[ポイント]
1.江戸時代の4大飢饉は寛永の飢饉→享保の飢饉→天明の飢饉→天保の飢饉。
[解説]
1.寛永の大飢饉(1642~43年)。冬から春にかけて、全国で飢饉となる。飢饉は8年前から断続的に起きており、幕府は農業再建策を発表する。
2.亨保の大飢饉(1732年)。西日本一帯が天候不順の上、いなごやうんかが大量に発生し、稲を食いつくして大凶作となり、全国におよぶ飢饉となった。このため民衆の暮らしは大きな打撃を受け、江戸では翌1733(享保18)年に、有力な米問屋(こめといや)が米価急騰の原因をつくったとして打ちこわしにあった。
3.天明の大飢饉(1782~87年)。1782(天明2)年の冷害からはじまった飢饉は、翌年の浅間山の大噴火をへて数年におよぶ大飢饉となり、東北地方を中心に多数の餓死者を出した。このため全国で数多くの百姓一揆がおこり、江戸や大坂をはじめ各地の都市では激しい打ちこわしが発生した。蘭医の杉田玄白は、その編著『後見草(のちみぐさ)』で1787年にこの飢饉を記録している。
4.天保の大飢饉(1832~39年)。天保年間の1832~33(天保3~4)年の冷害で、収穫が例年より半分以下の凶作となり、全国的に米不足を招いて、きびしい飢饉にみまわれた。農村や都市には困窮した人びとが満ちあふれ、百姓一揆・打ちこわしが続発したが、幕府・諸藩はなんら適切な対策を立てることができなかった。1836(天保7)年の飢饉はとくにきびしく、そのため、もともと米が不足していた甲斐国郡内地方や三河国加茂郡で一揆がおこった。郡内騒動は約80カ村1万人、加茂一揆は約 240カ村1万2000人におよぶ百姓の一揆であった。ともに幕領で生じた大規模な一揆であり、幕府への影響は大きかった。大坂でも飢饉の影響は大きく、餓死者があいついだ。しかし、富裕な商人らは米を買い占めて暴利を得る一方、大坂町奉行は窮民の救済策をとることもなく、米不足にもかかわらず大坂の米を大量に江戸へ回送していた。これを見た大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎(1797~1837)は、1837(天保8)年に、大塩の乱を起こした。
〈2016同志社大・全学部:「
【設問カ】江戸時代には冷害・噴火など天災を主因とする飢饉が発生したが、以下の4つの飢饉について、その番号を起こった時期の古い順に並べよ。
1.享保の飢饒 2.天保の飢饉
3.天明の飢饉 4.寛永の飢饉
(答:カ4→1→3→2)〉
〈2016立教大・現心社コミュ福:「
4.18世紀から19世紀は小氷期と呼ばれる寒冷な時代で、しばしば大規模な飢饉に見舞われた。なかでも1732年に長雨やうんかの害により発生した( へ )の飢饉、1782年の冷害やその翌年の( ト )の大噴火などによって引き起こされた天明の飢饉、1830年代前半の長期にわたる天候不順により引き起こされた天保の飢饉は三大飢饉と呼ばれている。
飢饉とこれに起因する一揆や打ちこわしは幕府の体制や政策に大きな影響を与えた。天明の飢饉は幕政の改革を進めていた田沼意次の権勢に影響を与え、彼は将軍徳川( チ )が死去した1786年に失脚した。その後老中に就任した( リ )藩主松平定信は寛政の改革と呼ばれる改革政治を行った。
天保の飢饉の際には、1836年に( ヌ )と呼ばれる甲斐国の一部から( ヌ )騒動が発生し、また、( ル )国で発生した加茂一揆では約1万人の農民が酒屋・米屋を襲った。大坂では1837年に元奉行所の役人で、陽明学を講じていた大塩平八郎が米を買い占める富商を襲撃する事件が発生した。その後、越後柏崎では大塩門弟と称する国学者( ヲ )が陣屋を襲撃したほか、各地で大塩に共嗚する百姓一揆が続発した。19世紀前半には、こうした国内問題に加えて対外問題もあいまって、幕府の弱体化が進んだ。この事態に対処するために老中( ワ )を中心に天保の改革と呼ばれる改革が実施されたが、充分な効果をあげることはできなかった。」
