『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34533.html
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34533.html
資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その1)(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8ea4593a6466c0bf0bff9f5a0f7dead
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e
資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』「はじめに」〔2025-01-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/144dd2989f95f008e84c6114845660d1
0259 桃崎説を超えて。(その24)─河内祥輔説の問題点〔2025-02-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac9db96aefb10ef274ecd9767e432a16
p113以下
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(8)皇位継承問題のあり処
以上のごとく、皇位継承は鳥羽法皇の決めた通りに進んでゆくということであり、もはやその問題は解決し切っているように見える。しかし、はたしていかがであろうか。表面上はそのようであっても、実はそこに問題が胚胎するであろう。
天皇は往々にして、父(祖父)の決めた通りに事が進むことに反発するものである。鳥羽自身がそうであった。彼が崇徳を冷遇したのは、祖父白河が崇徳を直系に定めたからであった。天皇は後継者を自らの意思で選ぼうとする。それによって、天皇としての自らの権威を確立しようとするのである。後白河についても、この観点は必要であろう。
後白河は父鳥羽が定めた通りに、二条を直系として素直に認めていたのであろうか。後白河の数々の行状、すなわち、保元の乱で崇徳を葬り去り、平治の乱後に二条と対立し、さらには平清盛とも対立した、その激しさを見るとき、温和に父の遺志を受け容れるイメージは何とも似つかわしくない。むしろ、後白河のような人物にこそ、父に対して反抗する姿が似合っているであろう。
しかしながら、文献上にその徴証を見出すことができるわけではない。無意味なことと言われるかもしれないが、あえて想像を廻らしてみよう。問題は、二条の即位によって、皇太子が空いたことにある。誰が次の皇太子に立つのであろうか。
勿論、朝廷には合意があった。二条の男子を皇太子に立てることが鳥羽の遺志であり、そのために鳥羽の皇女(姝子内親王)が二条に配されてもいた。しかしながら、その結婚から二年を経たにもかかわらず、まだ懐妊の徴候はない。他の妻にも子供は生まれていない。まだ合意がそのままに実現されてはいない状態にあった。
そこで一つの可能性が生まれよう。合意の柔軟な運用という方法である。二条の男子が皇位を継承するという合意を認めた上で、なおその間に別の者の即位があってもよいのではないか、という考え方がありえるだろう。ここに後白河がその意図を実現できる手懸かりが潜んでいるように思われる。二条に男子が誕生しない間がそのチャンスであろう。
それでは、後白河はどのような皇位継承の候補者を用意できたであろうか。当時、後白河には三人の男子がいた。長男は二条、次男は後の守覚法親王、三男は後の以仁〔もちひと〕である。次男と三男は同腹で、母は藤原季成(公実の男子)の娘季子(高倉三位局)であり、同母姉妹に殷富門院(亮子内親王)や式子内親王らがいる。閑院流が外戚であるとなれば、二条に引けは取らない。次男は一一五九(平治元)年に十歳、三男は九歳であった。
後白河の妻には中宮に忻子(公能の娘)、女御に琮子(公教の娘)がいた。どちらでも男子を産めば、有力な皇位継承者として公然と浮上したであろうが、ついに男子は生まれていない。したがって、二条以外に皇位継承者を挙げるとなれば、それは次男である。
この次男は、一一五六(保元元)年十一月、七歳で仁和寺の入道親王覚性に入室し、出家の道を歩んでいた。皇位継承には縁のない存在にされていたわけである。しかし、それで話が決まるかといえば、この場合は必ずしもそうではなかろう。まさに身近に二条の例がある。二条も入室して出家の道を歩みながら、一転、立太子したのであった。二条と同じことが、次男の身の上にも起こらないとは限らない。
結果をいえば、次男は平治の乱の二ヵ月後、一一六〇(永暦元)年二月十七日に出家を遂げている。これによって、次男、すなわち、守覚の皇位継承資格は失われた。それにしても、平治の乱と守覚の出家との時間的関係はきわめて微妙であろう。守覚がこの二月に出家することは、おそらくかなり以前に決まっていたはずである。平治の乱は、まだ守覚の出家を止めることができるという、そのタイムリミットの時期に起きているのである。
この点に、卑見は無視しがたい問題性を感じる。たしかに守覚と皇位継承問題との絡みは憶測にすぎず、文献には表れない。しかし、これはそもそも文献に表れるはずのない話なのではなかろうか。
後白河が守覚の立太子を望んだとしても、彼はそれを誰に相談できるであろか。守覚擁立案に理解を示してくれる者が、後白河の周囲にいるとは思われない。後白河はこの意図を、自分一人の心の中に密かに封じ籠める以外になのではないか。
まずは信西が問題になろう。もしも信西が守覚擁立案を知れば、おそらく真っ先に反対するであろうという予想がつく。信西に漏らすことはできない。そのような信西は、後白河にとって鬱陶しく邪魔な存在といえるのではないか。
となると、その信西のライバルとして、信頼がにわかに登場することの意味が問われなければならない。なぜ突然に後白河は信頼を寵愛するようになったのか、一筋の糸が繋がるように思われる。後白河の鬱屈した衝動、すなわち鳥羽法皇の遺志の遵守という合意に対する反感が、そこにみえてくるのではなかろうか。
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参考:河内説への批判
資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101
資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1
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