修験本当 御身土。
(陰陽道(おんみょうどう)・土御門(つちみかど)家)(修験道(しゅげんどう)・本山派・当山(とうざん)派)
[ポイント]
1.修験道は本山派・当山派にわかれ、陰陽道は土御門家が統轄した。
[解説]
1.江戸幕府は、仏教以外の神道・修験道・陰陽道(おんみょうどう)なども仏教に準じて容認した。いっぽう修験者(山伏(やまぶし)) や陰陽師(おんみょうじ)は、仏教では満たされない祈禱(きとう)や占いを、江戸時代の人びとに与えた。
2.修験道は、天台系(本山派)は三井寺(園城寺(おんじょうじ))の支配のもと聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)が、真言系(当山派)は醍醐寺の三宝院門跡(さんぽういんもんぜき)が本山として末端の修験者を支配した。「本当は正午(聖護院門跡)に散歩(三宝院門跡」と覚えるとよい。
3.また陰陽道では、公家の土御門家が全国の陰陽師を統轄した。
〈2016早大・商
問C 江戸時代より前の空欄[ ハ ]は、修験道の修行場であった。修験道に関する説明として誤っているものを選べ。
1.修験道の宗教者を統制したのは土御門家である。
2.修験道を担う宗教者は、修験者または山伏と呼ばれる。
3.修験道には本山派・当山派という組織があった。
4.天台宗・真言宗の密教の影響を受けた。
5.戦国時代以前の一時期だけ流行した。
(答:C1×修験道→陰陽道(5△) ※空欄ハは日光)〉
〈2015立命館大・全学部
問f 下線部2の三井寺の説明として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。
あ.10世紀の終わり、円珍派は比叡山を下ってこの寺に入り、天台宗山門派となった。
い.この寺は、密教芸術を代表する、青不動と呼ばれる不動明王像を所蔵している。
う.のちに反平氏の挙兵をした以仁王と源頼政がこの寺に立てこもり、自害した。
え.修験道の修行者である山伏は、のちにこの寺と真言宗の醍醐寺の2系統に組織された。
(答:え ※あ×山門派→寺門派、い×青不動→黄不動、う×この寺→平等院)〉