『王朝の明暗』p422以下
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三
『平治物語』(上)は、義朝が源氏重代の太刀や鎧を一男の義平ではなく、三男の頼朝に授与したことに触れて、『三男なれ共、頼朝は末代大将ぞとみ給ひけるにや』と述べているが、これは誤解であろう。重代の宝物が譲与された理由は簡単であって、義平や朝長が庶腹であるに対して、頼朝は嫡腹の子であったからである。
ところで、頼朝は、保元ニ、三年に十一、二歳で元服し、正六位上に叙されたらしい。保元三年(一一五八)の二月三日、統子内親王が後白河天皇の准母の故をもって皇后に冊立されると、正六位上の頼朝は、皇后宮権少進に任命された。『公卿補任』(文治元年条)や『尊卑分脈』(第三編、清和源氏)には、頼朝が翌平治元年の正月廿九日、右近衛将監を兼任した旨が記されているけれども、これは根本史料によって左兵衛尉と訂正さるべきである。即ち、平治元年二月十三日、皇后・統子内親王が女院に列せられると、頼朝は当然のこととして皇后宮権少進を停められ、代って女院の蔵人に補された。その時、彼の本官は左兵衛尉で、上西門院蔵人は兼職であった。この女院蔵人は、名ばかりのものではなく、現に二月十九日の殿上始〔てんじょうはじめ〕における三回の献盃では、頼朝は別当の藤原実定、殿上人の平清盛など十名ほどの関係者たちに対して初献の杓を取って巡廻しているのである。
平清盛は、平治元年の初めには、正四位下太宰大弐で、四十二歳であった。二月十九日、上西門院の殿上始において頼朝が若い蔵人(十三歳)として清盛らの盃に酒をついで廻ったこと、従って『平治の乱』以前において清盛が確実に頼朝を見ていることは、注意さるべきである。頼朝は、清盛の好敵手である義朝の嫡妻腹の子であったから、清盛はそれを心に留め、頼朝の風貌や挙止を鋭く観察したことであろう。
上西門院の蔵人としての頼朝の勤務期間は、非常に短かった。と言うのは、それから間もない三月一日、彼は母の喪に遭い、左兵衛尉ならびに上西門院蔵人を辞したからである。
平治元年の六月廿八日、頼朝は復任の宣旨を賜わると同時に内の蔵人に補され、今度は二条天皇の側近に仕えることとなった。当時は珍しく内裏が皇居となっていたから、頼朝は、蔵人左兵衛尉として『乱』の勃発(十二月九日)まで内裏に出仕していた訳である。二条天皇の乳母の典侍・源重子(坊門局)は、義朝と昵懇な左衛門尉・源光保の娘であったから、彼の蔵人としての勤務は、それほど苦痛ではなかっただろう。それに院、内裏における暗闘に捲き込まれるにしては、頼朝は齢が若すぎたと認められる。
頼朝の異母兄・朝長がいつ相模国の松田から京に上ったかは不明であるが、それが保元年間であることは確かであろう。朝長は、直ぐに従五位下に叙され、平治元年の二月廿一日、姝子内親王が二条天皇の中宮に冊立された日、中宮少進に任命された。『吾妻鏡』や『平治物語』(上)が朝長を指して『中宮大夫進』と記しているのは、朝長が従五位下の中宮少進であったためである。『平治物語』(中)が朝長を指して、
朝長、生年十六歳。雲の上のまじはりにて、器量、ことがら優にやさしくおはしければ……
と評し、田舎育ちの若者にしては、態度や振舞いが洗練されていたと述べているのは、彼が中宮少進として宮廷生活に関係していたからである。中宮・姝子内親王(高松院)は、同じく内裏におられたから、出仕先こそ違え、頼朝は、次兄と一緒に内裏に勤務していた次第である。
『平治の乱』のさなか、すなわち平治元年十二月十四日に行われた、所謂『信頼人事』によって、頼朝は従五位下右兵衛権佐に叙任された。しかしそれも束の間であって、同じ月の廿八日には、頼朝も位を剥奪の上、解官されたことであった。
四
頼朝の政治家としての資質や業績については、『愚管抄』以来今日まで、さまざまな角度から論評されている。この場合、恒に留意せねばならないのは、彼が都において生まれ、中級とはいえ、貴族的環境のもとで都で成人し、かつ短期間ながら女院や内裏で官人生活を送ったと言うことである。
