『平安朝の女性と政治文化─宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017)
https://www.akashi.co.jp/book/b284845.html
-------
はじめに
1.待賢門院領の形成
2.待賢門院没後の待賢門院領と待賢門院院追善仏事
3.待賢門院の伝領
(1)伝領の実態
(2)目録史料から
おわりに
-------
p216以下
-------
2.待賢門院没後の待賢門院領と待賢門院院追善仏事
待賢門院は久安元年(一一四五)八月に十二日に亡くなる。本節では待賢門院が没した直後の待賢門院領のゆくえを検討する。ここでは、待賢門院の御願寺領、円勝寺領・法金剛院領にも注目して考察を進めたい。
【中略】
「はじめに」で述べたとおり、通説では待賢門院領をその娘の統子内親王(上西門院)が継承したとされているので、ここでの仮説としては、待賢門院の追善仏事も当然のことながら統子内親王が担っているべきであると考えられよう。はたしてそうだったのであろうか。次の史料を見てみよう。
[史料3] 『山家集』雑七七九・七八〇
待賢門院、かくれさせおはしましける御跡に、人々またの年の御果てまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀川の局のもとへ申送りける
尋ぬとも風のつてにも聞かじかし花と散にし君が行衛を
返し
吹風の行衛知らする物ならば花と散にも後れざらまし
[史料4] 『千載和歌集』巻第九、五七八、五七九
待賢門院かくれさせ給うてのち、御忌はててかたがたに帰らせ給ける日 崇徳院御製
限りありて人はかたがた別るとも涙をだにもとどめてしがな
御返し 上西門院の兵衛
ちりぢりに別るゝけふのかなしさに涙しもこそとまらざりけれ
[史料5] 『台記』久安二年六月二十八日条(<>は割注を示す。以下同じ)
廿八日、丙寅、今日新院〔崇徳院〕三条第<故待賢門院家>に、故待賢門院の法事を定めらるると云々。件の先例非参議別当定文を書くべし、しかるに、しかるべき宿老の人々皆執筆あたわず、これによりて左馬頭隆季朝臣これを書く、年二十と云々、
[史料3]は西行の『山家集』にある詞書と歌で、待賢門院が亡くなった次の春、つまり久安二年(一一四六)の春に、西行と待賢門院女房の堀河局が亡き女院を思って贈答した歌で、返しが待賢門院堀河の歌である。待賢門院堀河は、源顕仲の娘で院政期歌壇を代表する女流歌人であり、待賢門院の出家に際して、ともに出家した女房の一人で、待賢門院の側近の女房であった。
[史料4]は『千載和歌集』に採られた崇徳院と上西門院兵衛との贈答歌で、待賢門院の一周忌に際して詠まれたものである。上西門院兵衛とは、[史料3]に登場した待賢門院堀河の妹で、やはり歌人であった。『山家集』には姉同様、西行との贈答歌も残っている。兵衛は、最初待賢門院に出仕して待賢門院兵衛と称したが、待賢門院の没後はその娘、前斎院統子内親王に仕え、のちに上西門院兵衛と称された。[史料4]の時期は待賢門院没の翌年のことであるから、統子内親王はまだ上西門院となっていないが、『千載和歌集』では最終的な呼称を採用して、上西門院兵衛としたのであろう。
[史料3・4]の内容を見てみよう。 [史料3]の傍線部「待賢門院、かくれさせおはしましける御跡に、人々またの年の御果てまで候はれ」から、待賢門院が亡くなった御所には、待賢門院に伺候していた人々が女院の一周忌が終わるまでとどまっていたことがわかる。また、[史料4]の傍線部「待賢門院かくれさせ給うてのち、御忌はててかたがたに帰らせ給ける日」とそれに続く和歌からは、一周忌が終わると、それぞれに別れ解散したことも判明する。
まず、待賢門院が亡くなった御所とは、三条高倉第であった。女院が没すると、初七日から七日ごとの仏事がいわゆる四十九日まで三条高倉第で行われた。また月ごとの命日に行われる月忌、百万遍念仏や、法華経・阿弥陀経・弥勒経など待賢門院の主な追善供養は、女院没後の一年間そのほとんどが三条高倉第で行われている。
[史料5]は、待賢門院の一周忌が迫ってきた久安二年(一一四六)六月二十八日、新院=崇徳院が三条高倉第で、待賢門院一周忌法要の次第を定めたことが記される。そして、この一周忌法要は三条高倉第で、鳥羽院や崇徳院・統子内親王などの子どもたち、貴族・女房など多くの故女院奉仕者を集め、盛大に執り行われた。[史料2]とあわせて考えると、待賢門院に人的に奉仕していた人々が、女院没後も一周忌の喪明けまで三条高倉第に伺候していたのは、没後一年かけて行われたさまざまな待賢門院追善仏事に奉仕するためであったと考えられるのである。
