を事件の黒幕とみなす。後白河が側近の信頼に指示して信西を抹殺させたというのである。史料上に後白河の事件への関与が見られないという問題については、清盛の挙兵によって信頼が破れたため、信頼は事件の全責任を押しつけられ、後白河の関与は隠蔽されたと説く。これは、前節で紹介した「立場の逆転」というテクニックである(二二頁を参照)。
 後白河の動機については、後白河が二条を退位させて二条の弟(のちの守覚法親王)を即位させるという計画を秘かに立てており、この計画に反対するであろう信西の抹殺を図った、と河内氏は推測している。つまり、鳥羽法皇の遺志を否定し後白河院政を継続するための「上からのクーデター」だというのである。しかし史料的根拠はなく、想像の域を出ない。
 元木氏が批判するように、仮に後白河が二条親政を阻止したいのならば、真っ先に殺すべきは藤原惟方ら二条の側近であろう。信西一門を標的にするのは筋が通らない。河内説は動機面の説明に大きな問題を抱えていると言わざるを得ない。
 また、何らかの理由で後白河が信西を抹殺したかったとしても、後白河の御所である三条殿を焼き討ちするという過激な方法を採る必然性はない。河内氏は『愚管抄』の記述を再検討し、藤原信頼・源義朝らは三条殿に放火しておらず、三条殿が焼けたのは失火によるものだと主張する。だが古澤氏が批判するように、「三条殿は放火されていない」および「後白河は幽閉されていない」という結論を導いた河内氏の史料解釈はかなり苦しい。
 もし失火だったとしても、その上、後白河が幽閉されていなかったとしても、信頼らの院御所襲撃が後白河の権威を傷つけるものであることは間違いない。後白河が信西を邪魔だと感じたならば、義朝あたりに信西の逮捕を命じれば済む話であり、大規模な軍事行動で人々を怯えさせる必要はない。信西の排除が後白河の意向に反すると考えたからこそ、信頼らは武力に訴えなくてはならなかったのである。したがって、後白河黒幕説は成り立たない。
【後略】
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