(答:ヘ享保、ト浅間山、チ家治、リ白河、ヌ郡内、ル三河、ヲ生田万、ワ水野忠邦)〉
〈2015早大・社会科学:「
問8 下線部7大塩平八郎が主導したに関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。
イ 天明の飢饉により、大坂市中に死者が続出した。
ロ 大坂町奉行所は、大坂の米を大量に江戸へ回送した。
ハ 蜂起には家塾洗心洞の門弟が動員された。
ニ 大塩は蔵害を売り払って貧民を救済し、彼らに挙兵に応じるように呼びかけた。
ホ 1年後、国学者の生田万が大塩門弟と称して挙兵した。」
(答:イ×天明→天保、ホ×1年後→その年)〉
〈2015早大・人間科学:「
問7 空欄2は、浅間山の噴火や長雨などが重なり『凶荒図録』にその惨状が描かれた凶作のことである。該当する語句はどれか、1つ選べ。
ア寛永の飢饉 イ天保の飢饉
ウ寛正の飢饉 エ享保の飢饉
オ天明の飢饉」
(答:オ)〉
〈2015関西大・済文社会など2月3日実施:「
問10 これは、『後見草』の一節で、東北地方を襲った飢饉の悲惨な様子が記されている。この書物の編著者は、若狭国小浜藩の藩医で、日本最初の翻訳解剖書の訳者として知られている。その人物は誰か。
ア山脇東洋 イ桂川甫周 ウ杉田玄白
〈2014早大・文化構想:「
問7 下線g田沼意次が権力を握っていた時代に噴火し、天明の飢饉の一因となった山の名前は何か。漢字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。」
(答:浅間山)〉
〈2013青山学院・文:「
冷害による大凶作に端を発した天明の飢饉は、陸奥国を中心に江戸時代最大の餓死者を出した。同じ頃[ ア ]が噴火して大きな被害が出、数年後には関東地方などが洪水の被害で大凶作となった。」
(答:浅間山)〉
〈2012早大・文化構想:「
1604年(慶長8)には俗に慶長地震といわれる東海・南海地震が発生し、三代将軍家光の治世には[ F ]の飢饉が起きた。西日本の干ばつと東日本の長雨・冷害による飢饉で、5~10万人の餓死者がでたという。18世紀に入ると、富士山の「宝永噴火」が起きる。当時江戸にいた[ G ]は、『折たく柴の記』でその様子を記している。幕府は、小田原藩領のうち被害が大きかった村々を幕領にして、その復興にあたった。また、被災者救済を名目とした国役金を全国に賦課した。
宝永の富士山噴火と並び、江戸時代で最大級の噴火は、1783年(天明3)の浅間山噴火である。噴煙により日射が妨げられて、前年からの冷害が一層深刻になったうえ、関東では大雨による大洪水も起きた。江戸時代の飢饉の中で最大の餓死者を出したのが、このc天明の飢饉である。
問8 空欄Fには元号が入る。1つ選べ。マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。
ア寛永 イ寛文 ウ寛保
エ寛延 オ寛政
問9 空欄Gに該当する人物は誰か。1つ選べ。マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。
ア山鹿素行 イ伊藤仁斎 ウ荻生徂徠
エ室鳩巣 オ新井白石
問10 下線部c天明の飢饉に関して述べたものとして、誤っている記述はどれか。1つ選べ。
ア 被害の惨状は『凶荒図録』などに描かれた。
イ 米価の急騰により、全国各地の主要都市で打ちこわしが起きた。
ウ 若年寄の田沼意知が江戸城内で刺殺されたのは、この頃である。
エ 幕府は凶作や飢饉に備えて穀物をたくわえさせた。
オ 東日本では、いなごやうんかが大量に関連して大凶作となった。」
(答:問8ア寛永、問9オ、問10オ×うんかの害は享保の飢饉のときでしかも被害の中心は西日本)〉