学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0261 桃崎説を超えて。(その26)─やる気のない帝王・後白河

2025-02-07 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第261回配信です。


一、前回配信の補足

守覚法親王の問題は河内祥輔氏が提起。
河内氏の「後白河院黒幕説」は誰の支持も得ていない超絶単独説なので、守覚法親王についても今までさほど検討して来なかった。
しかし、桃崎有一郎氏は河内氏が守覚法親王に着目した点について「従来の学説の中で最大の価値があった着眼といっていい」とまで絶賛され、河内説を「二条天皇黒幕説」の立場から修正した独自説を展開。

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5

桃崎説は極めて難解だが、これを理解するためには前提として河内説をきちんと押さえておく必要があるので、改めて検討してみたい。


ニ、やる気のない帝王・後白河

資料:河内祥輔氏「皇位継承問題のあり処」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6ac6391076aea0194097d3924f9f66e

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101
資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1

河内説:
「天皇は往々にして、父(祖父)の決めた通りに事が進むことに反発するもの」
「鳥羽自身がそうであった」
「後白河の数々の行状、すなわち、保元の乱で崇徳を葬り去り、平治の乱後に二条と対立し、さらには平清盛とも対立した、その激しさを見るとき、温和に父の遺志を受け容れるイメージは何とも似つかわしくない。むしろ、後白河のような人物にこそ、父に対して反抗する姿が似合っているであろう」
「しかしながら、文献上にその徴証を見出すことができるわけではない。無意味なことと言われるかもしれないが、あえて想像を廻らしてみよう」

二条天皇(1143‐65、母:大炊御門経実女・懿子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
守覚法親王(1150‐1202、母:藤原季成女・成子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%A6%9A%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
以仁王(1151‐80、母:藤原季成女・成子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B

父・鳥羽院が決めた二条天皇ではなく、自分の希望する別の皇子に皇位を継承させようと執念を燃やす後白河院像は、「今様狂いの前半生」(棚橋光男氏)との整合性があるのか。

資料:馬場光子氏『梁塵秘抄口伝集 全訳注』〔2025-02-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/de06bbf68834c38687844ac47911b41e
資料:棚橋光男氏「今様狂いの前半生」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2fb5514e7e452060a14f88ad99d998b

二条天皇に主体性を認めず、平治の乱は平治元年(1159)十二月で終わりとする通説的な立場だと、乱の終了後から後白河と二条の権力闘争が始まり、その嚆矢が桟敷事件となる。
しかし、「二条天皇暴発説」からは、二人の暴力的対立は経宗・惟方流罪で既に終わっていて、以後は比較的平穏な時代が二条の死まで続くことになる。
この間、後白河・二条・藤原忠通・基実の四者による協調期(というより責任回避のタライ回し期)を経て、平滋子所生の皇子(高倉天皇)誕生の頃から後白河が「排除」され、二条と忠通が主導するようになると言われている。
しかし、実際には当該時期から後白河が従来のような形で朝廷の意思決定に関わらなくなった事実が確認されるだけで、「排除」の具体的根拠はない。
→後白河が自制した可能性も。

そもそも三条殿襲撃・放火という二条の露骨な暴力に比べれば、経宗・惟方の捕縛・流罪は微温的な暴力であり、全く釣り合っていない。
経宗・惟方流罪後、後白河は二条を完全に排除することも可能だったはずだが、タライ回しとはいえ、むしろ二条を尊重するような扱い。

平治の乱後、基本的には後白河が二条に対して自制しているのではないか。
その理由は何か。

(1)芸術家肌の後白河はもともと余り政治が好きではない。
(2)信頼を偏愛し、増長させてしまったのは自分で、自分も平治の乱に全く責任がない訳ではない、という引け目。
(3)二条に対する父親としての愛情。

また、二条に対しては藤原伊通が『大槐秘抄』を献じている。
内容は大半が平凡な説教であって、あまり面白いものではない。
ただ、二条も若気の至りをいろいろ反省し、このような忠告を受け容れる程度には成長した、ということで、これも後白河が自制した理由に加えてよいのではないか。
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3 コメント

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Unknown (筆綾丸)
2025-02-07 19:05:36
後白河と同じように、政治に関心がなかった天皇といえば、近代では大正天皇でしょうか。
大日本帝国の天皇などになりたくなかったろうにならざるをえず、凄まじい重圧にさらされながら繊細な神経を病んで死んでしまった人。
父(明治)と子(昭和)は政治好きでしたが。
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Unknown (筆綾丸)
2025-02-08 10:32:16
メモ
桃崎氏は、京都合戦前日(平治元年12月25日)の二条の行動を「二条大内脱出」といいます。
脱出は、ふつう、監視・危地・幽閉などから抜け出すことをいうので、二条は首謀者だから、脱出ではなく逃走というべきです。三条殿襲撃を命じておきながら(12月9日)、君子豹変して、信頼・義朝に罪を着せて遁走したわけだから。裏切りの理由はわからぬが、清盛が帰京して、まずい、このままでは一蓮托生だ、逃げるに如かず、という情況判断をしたのかもしれない。口封じのため奴らを清盛に殺してもらえばいい。・・・・・・
エーリッ匕・フロム『自由からの逃走(Escape from Freedom)』(1941)になぞらえれば、『内裏からの逃走(Escape from Palace)』(1159)で、平治の乱のターニングポイントとでもいうべき名場面です。
そういえば、モーツァルトに『後宮からの逃走』というオペラがあります。原題の英訳は The Abduction from the Harem で、逃走ではなく誘拐ですが。
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女装 (鈴木小太郎)
2025-02-08 11:09:34
>筆綾丸さん
『平治物語』によれば二条は女車に乗り、女装していたとのことなので、この場面だけ見れば「脱出」の方が適切のように思います。
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