ショート今日球完成大手。
(正徳の治・享保の改革・田沼時代)(寛政の改革)(大御所時代・天保の改革)
1.幕政改革は、正徳の治→享保の改革→田沼時代→寛政の改革→大御所時代→天保の改革の6期。
[解説]
幕政改革の開始動機は、おもに財政難打開にあった。今日の経済学の常識で考えれば、商品貨幣経済がスムーズに発展していくように、それを妨げる様々な障碍(しょうがい)を取り除いていく政策こそが真の改革である。しかし江戸時代の3大改革と正徳の治は、いずれも倹約にはじまり年貢収納高の増加を図り、貨幣経済を抑制しようとする政策が基本であった。つまり今日から見れば、これら4つは、経済の観点からはどちらかといえば改悪であった。人心の引き締めという点では評価できても、経済は改悪である。その点、田沼時代は、人心の緩(ゆる)みはあったにしても経済改良の時代だった。大御所時代は商品貨幣経済を放置したのでいわゆる政策としての「改革」ではないが、日本列島全体の経済にはむしろ良かったのである。
幕府は、家康時代の米中心の自然経済志向を理想とし、そこへの回帰を目指していた。だから農民を貨幣経済から隔離し、階層分化を防ごうとした。しかし、武士階級自身が、発達する商品貨幣経済にどっぷりはまって享受していては無理な話であった。都市の享楽の後背地である農村に「たばこ」などの商品作物の栽培を依存していけば、農村に貨幣経済が浸透していくのは必定だった。
財政の再建は、商品貨幣経済に依拠した収入増こそ図らなければならなかった。幕末の長州藩による越荷方(こしにかた)経営などのように、儲かっているところから自らの経営で取るか、貨幣で税を取るかすべきであった。しかし幕政は後ろ向きに、貨幣経済未発達の「権現様(ごんげんさま)=家康」の時代へ無理矢理戻そうして失敗したのである。ほとんど同じ政策でありながら、享保の改革よりも、寛政、さらに天保の改革の破綻(はたん)が早く、期間も短くなっていく。それは、商品貨幣経済がますます発展し、改革が目指す原点=家康時代との乖離(かいり)があまりに大きくなっていたからである。
〈2014早大・文化構想
近世には、江戸・大坂・京都などの大都市が発展したが、特に大坂は「天下の台所」といわれ、日本における経済の中心となった。大坂では幕府や各藩の年貢米や特産物が[ D ]に集まって保管され、商品として販売された。販売を請け負ったのは蔵元や掛屋とよばれる商人だった。一方、経済の発展とそれに伴う問題は、江戸幕府の政治をしばしば動揺させた。d幕府のいわゆる三大改革やその間の田沼政権は、経済問題への取り組み抜きには語れない。
問8 下線dに関連して述べた文のうち誤っているものはどれか。2つ選べ。
ア 享保の改革では、大名に対して参勤交代を半年にするかわりに上米を命じた。
イ 享保の改革では、米価安定のために大坂堂島の米市場を公認した。
ウ 田沼政権では、株仲間の範囲を積極的に広げ、江戸の二十四組問屋などを公認した。
エ 寛政の改革では、札差の保護を図るために棄損令を発布した。
オ 天保の改革では、株仲間を物価高騰の原因とみなして、株仲間解散令を発布した。」
(答:D蔵屋敷、問8ウ・エ ※ウ×二十四組問屋は大阪、エ×旗本・御家人の保護)〉