学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『平安時代史事典』より。

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統子内親王 むねこないしんのう
(一一二六~八九)鳥羽天皇第二皇女。母は大納言藤原公賢女璋子(待賢門院)。同母兄弟に禧子内親王、後白河天皇、通仁・君仁・本仁親王(覚性法親王)がいた。大治元年七月二十三日誕生。本名恂子。同年十二月着袴。翌年四月、無品のまま三后に准ぜられ、賀茂斎王に卜定。長承元年(一一三二)病のため在任六年にして退下。同三年、式部大輔藤原敦光の勘申により改名。康治二年(一一四三)新造三条烏丸第に移徙。久安元年(一一四五)母待賢門院の崩後はその所領を伝領。同三年、三条東洞院第に遷る。保元三年(一一五八)、同母弟後白河天皇の准母として皇后に冊立。翌平治元年院号を宣下され、上西門院と号した。永暦元年(一一六〇)法金剛院において出家。法名は真如理といった。寿永元年(一一八二)関白藤原基房の子家房を養子とする。文治五年七月、六条院において崩御。法金剛院において火葬に付された。武家政権の出現に果たした役割は大きく、源義朝・頼朝の政治的進出の背景には上西門院の存在があった。義朝は上西門院の女房である大進と婚しており、また頼朝は上西門院蔵人を務め、右兵衛権佐に任ぜられている。また和歌に秀で、一大文芸サロンを形成。西行との交流も深かった。
[史料]【中略】
[研究]目崎徳衛『西行の思想史的研究』(東京、昭53)、五味文彦『院政期社会の研究』(東京、昭和59)、所京子『斎王和歌文学の史的研究』(東京、平1)
[関口勉]
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