勤務の系統から見ると、彼は待賢門院─上西門院の圏内にあった。これは、母方の親族の主な人々がこの路線に近く、その方面からの吸引力が強かったからである。殊に上西門院の女房であった母方の伯母は、彼を上西門院側に率いた可能性が多い。確実な証拠はないけれども、彼の母も上西門院に仕えた女房であり、彼自身も殿上童として幼い頃から女院の御所に出入したとみなすのは、可能性に富んだ想定とされよう。
【中略】
ところで、文治二年(一一八六)八月における将軍・頼朝と西行の鶴岡八幡宮での邂逅や二人の夜を徹しての芳談は、『吾妻鏡』に見られる最も興味深い挿話の一つである。恐らく初対面であろう二人が百年の知己のように終夜語り合えたのは、二人に共通の背景があったためである。
もともと西行─佐藤義清〔のりきよ〕─は、待賢門院の実兄の左大臣・実能の家人であり、その関係もあって待賢門院や上西門院の御所に出入し、特に歌に優れた女房たちとは昵懇であった。これは、『山家集』の随所から知られるのであって、左の詞書などは、その一例に過ぎぬのである。
【以下二字下げ】
十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはしますよし聞きて、待賢門院の御時おもひ出でられて、兵衛殿の局にさしおかせける。
頼朝が上西門院に仕えていた時分、西行は高野山に籠っていたから、二人は顔を合わせる機会はなかったであろう。しかし頼朝は、二人の伯母(大進局、千秋尼)や他の女房達からいやと言うほど西行の噂を聴かされていた筈である。
『山家集』から窺うと、西行は『宮の法印』こと元性と極めて親しかった。四一九頁の系図の示す通り、元性(崇徳天皇々子)の母の典侍は、頼朝の従姉妹であったのである。
【中略】
他方、文覚が蛭島に配流中の頼朝に強引に蹶起を勧めたと言う話は、『平家物語』や『源平盛衰記』にかなりの潤色を加えて述べられている。ここではこの問題を分析・批判する余白もないし、また頼朝と文覚との永年に亘る交際の歴史を述べる余裕もないけれども、頼朝の旗挙げに関して『愚管抄』(巻第五)に見られる、
【以下二字下げ】
……四年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝に馴れたりける、その文覚さかしき事どもを、仰せも無けれども、上下の御の内をさぐりつゝ、いひいたりけるなり。(『御の内』の意味は不明。誤写があるらしい)
と言う記事は、信用してよかろう。文覚が伊豆国に配流されたのは、承安三年(一一七三)五月のことであった。それより四年間、文覚は朝夕頼朝の許に出入し、政界の情勢を説いていずれ蹶起すべきことを勧めたという次第である。しかしそれにしても、文覚はなぜ頼朝の許に気易く出入し得たのであるか。
ここで改めて注意されるのは、文覚は遠藤左近将監・茂遠の子で、俗名を盛遠と言い、上西門院の所衆〔ところのしゆう〕であったと言う伝承である。彼の父の名については異伝があるけれども、彼が上西門院に出仕していたとする点では、どの史料も一致している。所衆は、蔵人所に属するから、もし盛遠が平治元年頃、上西門院に出仕していたとすれば、頼朝は当然盛遠と面識があった訳である。またたとい出仕の時期が互に喰い違ったとしても、これら二人の流人は、同じ穴の貉であって、共通の話題が多かったはずである。まして二人とも同じ流人と言う身分であり、場所は都よりほど遠い伊豆国の片田舎であってみれば、出会いの当初から二人が互いに親近感を抱いたであろことは、充分に肯けるのである。
頼朝が都で生まれ、待賢門院や上西門院と関係の深い環境で育ち、少年時代には上西門院に仕えたと言う閲歴は、彼の生涯を考える上で重視さるべきである。その時分に彼が得た印象、体験、願望は、いかに永く阪東に身を置いても払拭されることはなく、心の底に深く沈潜していたのであって、彼が後年、権力の座に就けば、それらは湧然と噴出する可能性があった。
【後略】
