資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd
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資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5
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第一〇章 「信西謀反」の真相と守覚擁立計画
二条天皇の動機─後白河院政否定=信西一家失脚=二条親政実現
二条親政で二条は傀儡ではなかった─多子入内という暴走
二条は君臨の危機を暴力で解決するため三条殿を襲撃させた
信西の梟首は二条に対する謀反容疑の証拠
守覚・上西門院の出家は信西一家の赦免と一つの事件
信西の「謀反」の内実は守覚擁立による二条皇統の否定
守覚擁立の動機─美福門院との訣別
二条は一年後に同じ構図で異母弟の立太子を拒む
恩人の美福門院も疎んじて皇位に執着する二条
王家で孤立して子供じみた独善に走る二条
皇位継承抗争の結末と清盛の台頭
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p186以下
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【前略】二条は政務を執るためではなく、後白河院政の否定そのものを目的として事件を起こした可能性が高い。
では、そのためになぜ、後白河の三条殿を襲撃・放火する必要があるのか。
ヒントは、この事件が保元の乱の二番煎じだったことにある。保元の乱は、後白河天皇が崇徳院・藤原頼長に対して、非常手段に訴えるべき危機感と、断固たる姿勢を示した事件だ。崇徳・頼長が今すぐにでも反逆を起こして後白河天皇の君臨を否定しに来る、という危機感に耐えきれなくなった天皇側が、手遅れになる前に暴力に訴えたのだ。そこから類推すると、三条殿襲撃は、後白河院・信西が今すぐにも二条天皇の君臨を否定しに来る、という危機感に耐えきれなくなった二条が、ことの重大さと緊急性から、非常手段をもって断固たる姿勢を示す決意を固め、手遅れになる前に暴力に訴えた事件だった可能性が高い。
信西の梟首は二条に対する謀反容疑の証拠
では、それほど緊急の、重大な危機とは何か。鍵は、信西一家の処罰理由にある。
一二月一七日、信西の首は鴨川の河原で検非違使に引き渡され、検非違使は大路を渡し、つまり群衆の収容能力が高い大路をわざと通り、沿道の群衆に首を誇示しながら進んでから、西の獄の門前にあった木に首を吊して晒した(『百錬抄』平治元年一二月一七日条)。
これは朝廷の伝統的な梟首(晒し首)の作法である。【中略】
このように、謀反人でも梟首されない事例はあるが、梟首された人が謀反人でなかった事例は、平安時代にはない。したがって、すでに河内氏が指摘した通り、信西が梟首された事実は、朝廷が信西を謀反人と断定したことを意味する[河内02‐一二五頁]。【中略】
では、二条が公的に認定した<信西の二条に対する謀反>の中身は、何だったのか。【中略】
守覚・上西門院の出家は信西一家の赦免と一つの事件
その内実を探れる材料は、現状では一つしかない。河内氏が指摘した、守覚の出家である。後白河は、二条の弟にあたる守覚の皇位継承を望んだが、それを不可能にして守覚を仁和寺の御室(長)に押し込む出家の予定日が、タイムリミットとして迫っていた、と河内氏は主張した。【中略】
先述の通り、河内説の全体は成立しない。しかし、<平治の乱の主因が皇位継承問題にあり、焦点に守覚がいた>という氏の着眼は、別の出来事と組み合わせると、真実に迫る鍵になる。
その出来事とは、後白河の姉である上西門院の出家だ。守覚は、永暦元年(一一六〇)二月一七日に出家した〔『仁和寺御室系譜』、『仁和寺御伝』喜多院御室〕。その全く同じ日に、上西門院も出家していた〔『女院記』『女院小伝』〕。河内説に従った場合、そうなった理由を説明できない(そのためか、氏は上西門院の出家に言及しない)。守覚の母は、藤原季成の娘の成子(高倉三位局)であり〔『仁和寺御伝』喜多院御室、『本朝皇胤紹運録』〕、上西門院・後白河を産んだ待賢門院は季成の姉だ。入り組んでいるが、上西門院の母方の祖父藤原公実は、守覚の父方の曾祖父(父の母の父)であり、守覚の母方の曾祖父(母の父の父)でもある(一四三頁図15参照)。いい換えると、守覚は、父後白河院を通せば上西門院の甥であり、母成子を通せば上西門院の従姉妹の子である。その意味では濃密な一族関係にあるが、同じ日に出家するには、養子関係でもよいから上西門院が直系の尊属であるくらいの近さがないと、自然でない。上西門院には、守覚と一緒に出家する理由がないのである。【中略】
彼女が病気だった形跡もない。すると、彼女自身には、この日に出家する個人的理由がなくなる。そして当時、彼女の最も重要な社会的属性は、<同母弟の後白河が最も大切にした家族>という点にあった。その後白河の家族(次男)で、なおかつ彼女と直接つながりがない守覚が、同じ日に出家した。その事実は、次の構図を浮かび上がらせる。後白河の家族全体に俗世での繁栄を諦めさせる圧力がかかり、上西門院と守覚が出家に追い込まれたのだろう、と。
では、それはどこからの圧力か。ヒントは経宗・惟方の逮捕だ。後白河は二人を逮捕させるために、清盛に躊躇なく内裏を襲撃させ、二人を内裏の門前に引き据え、自らそこに出向き、眼前で拷問させた。その凄まじい怒りを後白河が爆発させた逮捕劇の日は、実は後白河の大切な家族である上西門院と守覚が出家した永暦元年(一一六〇)二月一七日の、わずか三日後だった。さらに興味深いことに、その経宗・惟方の逮捕のわずか二日後に、信西一家が赦免され復権した。その六日間の三つの事件は、一つの大事件と考えるべきだ。
信西の「謀反」の内実は守覚擁立による二条皇統の否定
その大事件とは、次のようなものと考えざるを得まい。二条一派は、上西門院と守覚を出家に追い込み、上皇御所の桟敷を封鎖して院政を否定する大攻勢を、後白河一家に仕掛けた。しかし、忍耐の限界を超えた後白河は逆襲に転じ、経宗・惟方を失脚させて二条の羽翼を奪い、彼らが弾圧した自分の羽翼の信西一家をすぐに復権させた、と。
なぜ、桟敷封鎖事件のような子供じみた嫌がらせ事件が起きたのか、私は長らく疑問に思ってきたが、ここまで多くの考察を重ねた結果、シンプルで最良の答えにたどり着いたようだ。一八歳の二条という、精神的に幼い人の仕業だったのだ、と。
二月一七日~二二日の六日間は、二条一派が容赦なく後白河一派を弾圧して優勢だった段階から、後白河一派が一発逆転を果たし、優勢に立った正念場だった。そして逆転の結果、経宗・惟方は解官・流罪となって失脚し、それで勝敗が確定した。この六日間は、後白河が劇的に劣勢を覆し、そのまま二条一派との抗争の勝利を確定させた最終決戦だったのだ。
この一連の事件に、守覚の出家と信西一家の復権が含まれていた。つまり、守覚の出家と信西一家の没落は直結し、どちらも二条一派の画策だった。ならば、こう考えられる。二条一派の望みに反して、信西は守覚の出家を阻止しようとしていた、と。その動きを「謀反」と断定するのは飛躍だ。その飛躍を埋める筋書きは、こうなるだろう。信西は、二条の次の天皇に守覚を立てようとした。それは、現天皇の二条が持つ皇位の処分権を踏みにじり、正統な次代天皇である二条の息子から皇位を奪い、そして二条が天皇の父として治天の君となって院政を敷ける可能性を奪う。すべて君主権の侵害であるから「謀反」である、と。
【後略】
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※傍点部を太字としました。
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