●江戸時代(明正天皇 徳川家光)
Simabara Uprising is mounted by overtaxed peasants.
人無残(むざん)なり 島の城。
1637年 島原の乱 松平信綱 天草四郎時貞
江戸幕府は禁教令を全国に発布してキリスト教信者に改宗を強制。1637年、島原城主松倉氏と天草領主寺沢氏による重税・キリスト教弾圧政策に抵抗して島原の乱が起こった。天草四郎時貞を首領として原城跡にたてこもった3万余りの一揆勢に対し、幕府は松平信綱を総指揮官に任命し、九州の諸大名ら約12万の兵力を動員してようやく鎮圧した。
[ポイント]
1.小西行長の旧領島原の農民は松倉重政の圧政に対し、1637年、天草四郎時貞をたて原城に蜂起したが、老中松平信綱指揮の幕府軍に敗れた。
[解説]
1.島原の乱は、1637(寛永14)年、島原半島と天草島の農民がキリシタン信者と結合して起こした大農民一揆。この乱は、飢饉の中で島原城主松倉重政と天草領主寺沢広高とが領民に苛酷な年貢を課し、キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した土豪や百姓の一揆である。つまり宗教的反乱と言うより、本質は百姓一揆である。
2.肥前島原半島と肥後天草島は、かつてキリシタン大名の有馬晴信と小西行長(1558~1600)の領地で、一揆勢のなかには有馬・小西氏の牢人やキリスト教徒が多かった。益田(天草四郎)時貞(1623?~38)を首領にして原城跡に立てこもった3万余りの一揆勢に対して、幕府は九州の諸大名ら約12万人の兵力を動員した。鎮圧にもたつくが、征討軍の大将板倉重政が敗死後、老中松平信綱の指揮で、翌1638(寛永15)年、ようやくこの一揆を鎮圧した。
〈2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)〉
中野の上高田にある寺町には、区画整備で、明治40年代に都心から移転してきた寺が数多く集まっており、著名人の墓も多い。宝泉寺には板倉重昌の墓がある。彼は( ト )の島原の乱で、幕府上使として、原城にこもる一揆勢に対する攻撃の指揮をとるが、成果があがらず、翌年新たに派遣された老中( ナ )が到着する前に総攻撃をおこなって戦死した。
問1 空欄( 卜 )に当てはまるもっとも適切な年代はいつか。次の中から1つ選びなさい。
1.1630年 2.1632年 3.1633年
4.1635年 5.1637年 6.1639年
問2 空欄( ナ )に当てはまるもっとも適切な人物は誰か。次の中から1人選びなさい。
1本多正純 2本多正信 3酒井忠清
4土井利勝 5堀田正俊 6松平信綱」
(答:問1→5、問2→6)〉
〈2015関西大・文商法など2月4日:「
江戸時代に入ると、慶長17年(1612)、禁教令が出され、同19年、キリシタン大名で知られた高山右近は、8{ア.マカオ イ.マニラ ウ.アユタヤ}へ追放された。キリシタンに対する弾圧は続き、寛永14年(1637)には島原の乱が起こった。この地域はキリシタン大名有馬晴信と9{ア小西行長 イ加藤清正 ウ大友義鎮}の旧領で、キリシタンが多数居住していた。」
(答:8イ、9ア)〉
〈2012立大・文学部:「
( へ )を総大将として、島原と天草の領民たちが領主松倉氏と寺沢氏の苛政に対して、ともに手をたずさえて蜂起したのは、〈 こ 〉年秋のことだった。領民たちはそれぞれの領主の苛政に対して立ち上がったのだが、報告を受けた将軍家光は、キリシタン一揆と断定して、徹底的な弾圧を命じた。独特な終末観を持つ( へ )を中心とする首謀者たちは別として、2万人から4万人近くまで、様々に伝えられる参加人数の全員がキリスト教で結束していたわけでもなかった。指導層の内部では方針などをめぐる対立もあった。反乱軍は原城での数カ月の籠城戦の後に壊滅し、城は破却された。幕府は、鎮圧に〈 さ 〉人と〈 し 〉人を動員してその忠節ぶりを確認し、懸案だった〈 す 〉からのポルトガル船の来航を禁止し、その2年後に〈 さ 〉人を平戸から長崎出島に移した。
こ)a1630 b1635 c1637 d1639
さ)aイギリス bオランダ cスペイン d中国
し)aイギリス bオランダ cスペイン d中国
す)aバタヴイア bマカオ c.マニラ dマラッカ」
(答:へ天草四郎時貞、こc、さb、しd、すb)〉