ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

唐代の諸制度 

2014-04-18 | Weblog

 

律令国家は北朝や隋の制度を受け継ぎつつ、中央に三省・六部・御吏台(ぎょしだい)を置き、 律・令・格・式の法制度に基づいた政治を行った。

中央…皇帝の詔勅(しょうちょく)の草案の立案起草を行う中書省、それを審議する門下省、執行を担当する尚書(しょうしょ)三省と、尚書省のもとにおかれた六部(吏部(官吏の人事)・戸部(財政)・礼部(儀礼)・兵部(軍事)・刑部(司法)・工部(土木・建築))、さらに行政の監察を担当する御史が中心。

 ベック式! (三省の覚え方)

中期(ちゅうき)問診 小(しょう)シッコ。

中書省=草案の起草

          門下省=草案の審議

                 尚書省=詔勅の執行

地方…州県制。周辺民族の服属地域には都護府をおき、その地の有力者に委ねる羈縻(きび)政策を採った。

羈縻とは、馬や牛をつなぎ止めておくこと。

唐王朝はその支配領域に多くの異民族を組み入れ、それらを治めるために、六都護府を置き、その下に都督府、刺史をおいて監督した。

都護府には中央から長官と付属の軍隊を派遣したが、都督、刺史には現地の異民族の族長を任命した。このような、一定程度、現地人に支配を任せる体制を羈縻政策と言った。

なお、それとは別に東アジアの諸国には、漢以来の冊封体制も維持されていた。ただし、奈良時代の日本は遣唐使を派遣して朝貢したが、冊封体制には入らなかった。

統治体制…成年男子に土地を均等に支給する均田制を基礎とし、穀物・絹布などの税や労役を課す租庸調制、兵農一致の府兵制の三つが一体化した制度で農民を支配。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1302年 〈三部会の起源〉★

2014-04-18 | Weblog

 

●フランス(ヴァロワ朝)

French States-General starts.

遺産(いさん)を増やし 三分(さんぶん)し。

  1302年      フィリップ4世  三部会

 

13世紀以来のフランス王権の伸張は教皇権との対立を招いた。

14世紀初め、ヴァロワ朝の王フィリップ4は、国内の聖職者への課税を図った。

そして反対するローマ教皇ボニファティウス8に対抗するため、1302年聖職者・貴族・平民の代表が出席する三部会を開き、その支持で教皇をおさえて、王権を強化した。

 


受験 ブログランキングへ

 


世界史 ブログランキングへ

 


日本史 ブログランキングへ

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1303年 〈アナーニ事件〉★★★

2014-04-18 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

▲教皇ボニファティウス8世の捕縛

●フランス(ヴァロワ朝)

The Outrage at Anagni: As a result, Philip sent an agent to depose Boniface, who was staying at the town of Anagni.

いざ王様(おうさま) 坊や伏(ふ)し。   

1303年      アナーニ事件 ボニファティウス8世 

                          フィリップ4

十字軍を提唱し推進したローマ教皇の権威は、十字軍遠征の失敗によって大きく揺らぎ始めていた。

教皇権の絶対性を主張したローマ教皇ボニファティウス8は聖職者課税権を主張するフランス国王フィリップ4にローマ近郊のアナーニに監禁され、憤死した(アナーニ事件)。以後、教皇権は衰退に向かう。

 《ローマ教皇の権力の伸長と衰退》  

カノッサの屈辱ハインリヒ4屈服させ、聖職叙任権闘争に勝利したグレゴリウス7以来、ローマ教皇の権力は伸張し、ウルバヌス2クレルモン公会議を開き、十字軍の派遣を決めた。

そして13世紀、教皇の力はインノケンティウス3のもとで絶頂期を迎えるが、ボニファティウス8以後、教皇権は衰退に向かう。

▼フィリップ4


受験 ブログランキングへ


世界史 ブログランキングへ


日本史 ブログランキングへ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1309年 〈教皇のバビロン捕囚(~1377年)〉★★

2014-04-18 | 『新世界史頻出年代暗記』

▲クレメンス5世 

●フランス(ヴァロワ朝)

Pope Clement V settles the papal seat in Avignon, following a visit.

いざ冷遇後 アヴィニヨン。 

1309年 クレメンス5世 アヴィニョン

フランス国王フィリップ4はアナーニ事件後の1309年、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、教皇クレメンス5を支配下に置いた。

新バビロニアがユダの住民を連れ去った故事に因んで“教皇のバビロン捕囚”とよばれるこの事件は、教皇がローマに戻った後、アヴィニョンにも別の教皇がたって対立する教会大分裂(シスマ)へとつながった。 

 


受験 ブログランキングへ


世界史 ブログランキングへ

 


日本史 ブログランキングへ


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★パウロ

2014-04-18 | Weblog

Paul the Apostle

 

 5~67

原始キリスト教時代の異邦人への大伝道者。

小アジアのタルソス生まれのユダヤ人で、初め熱心なパリサイ派 《「パリサイ派」の〈〉を意識して「パウロ」と結びつける》 のユダヤ教徒としてキリスト教の迫害者であったが、シリアのダマスカス付近で復活したイエス=キリストの声を聞いたと信じて回心し、以後、ローマ世界への福音の伝道につとめた 《「パウロ」との〈ウロ〉で、伝道のため「うろうろ」》

「ロマ書」など彼の書簡は『新約聖書』の重要な部分を占めている。

ローマ皇帝ネロの迫害(64年)により、殉教したと伝えられている。

「信仰によってのみ義とされる」とするパウロ神学はアウグスティヌスルターの思想にも大きな影響を与えた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1324年 〈マンサ=ムーサ、メッカ巡礼〉★

2014-04-18 | Weblog

●西アフリカ(マリ王国)

Mansa Musa of the Mali Empire starts on his hajj to Mecca, accompanied by an entourage numbering in the thousands and hundreds of pounds of gold.

いざ西(にし)からさ メッカまで。

1324年  西アフリカ  カイロ  メッカ巡礼

                     マリ王国 

                     マンサ=ムーサ 

                        マンディゴ人

13世紀半ば、交易都市のトンブクトゥを中心に興ったマンディンゴ人のマリ王国はイスラーム教の国家であった。

最盛期の王マンサ=ムーサは1324年、メッカへ巡礼。

その際、途上で訪れたカイロでは莫大な黄金をばらまいたため、金相場が暴落し10年以上の間インフレーションが続いたという。

14世紀にマリを訪れたアラビア人の旅行家イブン=バットゥータは、『三大陸周遊記』の中で「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはの正義感が強いことを称賛している。 

マリ王国は、15世紀末にはソンガイ王国にとって代わられた。

同年(1324年)の出来事 正中の変(日本)

▼13世紀~15世紀初頭のマリ帝国とサハラ交易路

▼1375年に作られた世界地図の一部、右に描かれている人物がマンサ=ムーサ王で、手に黄金をかざしている。

左のラクダに乗っている人物は、マグリブから来たムスリム商人。

14世紀のアフリカで、サハラ砂漠の北と南を結ぶ活発な交易がおこなわれていたことを示している。

 

地図問題1

……1~10の中からマリ王国の位置を答えよ。

地図問題2. a ~ j の中からトンブクトゥの場所を選べ。

地図問題1 解答 4. 解説 1はクシュ王国 2はアクスム王国 3.はガーナ王国 5.はソンガイ王国 6.はムラービト朝 7.はムワッヒド朝 8

地図問題2 解答 j 解説 a はメロエ k は マラケシュ(ムラービト朝・ムワッヒド朝の都) 

.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする