●江戸時代(光格天皇 徳川家斉)
KLaxman arrives at Nemuro with Daikokuya Kodayu.
異な国ロシア から来るね。
1792年 ロシア ラクスマン 根室
日本が鎖国政策を採っている間、ヨーロッパは資本主義社会へと進展。
近代化の遅れたロシアもシベリア進出を続けた。1792年、ロシア使節のラクスマンが根室に来航し、大黒屋光太夫《ロシアに漂流した彼は、〈大国や!〉と思っただろうね!》ら漂流民を送り届けるとともに通商を要求。
老中松平定信はこれを拒否したが、外交交渉のための長崎入港許可証を与えた。
〈『海国兵談』〉 江戸時代後期の経世思想家林子平は『海国兵談』を著し、日本周辺の状況と海防への与論の喚起をはかった。しかし、子平は人心を惑わしたとの理由で仙台蟄居を命じられた。それは1792年、ラクスマンが根室に来航する直前のことであった。
[ポイント]
1.列強の接近と幕府の対応は、ラックスマンの根室来航→近藤重蔵の千島探検→伊能忠敬の蝦夷地測量→レザノフの長崎来航→フェートン号事件→間宮林蔵の樺太探検→ゴロウニン事件→異国船打払令→シーボルト事件→モリソン号事件→蛮社の獄と推移。これらすべて家斉(位1787~1837)・大御所時代(1837~1841)の事件です。
[解説]
1.ラクスマンの根室来航(1792)。ラクスマン(1766~1806?)はロシア帝国の軍人。女帝エカチェリーナ2世の命により漂流民の大黒屋光太夫(1751~1828)ら3名の送還と通商要求のため、1792年、根室に来航した。松前藩からの連絡で老中松平定信は、箱館廻航を指示。箱館で漂流民を受理したが通商は長崎にて協議するとして、長崎入港許可証(許可証を信牌(しんぱい)という)を交付して退去させた。しかしラクスマンは長崎に向かわず、そのまま帰国(帰国したとは知らない定信は、ラクスマンが長崎への途中、江戸湾に入るのではないかと心配した)。大黒屋光太夫は伊勢国の船頭。1782年伊勢から江戸に向かう途中遭難、アリューシャン列島に漂着。桂川甫周が光太夫から聴取して著した漂流記が『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』。
2.近藤重蔵の千島探検(1798)。近藤重蔵(1771~1829)は幕臣。蝦夷地(北海道)へわたり、最上徳内と千島列島を、択捉島まで探検し、同島に「大日本恵登呂府」の木柱を立てた。
3.伊能忠敬の蝦夷地測量(1800)。伊能忠敬(1745~1818)は、17歳のとき佐原の酒造業・伊能家に婿養子として入り、衰えていた家業を再興。50歳の時隠居し、江戸に出て当時の天文学の第一人者、高橋至時(1764-1804)の門下で学問の道に入る。より正確な暦を作るためには、地球の子午線1度の長さを測る必要があることから、師至時と謀り、地図製作のための測量を幕府に願い出て、1800年、許可を受ける。以後1816年までに全国を測量し、その成果が『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』。
4.レザノフの長崎来航(1804)。レザノフ(1764~1807)は貴族出身で、ロシア・アメリカ会社総支配人。漂流民4人を送って来航、アレクサンドル1世(1777~1825)の国書、及び先年ラクスマンが受けた長崎入港許可の信牌を持参し、通商を要求する。半年も待たせたうえで通商を拒否、レザノフ一行を追い返す形になった。帰路レザノフは、報復と威嚇のため、樺太・千島で番所や漁船を攻撃する事件を起こす。以後、北方でロシアとの武力紛争が頻発するようになる。
5.フェートン号事件(1808)。フェートン号は英軍艦。仏・ナポレオン支配下のオランダ船を追って長崎港に侵入。幕府は撃退できず、イギリス側は薪水・食糧を奪って退去。長崎奉行松平康英(やすひで)はこの責任をとって割腹。
6.間宮林蔵の樺太探検(1808)。間宮林蔵(1780~1844)は幕臣。幕府の命により樺太とその対岸を探査し、樺太が島であることを確認し間宮海峡を発見した。測量を伊能忠敬に学び、忠敬が蝦夷地を全て測量することができなかったが、残した蝦夷地の部分を間宮が代わりに測量している。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷地部分は、忠敬の測量図を間宮の測量図で補完したものになっている。
7.ゴロウニン事件(1811、ゴローウニン)。ゴロウニン(1776~1831)はロシア軍人。レザノフ事件の報復として1811年、国後島測量中捕らえられ函館に留置される。1812年、ロシア側は逆に淡路商人高田屋嘉兵衛(1769~1827)を捕える。翌年嘉兵衛の努力などで両者の釈放交換が実現。ゴロウニンはこの経験を帰国後『日本幽囚記』に著す。
