異論排除だ抗議さえ。
1681年 代表越訴型一揆 上野 義民 磔左衛門
下総上野恐ろしい。
(下総(しもふさ)の佐倉惣五郎)(上野(こうずけ)沼田の磔茂左衛門)(代表越訴型一揆)
[ポイント]
1.代表越訴型一揆の例としては、下総の佐倉惣五郎・上野の磔茂左衛門の一揆がある。
[解説]
1.百姓は村請制のもとで年貢や諸役など重い負担のもとにおかれたが、幕府や藩の支配が原因で百姓の暮らしや生産が大きくそこなわれた時には、村を単位に領主に対し広い範囲で結集し、要求をかかげてしばしば直接行動をおこした。これを百姓一揆とよぶ。
2.17世紀後半からは村々の代表者が百姓全体の要求をまとめて領主に直訴する一揆(代表越訴型一揆)がふえた。下総佐倉の佐倉惣五郎、上野沼田の磔茂左衛門のように、一揆の代表者が義民として伝説化することが多かった。
〈2016立教大・文
問11.下総国で、藩主による重税を将軍に訴え出たとされる人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。
a佐倉惣五郎 b佐野政言
c長谷川平蔵 d磔茂左衛門」
(答:a)〉
〈2014明大・商(商)
17世紀の初期には土豪をまじえた武力蜂起や逃散などまだ中世の一揆のなごりがみられたが、17世紀後半からは村々の代表者が百姓全体の要求をとりまとめ領主に直訴する代表越訴型一揆が増え、しだいに藩領全域におよぶ惣百姓一揆も多発するようになっていった。このような一揆ではC【1伊豆 2下総 3上野 4常陸 5安房】の磔茂左衛門のように代表者が義民として伝説化することも多かった。」
(答:3)〉
〈2014明大・国際日本(国際日本)
問2.下線部(1)百姓町人大勢徒党して、強訴濫放に関して、近世の農民の反抗運動について述べた以下の文章A~Dについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを、下記の1~4の中から選びなさい。
A:地域の村役人・村人が連帯して、大名や幕府に強訴する惣百姓一揆は、18世紀末から起こるようになった。
B:村役人らの富農層の不正を追及し、領主に訴えるなどした、村落内部での村政改革運動である村方騒動は、18世紀後半には沈静化した。
C:村役人らが村人を代表して、領主の苛政を将軍に直訴する代表越訴型一揆は、佐倉惣五郎や磔茂左衛門などの義民伝説を生んだ。
D:在郷商人の指導により、1000を超える村の百姓が連帯して、領主や特権商人の流通独占に反対する合法的な訴訟を起こす国訴は、1823年の摂津・河内のものが最初とされている。
1 A〇、B×、C〇、D〇
2 A×、B〇、C×、D〇
3 A〇、B〇、C×、D×
4 A×、B×、C〇、D〇
(答:4 ※A×17世紀末の誤り、B×18世紀後半から頻発する)〉
非難だ嫌そう 行くよ尚!
