家康秘密角強し花よさもよし徳川よ。
(家康・秀忠・家光)(家綱・綱吉)(家宣・家継・吉宗)
(家重(いえしげ)・家治(いえはる)・家斉(いえなり))(家慶(いえよし)・家定(いえさだ))(家茂(いえもち)・慶喜(よしのぶ))
江戸幕府の1~15代の将軍は、家康・秀忠・家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗・家重・家治・家斉・家慶・家定・家茂・慶喜である。
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〈2016同志社大・全学部
次の(1)~(2)の文章を読み、文中の下線部または空欄に対応す設問に答えよ。
(1)江戸幕府の軍事力は、将軍直属の家臣団であるa旗本・御家人のほか、諸大名の負担する軍役で構成されていた。大名は、戦時に軍役の義務を負うだけでなく、平時には江戸城などの修築や河川の修復などの土木工事を命じられた。これは( b )役と呼ばれるもので、大名にとっては大きな財政負担となった。2代将軍秀忠は厳しく大名の統制にあたり、c.武家諸法度に違反した大名を( d )するなど、将軍の威光を広く天下に示した。
また幕府は禁中並公家諸法度を定め、ア朝廷や天皇に対しても規制を強めた。e天皇家の領地は必要最小限にとどめられ、朝廷は伝統的権威を保持するのみの存在となっていった。秀忠は娘の和子を後水尾天皇に入内させたが、二人の子であるイ.興子内親王の即位に及んで、幕府の朝廷統制の枠組みが確立されたのである。
【設問a】この両者の総称として、将軍徳川氏の1万石未満の直臣を何と呼ぶか。漢字で記せ。
【設問b】「御手伝い」とも呼ばれるこの役について、空欄( b )にあてはまる語句を、漢字2字で記せ。
【設問c】秀忠の名の下に発布された最初の武家諸法度は、その年号をとって[ ]令と呼ばれている。あてはまる年号を漢字で記せ。
【設問d】空欄( d )には、大名に対してその領地を没収し、家を断絶させる処分を示す語句が入る。漢字で記せ。
【設問ア】江戸時代の朝廷には、幕府の承認を必要としつつもいくつかの権限が残されていた。この権限に該当しないものはどれか、次のうちから1つ選べ。
1.形式的官位の授与 2.改元
3.暦の制定 4.貨幣の鋳造
【設同e】近世、天皇家の領地は何と呼ばれていたか。漢字4字で記せ。
【設問イ】この人物の即位後の名称を次のうちから選べ。
1.明正天皇 2.東山天皇
3.桃園天皇 4.後桜町天皇
(2)3代将軍家光の死後は、松平信綱らが中心となって4代将軍家綱を支えた。1651年の由井正雪の乱や、1657年の( ウ )の大火を乗り越えて、冪政の安定がはかられた。5代将軍となった綱吉は、( g )、次いで柳沢吉保の補佐を得て、文治政治を積極的に推進した。平和なこの時代には元禄文化が花開いたが、しかし幕府財政は次第に窮乏の度合いを強めていった。そこで6代・7代将軍の時代には、エ新井白石を中心として元禄期の幕政の修正がはかられた。
【設間f】この乱は、事件の起こった年号をとって[ ]の変とも呼ばれる。あてはまる年号を漢字で記せ。
【設問ウ】空欄( ウ )には、振袖火事とも呼ばれるこの大火の起こった年号が入る。これにあてはまるものを次のうちから1つ選べ。
1.明徳 2.明暦 3.明応 4.明和
【設問g】空欄( g )には、綱吉の擁立に功があり、大老としてその治世の初期を支えたが、江戸城中で若年寄稲葉正休に刺殺された人物が入る。あてはまる人物名を漢字で記せ。
【設問エ】新井白石の行なった政策として正しいものを次のうちから1つ選べ。
1.湯島聖堂を建立し、林鳳岡を大学頭に任じて重用した。
2.将軍職の権威を高めるために、将軍家継と皇女との婚約をまとめた。
3.間部詮房とともに「天和の治」を主導した。
4.長崎貿易を拡大し、銀による支払額を増大させた。
(答:a直参、b普請、c元和、d改易、e禁裏御料、f.慶安 g堀田正俊、ア4、イ1、ウ2、エ2)〉
〈2013慶大・文
第6代将軍の( B )により廃止され、新井白石らが政治の刷新を図った。」
(答:B徳川家宣)
〈2016同志社大・全学部
次の文章を読み、文中の下線部または空欄に対応す設問に答えよ。
幕府財政は8代将軍h吉宗の改革によって一時的に立ち直りをみせたが、しかしその後18世紀後半には再び行き詰まることとなった、このとき政務を担ったのが田沼意次である。彼は1O代将軍( オ )のもとで従来の緊縮政策を捨て、i商業資本の積極的利用による財政再建をはかろうとした。しかし賄賂政洽への批判や、カ天災などの世情不安もあり、急速に支持を失っていった。続く11代将軍のもとでは松平定信が吉宗時代を理想とする政治改革を行ったが、厳しい統制や倹約令は民衆の反発を招いた。さらにこの時期、キ尊号一件と呼ばれる朝廷問題も発生した。
【設問h】吉宗の行なった改革の1つに、大名から石高1万石につき100石を臨時に上納させる政策があり。幕府財政の改善に一定の効果がみられた。将軍側にとっては「恥辱」とも認識され、1731年に廃止となったこの政策を何というか記せ。
【設問オ】空欄( オ )に入る人物名を次のうちから選べ。
1.家重 2.家治
3.家慶 4.家斉
【設問i】田沼意次は町人の経済力を利用して、利根川水系の手賀沼・[ ]の干拓を行なおうとした。[ ]にあてはまる湖沼の名称を、漢字で記せ。