8.異国船打払令(無二念(むにねん)打払令)(1825)。日本沿岸に来航する外国船に対し、その来航意図を考慮せず、二念なく撃退することを命じた法令。
9.シーボルト事件(1828)。博物学者でもあるドイツ人医師シーボルト(1796~1866)は日本研究(帰国後『Nippon』を著す)のため、出身を隠してオランダ商館医として来日。長崎郊外に鳴滝塾を開き、高野長英らに西洋医学を教授した。帰国直前、所持品を送った船が難破し、中から禁制品の日本地図(伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図)などが見つかり、それを贈った幕府天文方・高橋景保など多数が処断され、シーボルトも1829年国外追放処分を受けた。なおシーボルトは幕末の1859年に、再来日し幕府の外交顧問となっている。
10.モリソン号事件(1837)。モリソン号は米商船。日本人漂流民7人を送って来航したが、浦賀と薩摩の山川で撃退される。
11.蛮社の獄(1839)。翌年モリソン号事件を知った、渡辺崋山(1793~1841、三河国田原藩家老)・高野長英(1804~50、陸奥国水沢出身の町医者)らが事件と幕府の対外政策を、それぞれ『慎機論』、『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』で批判。このため両者の属する蛮社、すなわち洋学者のグループ(尚歯会)が、厳しい処罰をうけた。すなわち崋山は国元での永蟄居、長英は永牢に処せられた。この時この会の他の学者たちも別件で逮捕されたが、のちに無実とされた。
〈2016慶大・経済B方式
問2(1)江戸時代後期の日本とロシアの関係について、ラクスマンの来航から、レザノフの部下による択捉・樺太攻撃までの時期の日露間の交渉の推移を、〔解答欄B〕の所定の欄の範囲内で説明しなさい。」
〔解答例:ラクスマンが大黒屋光太夫ら漂流民送還と通商要求のため根室に来航したが、幕府は拒否し、長崎入港の許可証を与えた。この許可証と国書をもって長崎に来航したレザノフに対しても、拒絶したため日露間の緊張が高まった。(102字)〕〉
〈2016立教大・法済異文:「
問4.この時期の外交上の出来事a~dのうち、もっとも古いものを解答欄のiに、次に古いものをⅱに、以下同じようにⅳまで年代順にマークせよ。
a.国後島に上陸したロシアの艦長ゴローウニンが日本の警備兵に捕えられた
b.幕府は、松前藩から松前・蝦夷地すべての支配権を取り上げ、松前奉行の支配とした
c.募府は、間宮林蔵に樺太とその対岸を探査させた
d.レザノフが長崎に入港許可証をもって来航し通商を要求した」
(答:ⅰd、ⅱb、ⅲc、ⅳa)〉
〈2016早大・政経
[ⅲ]下線部3レサノツト〔レザノフ〕についての記述として誤っているものはどれか。
aフィンランド湾から大西洋を渡り、アメリカ大陸南端を通過、ハワイを経由してカムチャッカに至る大航海を経て日本に到達した。
b長崎に来航し、通商を求めた。
c津太夫らの日本人漂流民を送還したが、幕府はその受け入れを拒否した。
d幕府に要求を拒絶された報復として、帰路、樺太や択捉島などの日本人入植地を攻撃した。
eロシアの宮廷につかえ、また、露領アメリカ会社の総支配人でもあった。」
(答:c×送還はやや時期が長引いたが実現した)〉
〈2016関西学院大学・全学部
史料3 イギリスは、日本に対し敵国にては之無く、いはば付合も之無き他人に候故、今彼れ漂流人を憐れみ、仁義を名とし、わざわざ送り来り候者を、何事も取合申さず、直に打払に相成候はば、(中略)国家の御武威を損ぜられ候様にも相成候はんやと、恐多くも考えられ候。(『戊戌夢物語』)
問 史料3の記述は前年の出来事をきっかけにしているが、その出来事を下記より選びなさい。
ア.フェートン号事件
イ.ゴローウニン事件
ウ.アヘン戦争
エ.モリソン号事件」
(答:エ)〉
〈2016立教大・現心社コミュ福
問12.これ12対外問題に関する出来事について、もっとも古いものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。
a.異国船打払令(無二念打払令)発布→ゴローウニン事件発生→フェートン号事件発生→蛮社の獄発生
b.ゴローウニン事件発生→異国船打払令(無二念打払令)発布→蛮社の獄発生→フェートン号事件発生
c.蛮社の獄発生→フェートン号事件発生→異国船打払令(無二念打払令)発布→ゴローウニン事件発生
d.フェートン号事件発生→ゴローウニン事件発生→異国船打払令(無二念打払令)発布→蛮社の獄発生」
(答:d)