また、[史料5]の傍線部を見ると、「三条第<故待賢門院家>」とある。これは待賢門院が没した三条高倉第に、女院没後も待賢門院の家政機関である待賢門院庁が存続していたことを意味すると思われる。待賢門院庁は別当や判官代・主典代に任じられた貴族たちを構成員とした女院の家政機関であるが、[史料3・4]からは、女房たちも三条高倉第にとどまり追善仏事に奉仕したことがわかるので、その家政機関には女院の女房たちも含まれていたと推察できよう。このように女院没後の女院御所にも家政機関があり、その家政機関の主な役割は故女院の追善仏事であった。それでは待賢門院という主のいなくなった家政機関を主導したのは誰だったのであろうか。それは[史料5]の見られるように、待賢門院一周忌法要という重要な行事を差配した「新院」、すなわち待賢門院の第一皇子崇徳院であったと考えられる。
-------
p221以下
-------
(1)伝領の実態
そもそも、待賢門院領が娘統子内親王(上西門院)に伝領されたということを最初に説いたのは、管見のかぎり芦田伊人編『御料地史稿』(一九三七年)である。次に待賢門院領を取り上げた五味文彦氏は母から娘への伝領を前提としているので、そのまま踏襲している。実は待賢門院領や法金剛院領を扱った研究が意外と少ない。王家領を取り上げた論文のほとんどは八条院領以降のもので、その前段階の待賢門院領あるいは法金剛院領などに関する専論はほとんどないのである。
また、以下はあくまでも史料の残存状況なので一概にはいえないが、待賢門院がその所領群を統子内親王に譲ると明記した文書や記録などの史料はいまのところ残っていない。【中略】
この上西門院の所領経営に関する印象の薄さは、前節での待賢門院仏事執行者の検討に鑑みるに、待賢門院領が待賢門院没後すぐは、その第一子で追善仏事主催者であった崇徳院の管理下にあったということが、大きく影響しているのではないか。すなわち、待賢門院から上西門院への伝領が、通説のようにスムーズになされたのではなく、その間に崇徳院を経由した。そして、その崇徳院が保元の乱で敗れるというかたちで、待賢門院の追善仏事主催者としての資格を喪失したことから、待賢門院領の維持・運営が一時困難となったのではないかと考えられるのである。
ただし、上西門院ものちには母待賢門院のために仏事を行っているし、法金剛院には御堂を建て、御所をもつなど、待賢門院後継者たる動きをしていることも確かである。以下ではこのことについて検証していこう。
まず、待賢門院仏事であるが、統子内親王(上西門院)が行ったとわかるもっとも早い追善仏事は、久寿元年(一一五四)六月二十日の御筆八講である。『台記』同日条によれば、「今日より統子内親王、母院のおんために五日十座講説を行われ、みずから法花経一部、開結経各一巻、転女成仏経、阿弥陀経、心経を筆写し、供養せらるなり、又みずから妙経七千部を転読し、その由を啓白す」とあるので、待賢門院のための追善仏事をみずから企画・執行したことがわかる。また同日の『兵範記』には、「今日より、前斎院(統子内親王)高松殿において御筆御八講始め行わる、一院(鳥羽院)渡りたまふ。ひとえに御沙汰たり。別当公能卿、職事惟方奉行す」とあるので、統子内親王主催の待賢門院追善仏事ではあったが、父鳥羽院の大きな援助がうかがえる。会場の高松殿も、鳥羽院の御所であり、ここからも父院のバックアップによる仏事であったといえるだろう。すなわち、久寿元年六月の御筆八講は、統子内親王が中心となって開催された追善仏事ではあったが、統子内親王がすべて用意したのではなく、費用・会場などは父鳥羽院が用意したものであった。
【中略】
以上のことから、もっとも長く考えて、保元元年(一一五六)の保元の乱までは、崇徳院が法金剛院や法金剛院領などの待賢門院御願寺と御願寺領を含む待賢門院遺領を管理・運用していたと考えられ、統子内親王(上西門院)はそれらを自由にすることはできなかった。それゆえに、久寿元年(一一五四)の母待賢門院追善仏事では、父鳥羽院が娘の主催する仏事を援助したのであろう。その後、崇徳院が保元の乱で敗れると、ようやく統子内親王が待賢門院遺領を継承することとなった。それによって、統子内親王自身が法金剛院御所に滞在して仏事を開催したり、また新たに御堂を建立することができるようになったのだと考える。上西門院は文治元年(一一八九)に亡くなり、法金剛院あたりで火葬された。そして、法金剛院三昧堂に埋葬された母待賢門院のそば近くに埋葬されたという。これは法金剛院と法金剛院領を管理・運営し、母院の菩提を弔った娘女院だからのことであろう。