17世紀 代表越訴型一揆
18世紀 総百姓一揆
19世紀 世直し一揆
〈2013学習院大学・経済:
前橋より北に位置する沼田には、真田氏の沼田藩があった。藩主真田信利は村々に重い年貢を課し、農民はこれにあえいでいた。この窮状を見かねた沼田藩月夜野の農民杉本茂左衛門は、1681(天和元)年幕府に直訴(越訴)をし、これが受け入れられた。真田氏は改易となったが。茂左衛門は磔にされた。この茂左術門は、下総の佐倉惣五郎などと同様に、[ 6 ]としてまつられ地域に伝承されている。」
(答:6義民)
無限品数文 蒼白じゃ。
(陸奥元文(げんぶん)一揆)(信濃嘉助(かすけ)騒動)(惣百姓(そうびゃくしょう)一揆)化す
[ポイント]
1.惣百姓一揆の例としては、嘉助騒動・元文一揆がある。
[解説]
1.17世紀末になると、総代表が越訴する形態から、平百姓が全面にでてきて、村全体が参加し、広域にわたる大規模な惣百姓一揆が各地でみられるようになった。ほとんど全藩的規模のものを全藩一揆ともいう。一揆に参加した百姓らは、年貢の増徴や新税の停止、専売制の撤廃などを要求し、藩の政策に協力する商人や村役人の家を打ちこわすなどの実力行動にも出た。
2.幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、一揆の指導者を厳罰に処した。しかし、きびしい弾圧にもかかわらず、百姓一揆は増加し続け、凶作や飢饉の時には、各地で同時に多発した。
3.その最も早い例が1686(貞享3)年の信濃松本藩の嘉助騒動がある。その他大規模なものとしては、1738(元文3)年の陸奥磐城平藩の元文一揆があげられる。
〈2016明大・農〉
問10 下線部キ百姓一揆に関連して、百姓一揆について記述した文章として適切でないものを一つ選べ。
A 一揆の連判は、首謀者を不明確にし、また団結の意味をこめてつくられた。
B 代表越訴型一揆の例として、下総佐倉の佐倉惣五郎や上野沼田の磔茂左衛門の指導によるものが知られている。
C 全藩一揆の例として、陸奥磐城平藩の元文一揆などがある。
D 百姓一揆は江戸時代を通じて約3,200件あったことが判明しているが、元禄期以降にとくに頻発するようになった。
E 百姓一揆の要求内容は、17世紀には検地や重税反対が多かったが、18世紀になると年貢増徴・新税賦課や専売制に反対するものが増えていった。」
(答:D×とくに頻発するのは「享保期」以降)〉
カモン世直し グン去ろう。
(三河加茂(かも)一揆・世直し)(1836甲州郡内(ぐんない)騒動・幕府領)
[ポイント]
1.天保期の大規模一揆では、ともに幕府領でおきた、三河加茂一揆(世直しをうたう)と甲州郡内騒動が知られる。
[解説]
1.三河加茂一揆と甲州郡内騒動(郡内一揆・甲州騒動)は、天保の飢饉中の1836(天保7)年に、領主に米価引き下げを要求して発生。この年の飢饉はとくにきびしく、両地方では米不足が深刻化していた。郡内騒動は約80カ村1万人、加茂一揆は約 240カ村1万2000人におよぶ百姓の一揆であった。ともに幕領で生じ、とくに加茂一揆はその指導者は取り調べに対して世直しを口にした先駆的な一揆であるなど、幕府への影響は大きかった。
2.世直し一揆は、幕末・明治初年に頻発した、世直しを掲げる百姓一揆・農民一揆をいう。貧農・小作人が、土地(質地など)の返還、高利貸商人およびかれらと結託(けったく)する村役人=在郷商人を攻撃するもの。幕末の開国後にもっとも盛行した。
〈2016立教大・現心社コミュ福
天保の飢饉の際には、1836年に( ヌ )と呼ばれる甲斐国の一部から( ヌ )騒動が発生し、また、( ル )国で発生した加茂一揆では約1万人の農民が酒屋・米屋を襲った。」
(答:ヌ郡内、ル三河)〉
〈2014早大・教育:
「下線部g個別領主の支配領域を越えた広域的な民衆運動についての説明で、誤っているものはどれか。
ア.合法的な訴願の内容はおもに商品の自由売買を求めるものであった。
イ.合法的な訴願運動は、村役人など上層の百姓の主導のもとで進められた。
ウ.こうした運動の背景には、商品経済の活発化があった。
エ.世直し一揆は、天保期にもっとも高揚した。
オ.世直し一揆では、激しい打ちこわしをともなった。」
(答:エ×その先駆三河加茂一揆などは天保期だが、世直し一揆の高揚期は幕末(ピークは慶応期)である)〉
〈2014立大・文
問1.これ1)たび重なる凶作により引き起こされた飢饉に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.1732年の凶作は、天候不順のなか、稲の害虫が発生したために引き起こされた
b.1782年の冷害から始まった凶作は、翌年の富士山の大噴火が重なって、東北地方を中心に多数の餓死者を出した
c.1830年代には、米の収穫が例年の半分以下となる凶作が発生した
d.飢饉をきっかけに、1836年には甲斐国郡内地方などで大規模な一揆が起こった」
(答b×富士山→浅間山)〉