[ゴロ]本編み俵揺蕩うか。
(本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・俵屋宗達(たわらやそうたつ))(狩野探幽(かのうたんゆう))
[ポイント]
1.寛永期の代表的画家・美術家に狩野探幽・俵屋宗達・本阿弥光悦がいる。
[解説]
1.寛永期の絵画では、狩野派から狩野探幽(1602~74)が出て、江戸に移り(江戸狩野)、幕府の御用絵師となったが、その子孫は様式の踏襲にとどまり創造性に乏しく、狩野派は衰えていった。探幽の代表作は、『大徳寺方丈襖絵』。
2.また京都では俵屋宗達(生没年不詳)が現れ、土佐派の画法をもとに、装飾画に新様式を生み出し、元禄期に隆盛となる琳派の先駆となった。宗達の代表作は『風神図雷神図屛風』。
3.京都の上層町衆であった本阿弥光悦(1558~1637)は、多才な文化人として知られ、書や蒔絵ですぐれた作品を生み出し、陶芸でも楽焼の茶碗に秀作を残した。光悦の代表作は『舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)』。
〈2016関西学院大学・全学部2/2:「
問6 次の文章について、a・bとも正しい場合はアを、aが正しくbが誤っている場合はイを、aが誤っていてbが正しい場合はウを、a・bともに誤っている場合はエをマークしなさい。
a.14世紀に京都五山で活躍した義堂周信や絶海中津は、幕府の政治・外交顧問であるとともに、優れた和歌の詠み手であった。それらの和歌作品は五山文学とよばれた。
b.南北朝時代、京都に狩野永徳・狩野探幽が出て、水墨画に大和絵の技法を取り入れた狩野派をおこした。」
(答:エ ※a×鎌倉五山で活躍、b×永徳は安土桃山、探幽は寛永期)〉
〈2015関西学院大・文法商人間:「
問7.次の文章について、a・bとも正しい場合はアを、aが正しくbが誤っている場合はイを、aが誤っていてbが正しい場合はウを、a・bともに誤っている場合はエをマークしなさい。
a.17世紀前半、京那の俵屋宗達は往吉派の画法をもとに装飾画に新様式を生み出し、『風神雷神図屏風』を描いた。
b.天保の改革では、洒落本『仕懸文庫』や黄表紙『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』の作者である山東京伝が、その作品が風俗を乱すとして弾圧された。」
(答:エ ※a×宗達は大和絵などの伝統に属さない新しい画風でのちの琳派の祖、b×山東京伝は寛政の改革で弾圧)〉
〈2015関西大・済文社会など2/1:「
徳川家康も開版事業に大きな関心を寄せ、駿河退隠ののち南禅寺の僧5{ア.金地院崇伝 イ.南光坊天海 ウ.沢庵宗彭}に命じて、『大蔵―覧集』を銅活宇で印刷したが、これは駿河版と呼ばれる。さらに6{ア.朱印船 イ.勘合 ウ.長崎}貿易で活躍し、保津川の水路や京都・伏見間に高瀬川を開削した角倉了以の子・角倉素庵は、寛永の三筆のひとりで、「舟橋蒔絵硯箱」などを制作した7{ア.松花堂昭乗 イ.近衛信尹 ウ.本阿弥光悦}らの協力を得て、木製活字と優美な料紙による豪華な印刷本を刊行した。」
(答:5ア、6ア、7ウ)〉
〈2013早大・文:「
室町時代の大和絵は、応仁の乱後に活躍した[ C ]が宮廷の絵所預を勤めて頂点に君臨したが、のち戦国時代の争乱の中で当主が討死したこともあって一時衰退した。逆に、斬新なデザイン感覚を取り入れて大和絵に新風を吹き込んだのは、むしろ保守的な流派に属さない、名もない画家たちであった。
その新風は、江戸時代の寛永期に入って、京都の町衆の中から俵屋宗達という画家を生み出した。宗達は、同じ京都の上層町衆で、書や陶芸にすぐれた[ D ]と力を合わせて王朝の美意識の復興をめざし、新しい大和絵の様式を作り上げた。この様式は元禄期の尾形光琳を経て、化政期には江戸の地へも広がっていく。この流れは琳派と呼ばれている。
一方、伝統的な大和絵では、衰退していた[ C ]の一派の子孫が1654年に宮廷の絵所預に復活し、この一門から出た住吉如慶・具慶親子は徳川幕府の仕事に携わって、武家好みの大和絵を作り上げた。
問4 空欄Cにあてはまる人名を漢字4字で記入しなきい。
問5 空欄Dにあてはまる人名はどれか。lつ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。
ア酒井田柿右衛門 イ野々村仁清
ウ本阿弥光悦 エ角倉了以
オ酒井砲一」
(答:問4土佐光信、問5ウ)〉