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三
『平治物語』(上)は、義朝が源氏重代の太刀や鎧を一男の義平ではなく、三男の頼朝に授与したことに触れて、『三男なれ共、頼朝は末代大将ぞとみ給ひけるにや』と述べているが、これは誤解であろう。重代の宝物が譲与された理由は簡単であって、義平や朝長が庶腹であるに対して、頼朝は嫡腹の子であったからである。
ところで、頼朝は、保元ニ、三年に十一、二歳で元服し、正六位上に叙されたらしい。保元三年(一一五八)の二月三日、統子内親王が後白河天皇の准母の故をもって皇后に冊立されると、正六位上の頼朝は、皇后宮権少進に任命された。『公卿補任』(文治元年条)や『尊卑分脈』(第三編、清和源氏)には、頼朝が翌平治元年の正月廿九日、右近衛将監を兼任した旨が記されているけれども、これは根本史料によって左兵衛尉と訂正さるべきである。即ち、平治元年二月十三日、皇后・統子内親王が女院に列せられると、頼朝は当然のこととして皇后宮権少進を停められ、代って女院の蔵人に補された。その時、彼の本官は左兵衛尉で、上西門院蔵人は兼職であった。この女院蔵人は、名ばかりのものではなく、現に二月十九日の殿上始〔てんじょうはじめ〕における三回の献盃では、頼朝は別当の藤原実定、殿上人の平清盛など十名ほどの関係者たちに対して初献の杓を取って巡廻しているのである。
平清盛は、平治元年の初めには、正四位下太宰大弐で、四十二歳であった。二月十九日、上西門院の殿上始において頼朝が若い蔵人(十三歳)として清盛らの盃に酒をついで廻ったこと、従って『平治の乱』以前において清盛が確実に頼朝を見ていることは、注意さるべきである。頼朝は、清盛の好敵手である義朝の嫡妻腹の子であったから、清盛はそれを心に留め、頼朝の風貌や挙止を鋭く観察したことであろう。
上西門院の蔵人としての頼朝の勤務期間は、非常に短かった。と言うのは、それから間もない三月一日、彼は母の喪に遭い、左兵衛尉ならびに上西門院蔵人を辞したからである。
平治元年の六月廿八日、頼朝は復任の宣旨を賜わると同時に内の蔵人に補され、今度は二条天皇の側近に仕えることとなった。当時は珍しく内裏が皇居となっていたから、頼朝は、蔵人左兵衛尉として『乱』の勃発(十二月九日)まで内裏に出仕していた訳である。二条天皇の乳母の典侍・源重子(坊門局)は、義朝と昵懇な左衛門尉・源光保の娘であったから、彼の蔵人としての勤務は、それほど苦痛ではなかっただろう。それに院、内裏における暗闘に捲き込まれるにしては、頼朝は齢が若すぎたと認められる。
頼朝の異母兄・朝長がいつ相模国の松田から京に上ったかは不明であるが、それが保元年間であることは確かであろう。朝長は、直ぐに従五位下に叙され、平治元年の二月廿一日、姝子内親王が二条天皇の中宮に冊立された日、中宮少進に任命された。『吾妻鏡』や『平治物語』(上)が朝長を指して『中宮大夫進』と記しているのは、朝長が従五位下の中宮少進であったためである。『平治物語』(中)が朝長を指して、
朝長、生年十六歳。雲の上のまじはりにて、器量、ことがら優にやさしくおはしければ……
と評し、田舎育ちの若者にしては、態度や振舞いが洗練されていたと述べているのは、彼が中宮少進として宮廷生活に関係していたからである。中宮・姝子内親王(高松院)は、同じく内裏におられたから、出仕先こそ違え、頼朝は、次兄と一緒に内裏に勤務していた次第である。
『平治の乱』のさなか、すなわち平治元年十二月十四日に行われた、所謂『信頼人事』によって、頼朝は従五位下右兵衛権佐に叙任された。しかしそれも束の間であって、同じ月の廿八日には、頼朝も位を剥奪の上、解官されたことであった。
四
頼朝の政治家としての資質や業績については、『愚管抄』以来今日まで、さまざまな角度から論評されている。この場合、恒に留意せねばならないのは、彼が都において生まれ、中級とはいえ、貴族的環境のもとで都で成人し、かつ短期間ながら女院や内裏で官人生活を送ったと言うことである。