-------
https://www.akashi.co.jp/book/b284845.html
-------
はじめに
1.待賢門院領の形成
2.待賢門院没後の待賢門院領と待賢門院院追善仏事
3.待賢門院の伝領
(1)伝領の実態
(2)目録史料から
おわりに
-------
p216以下
-------
2.待賢門院没後の待賢門院領と待賢門院院追善仏事
待賢門院は久安元年(一一四五)八月に十二日に亡くなる。本節では待賢門院が没した直後の待賢門院領のゆくえを検討する。ここでは、待賢門院の御願寺領、円勝寺領・法金剛院領にも注目して考察を進めたい。
【中略】
「はじめに」で述べたとおり、通説では待賢門院領をその娘の統子内親王(上西門院)が継承したとされているので、ここでの仮説としては、待賢門院の追善仏事も当然のことながら統子内親王が担っているべきであると考えられよう。はたしてそうだったのであろうか。次の史料を見てみよう。
[史料3] 『山家集』雑七七九・七八〇
待賢門院、かくれさせおはしましける御跡に、人々またの年の御果てまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀川の局のもとへ申送りける
尋ぬとも風のつてにも聞かじかし花と散にし君が行衛を
返し
吹風の行衛知らする物ならば花と散にも後れざらまし
[史料4] 『千載和歌集』巻第九、五七八、五七九
待賢門院かくれさせ給うてのち、御忌はててかたがたに帰らせ給ける日 崇徳院御製
限りありて人はかたがた別るとも涙をだにもとどめてしがな
御返し 上西門院の兵衛
ちりぢりに別るゝけふのかなしさに涙しもこそとまらざりけれ
[史料5] 『台記』久安二年六月二十八日条(<>は割注を示す。以下同じ)
廿八日、丙寅、今日新院〔崇徳院〕三条第<故待賢門院家>に、故待賢門院の法事を定めらるると云々。件の先例非参議別当定文を書くべし、しかるに、しかるべき宿老の人々皆執筆あたわず、これによりて左馬頭隆季朝臣これを書く、年二十と云々、
[史料3]は西行の『山家集』にある詞書と歌で、待賢門院が亡くなった次の春、つまり久安二年(一一四六)の春に、西行と待賢門院女房の堀河局が亡き女院を思って贈答した歌で、返しが待賢門院堀河の歌である。待賢門院堀河は、源顕仲の娘で院政期歌壇を代表する女流歌人であり、待賢門院の出家に際して、ともに出家した女房の一人で、待賢門院の側近の女房であった。
[史料4]は『千載和歌集』に採られた崇徳院と上西門院兵衛との贈答歌で、待賢門院の一周忌に際して詠まれたものである。上西門院兵衛とは、[史料3]に登場した待賢門院堀河の妹で、やはり歌人であった。『山家集』には姉同様、西行との贈答歌も残っている。兵衛は、最初待賢門院に出仕して待賢門院兵衛と称したが、待賢門院の没後はその娘、前斎院統子内親王に仕え、のちに上西門院兵衛と称された。[史料4]の時期は待賢門院没の翌年のことであるから、統子内親王はまだ上西門院となっていないが、『千載和歌集』では最終的な呼称を採用して、上西門院兵衛としたのであろう。
[史料3・4]の内容を見てみよう。 [史料3]の傍線部「待賢門院、かくれさせおはしましける御跡に、人々またの年の御果てまで候はれ」から、待賢門院が亡くなった御所には、待賢門院に伺候していた人々が女院の一周忌が終わるまでとどまっていたことがわかる。また、[史料4]の傍線部「待賢門院かくれさせ給うてのち、御忌はててかたがたに帰らせ給ける日」とそれに続く和歌からは、一周忌が終わると、それぞれに別れ解散したことも判明する。
まず、待賢門院が亡くなった御所とは、三条高倉第であった。女院が没すると、初七日から七日ごとの仏事がいわゆる四十九日まで三条高倉第で行われた。また月ごとの命日に行われる月忌、百万遍念仏や、法華経・阿弥陀経・弥勒経など待賢門院の主な追善供養は、女院没後の一年間そのほとんどが三条高倉第で行われている。
[史料5]は、待賢門院の一周忌が迫ってきた久安二年(一一四六)六月二十八日、新院=崇徳院が三条高倉第で、待賢門院一周忌法要の次第を定めたことが記される。そして、この一周忌法要は三条高倉第で、鳥羽院や崇徳院・統子内親王などの子どもたち、貴族・女房など多くの故女院奉仕者を集め、盛大に執り行われた。[史料2]とあわせて考えると、待賢門院に人的に奉仕していた人々が、女院没後も一周忌の喪明けまで三条高倉第に伺候していたのは、没後一年かけて行われたさまざまな待賢門院追善仏事に奉仕するためであったと考えられるのである。