【設問カ】江戸時代には冷害・噴火など天災を主因とする飢饉が発生したが、以下の4つの飢饉について、その番号を起こった時期の古い順に並べて、記入せよ。
1.享保の飢饒 2.天保の飢饉
3.天明の飢饉 4.寛永の飢饉
【設間キ】下線部キは江戸時代に創設されたある宮家から迎えられた光格天皇が、皇位についていないその実父に太上天皇の尊号を贈ろうとして起こった事件である。この光格天皇の出身の宮家を次のうちから1つ選べ。
1.八条宮 2.閑院宮
3.有栖川宮 4.伏見宮
(答:h上げ米(上米の制)オ.2、i印旛沼、カ4-1-3-2、キ2)〉
〈2015早大・人間科学:「
問5 下線部d家光から10代将軍のうち6代・9代に該当する人名の組み合せとして、正しいものはどれか、1つ選べ。
ア 家継・家宣 イ 家継・家重
ウ 家綱・家継 エ 家綱・家重
オ 家宣・家綱 カ 家宣・家重
(答:カ)」〉
〈2015大学入試センター試験・日本史B:「
B 1838年、水戸藩主徳川斉昭は「戊戌封事」とよばれる幕政改革の意見書を執筆し、翌年、これを将軍[ ア ]に提出した。斉昭は、この時代の危機的状況を内憂とd外患に大別して詳細に指摘した。1841年に大御所徳川家斉が死去すると、将軍[ ア ]のもとで政治改革が始まる。
幕府は改革に着手する準備として、1838年に老中[ イ ]の指示により、江戸と地方がかかえている問題への対策について諸国の代官たちに諮問をした。次の史料はその際に越後国出雲崎代官が幕府に提出した回答(上申書)の一部である。
史料
(村を無断で立ち退いた者たちのうち)帰住相願い候者は稀にて、御府内又は在町(注1)へ立ち入り、生涯立ち戻らざる者どもは、支配(注2)において厚く世話致し候とも行き届き難し、殊に在方(注3)にては昼夜農業のために艱苦骨析(注4)、その上、米を食し候者は少なく、麦稗へかて(注5)を取り交ぜ麁食(注6)致し候者、御府内へ出候ては、その日稼ぎ致し候者も美食を致し、身持ち惰弱(注7)に相成り候故、帰住の志さらにこれ無し
(「市中取締類集」)
(注1)御府内又は在町:御府内は江戸のこと。在町は在郷町・在方町ともいう。
(注2)支配:ここでは幕府の代官のこと。
(注3)在方:村のこと。
(注4)艱苦骨折:苦しみと努力のこと。
(注5)かて:混ぜ加える食物のこと。
(注6)麁食:粗末な食事のこと。
(注7)惰弱:なまけてだらしのないこと。
問4 空欄[ ア ][ イ ]に入る語句の組合せとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1ア徳川家慶 イ水野忠邦
2ア徳川家慶 イ田沼意次
3ア徳川家綱 イ水野忠邦
4ア徳川家綱 イ田沼意次
問5 下線部d外患に関連して、近世後期の対外問題への幕府の対応に関して述べた次の文1~3について、古いものから年代順に正しく配列したものを、下の1~4のうちから一つ選べ。
1 海防上の必要から、近藤重蔵らに択捉島の探査を行わせた。
2 アヘン戦争の情報を受け、外国船に対する薪水給与を命じた。
3.ロシアとの間に軍事的緊張が高まるなか、はじめて全蝦夷地を直轄地とした。
(1)1-2-3 (2)1-3-2
(3)2-1-3 (4)2-3-1
(5)3-1-2 (6)3-2-1
(答:問4→1、問5→2, 3.は1807年 「否応なしに 全蝦夷地。」)
1.家康の子秀忠が、1605年、征夷大将軍に就任した(~1623年)。
1.2代将軍徳川秀忠(位1605~23年、大御所1623~32年)は、家康(1542~1616)の3男。家康に従わない秀吉の子豊臣秀頼(1593~1615)がいぜん大坂城におり、名目的に父秀吉以来の地位を継承していた。1605(慶長10)年、家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すため、みずから将軍職を辞して子の徳川秀忠(1579~1632)に将軍宣下を受けさせた。家康は駿府に移ったが、大御所(前将軍)として実権はにぎり続け、豊臣氏が建立した京都方広寺の鐘銘(しょうめい)を口実に、1614~15(慶長19~元和元)年、大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣方に戦いをしかけ、攻め滅ぼした。
〈2012明大・文学部
問1.以下の各文は徳川家康の政治的立場や政策等に関する文章である。正しいものを一つ選べ。
1 家康は織田信雄と結んで羽柴秀吉と近江賤ヶ岳で戦ったが、家康優勢のまま和睦は進められた。
2 関ケ原の戦いに勝利した家康は、石田三成方についた西軍の大名を処分し、翌年には大坂城代を設置し、西国や朝廷の動向を監視させた。
3 家康はその勢力を三河の岡崎から東海・中部地方に拡大したが、関ケ原の戦いに勝利したのち領地を関東に移され、居城を江戸に定めた。
4 家康は1603年(慶長8)征夷大将軍となったが、将軍職が徳川家の世襲であることを示すため、2年後には将軍職を子の秀忠に譲った。
5 1615年(元和元)7月最初に発布された武家諸法度は、家康が儒者藤原惺窩に起草させ、秀忠の名によって発布した。
(答:4 ※1×小牧・長久手の戦いの誤り、2×大坂城代ではなく京都所司代、3×家康は秀吉により1590年関東に転封、5×金地院崇伝が起草)〉