勤務の系統から見ると、彼は待賢門院─上西門院の圏内にあった。これは、母方の親族の主な人々がこの路線に近く、その方面からの吸引力が強かったからである。殊に上西門院の女房であった母方の伯母は、彼を上西門院側に率いた可能性が多い。確実な証拠はないけれども、彼の母も上西門院に仕えた女房であり、彼自身も殿上童として幼い頃から女院の御所に出入したとみなすのは、可能性に富んだ想定とされよう。
【中略】
ところで、文治二年(一一八六)八月における将軍・頼朝と西行の鶴岡八幡宮での邂逅や二人の夜を徹しての芳談は、『吾妻鏡』に見られる最も興味深い挿話の一つである。恐らく初対面であろう二人が百年の知己のように終夜語り合えたのは、二人に共通の背景があったためである。
もともと西行─佐藤義清〔のりきよ〕─は、待賢門院の実兄の左大臣・実能の家人であり、その関係もあって待賢門院や上西門院の御所に出入し、特に歌に優れた女房たちとは昵懇であった。これは、『山家集』の随所から知られるのであって、左の詞書などは、その一例に過ぎぬのである。
【以下二字下げ】
十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはしますよし聞きて、待賢門院の御時おもひ出でられて、兵衛殿の局にさしおかせける。
頼朝が上西門院に仕えていた時分、西行は高野山に籠っていたから、二人は顔を合わせる機会はなかったであろう。しかし頼朝は、二人の伯母(大進局、千秋尼)や他の女房達からいやと言うほど西行の噂を聴かされていた筈である。
『山家集』から窺うと、西行は『宮の法印』こと元性と極めて親しかった。四一九頁の系図の示す通り、元性(崇徳天皇々子)の母の典侍は、頼朝の従姉妹であったのである。
【中略】
他方、文覚が蛭島に配流中の頼朝に強引に蹶起を勧めたと言う話は、『平家物語』や『源平盛衰記』にかなりの潤色を加えて述べられている。ここではこの問題を分析・批判する余白もないし、また頼朝と文覚との永年に亘る交際の歴史を述べる余裕もないけれども、頼朝の旗挙げに関して『愚管抄』(巻第五)に見られる、
【以下二字下げ】
……四年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝に馴れたりける、その文覚さかしき事どもを、仰せも無けれども、上下の御の内をさぐりつゝ、いひいたりけるなり。(『御の内』の意味は不明。誤写があるらしい)
と言う記事は、信用してよかろう。文覚が伊豆国に配流されたのは、承安三年(一一七三)五月のことであった。それより四年間、文覚は朝夕頼朝の許に出入し、政界の情勢を説いていずれ蹶起すべきことを勧めたという次第である。しかしそれにしても、文覚はなぜ頼朝の許に気易く出入し得たのであるか。
ここで改めて注意されるのは、文覚は遠藤左近将監・茂遠の子で、俗名を盛遠と言い、上西門院の所衆〔ところのしゆう〕であったと言う伝承である。彼の父の名については異伝があるけれども、彼が上西門院に出仕していたとする点では、どの史料も一致している。所衆は、蔵人所に属するから、もし盛遠が平治元年頃、上西門院に出仕していたとすれば、頼朝は当然盛遠と面識があった訳である。またたとい出仕の時期が互に喰い違ったとしても、これら二人の流人は、同じ穴の貉であって、共通の話題が多かったはずである。まして二人とも同じ流人と言う身分であり、場所は都よりほど遠い伊豆国の片田舎であってみれば、出会いの当初から二人が互いに親近感を抱いたであろことは、充分に肯けるのである。
頼朝が都で生まれ、待賢門院や上西門院と関係の深い環境で育ち、少年時代には上西門院に仕えたと言う閲歴は、彼の生涯を考える上で重視さるべきである。その時分に彼が得た印象、体験、願望は、いかに永く阪東に身を置いても払拭されることはなく、心の底に深く沈潜していたのであって、彼が後年、権力の座に就けば、それらは湧然と噴出する可能性があった。
【後略】
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