また、[史料5]の傍線部を見ると、「三条第<故待賢門院家>」とある。これは待賢門院が没した三条高倉第に、女院没後も待賢門院の家政機関である待賢門院庁が存続していたことを意味すると思われる。待賢門院庁は別当や判官代・主典代に任じられた貴族たちを構成員とした女院の家政機関であるが、[史料3・4]からは、女房たちも三条高倉第にとどまり追善仏事に奉仕したことがわかるので、その家政機関には女院の女房たちも含まれていたと推察できよう。このように女院没後の女院御所にも家政機関があり、その家政機関の主な役割は故女院の追善仏事であった。それでは待賢門院という主のいなくなった家政機関を主導したのは誰だったのであろうか。それは[史料5]の見られるように、待賢門院一周忌法要という重要な行事を差配した「新院」、すなわち待賢門院の第一皇子崇徳院であったと考えられる。
-------
p221以下
-------
(1)伝領の実態
そもそも、待賢門院領が娘統子内親王(上西門院)に伝領されたということを最初に説いたのは、管見のかぎり芦田伊人編『御料地史稿』(一九三七年)である。次に待賢門院領を取り上げた五味文彦氏は母から娘への伝領を前提としているので、そのまま踏襲している。実は待賢門院領や法金剛院領を扱った研究が意外と少ない。王家領を取り上げた論文のほとんどは八条院領以降のもので、その前段階の待賢門院領あるいは法金剛院領などに関する専論はほとんどないのである。
また、以下はあくまでも史料の残存状況なので一概にはいえないが、待賢門院がその所領群を統子内親王に譲ると明記した文書や記録などの史料はいまのところ残っていない。【中略】
この上西門院の所領経営に関する印象の薄さは、前節での待賢門院仏事執行者の検討に鑑みるに、待賢門院領が待賢門院没後すぐは、その第一子で追善仏事主催者であった崇徳院の管理下にあったということが、大きく影響しているのではないか。すなわち、待賢門院から上西門院への伝領が、通説のようにスムーズになされたのではなく、その間に崇徳院を経由した。そして、その崇徳院が保元の乱で敗れるというかたちで、待賢門院の追善仏事主催者としての資格を喪失したことから、待賢門院領の維持・運営が一時困難となったのではないかと考えられるのである。
ただし、上西門院ものちには母待賢門院のために仏事を行っているし、法金剛院には御堂を建て、御所をもつなど、待賢門院後継者たる動きをしていることも確かである。以下ではこのことについて検証していこう。
まず、待賢門院仏事であるが、統子内親王(上西門院)が行ったとわかるもっとも早い追善仏事は、久寿元年(一一五四)六月二十日の御筆八講である。『台記』同日条によれば、「今日より統子内親王、母院のおんために五日十座講説を行われ、みずから法花経一部、開結経各一巻、転女成仏経、阿弥陀経、心経を筆写し、供養せらるなり、又みずから妙経七千部を転読し、その由を啓白す」とあるので、待賢門院のための追善仏事をみずから企画・執行したことがわかる。また同日の『兵範記』には、「今日より、前斎院(統子内親王)高松殿において御筆御八講始め行わる、一院(鳥羽院)渡りたまふ。ひとえに御沙汰たり。別当公能卿、職事惟方奉行す」とあるので、統子内親王主催の待賢門院追善仏事ではあったが、父鳥羽院の大きな援助がうかがえる。会場の高松殿も、鳥羽院の御所であり、ここからも父院のバックアップによる仏事であったといえるだろう。すなわち、久寿元年六月の御筆八講は、統子内親王が中心となって開催された追善仏事ではあったが、統子内親王がすべて用意したのではなく、費用・会場などは父鳥羽院が用意したものであった。
【中略】
以上のことから、もっとも長く考えて、保元元年(一一五六)の保元の乱までは、崇徳院が法金剛院や法金剛院領などの待賢門院御願寺と御願寺領を含む待賢門院遺領を管理・運用していたと考えられ、統子内親王(上西門院)はそれらを自由にすることはできなかった。それゆえに、久寿元年(一一五四)の母待賢門院追善仏事では、父鳥羽院が娘の主催する仏事を援助したのであろう。その後、崇徳院が保元の乱で敗れると、ようやく統子内親王が待賢門院遺領を継承することとなった。それによって、統子内親王自身が法金剛院御所に滞在して仏事を開催したり、また新たに御堂を建立することができるようになったのだと考える。上西門院は文治元年(一一八九)に亡くなり、法金剛院あたりで火葬された。そして、法金剛院三昧堂に埋葬された母待賢門院のそば近くに埋葬されたという。これは法金剛院と法金剛院領を管理・運営し、母院の菩提を弔った娘女院だからのことであろう。
-------