[ポイント]
1.陽明学は中江藤樹に始まり、熊沢蕃山へとつづく。
[解説]
1.中江藤樹(1608~48)は、近江国の農家に生まれるが、伊予大洲藩に仕官した祖父の養子として武士となる。17歳のとき儒学に志し、独学で朱子学を学んだ。やがて行為よりも知識を重んじる朱子学に疑問をもち、明の王陽明(1472~1528)が知識と行為の一致(知行合一)を説いた陽明学に傾倒した。かれは脱藩して近江に帰り私塾藤樹書院を開き、近江聖人と呼ばれた。「藤樹」は、実家が大きな藤の木の下にあったことからついた名。
2.熊沢蕃山(1619~91)は、中江藤樹の第一の門人。岡山藩主池田光政に重用され藩政改革に貢献。蕃山の生きた時代は2代将軍秀忠から5代将軍綱吉」の時期。『大学或問』で、幕政批判をしたとして、下総古河に幽閉されその地で客死した。死後1世紀を経て評価が高まり、新井白石と並ぶ大学者としてあがめられた。
3.なお後世に独学で陽明学を学んだ大塩平八郎(1793~1837)がいる。
〈2016立教大・現心社コミュ福
問11.これ陽明学に関する記述として正しいのはどれか。
a.岡山藩主に仕えた熊沢蕃山は『大学或問』を著した
b.寛政異学の禁において、昌平坂学問所で講義することが認められた
c.唐の王陽明が創始した儒学の一派である
d.日本におけるこの学の祖とされるのは太宰春台である」
(答:a ※b×禁止された、c×陽明学は南宋の陸象山を基礎に明代の王陽明が展開した学、dは徂徠の弟子で古学派のうちの古文辞学派)〉
〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)
次の短文は、江戸時代の文化を担った人について叙述したものである。よく読んで、あとの問いに答えなさい。
問1 次の文章の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。誤っている語句をa~dの中から1つずつ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、それぞれの語群から1つずつ選びなさい。
京都の人で陽明学者。a萩藩主池田光政に仕え、治績をあげた。b経済政策論としての『大学或問』を著し、社会批判を展開。c重農主義的立場から武士の帰農、d参勤交代の緩和を主張した。
〔語群〕
1松江 2岡山 3外交 4教育
5重商 6重工 7年貢 8国内旅行規制」
(答:a→2 ※人物は熊沢蕃山)〉
〈2016法大・文(英地心)法(国)営(戦略)
問9 下線部f天保の改革の直前に大塩平八郎の乱が起きている。大塩が大坂で教授していた学問は「知行合一」を説くものであったが、その学問として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。
ア国学 イ朱子学 ウ陽明学 エ水戸学」
(答:ウ)〉
〈2014早大・文化構想
問5 下線eの人物柳沢吉保はある将軍の側用人を務めたが、その将軍の治世に関する文章として誤っているものはどれか。2つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。
ア 大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺された。
イ 上方を中心に元禄文化と呼ばれる町人文化が発達した。
ウ 生類憐みの令が出され極端な動物愛護の方針が採られた。
エ 中江藤樹が藤樹書院を開いた。
オ 足高の制が施行された。」
(答:エ・オ ※5代将軍徳川綱吉(位1680~1709)、エ.藤樹書院の解説は1634年。オは吉宗)〉
〈2013同志社大・全学部:「
【設問q】鳥取藩主から岡山藩主となった池田光政が登用した儒学者で、『大学或問』を著した人物として適切なものはどれか。次のうちから1つ選べ。
1.山鹿素行 2.中江藤樹
3.熊沢蕃山 4.伊藤仁斎」
(答:3)〉
〈2015立命館大・全学部2/2:「
次の文章を読み、下線部cの「かれ」の氏名を答えよ。かつ(m)の問いに答えよ。
〔3〕cかれは、「近江聖人」「日本陽明学の祖」として知られているが、その学問は必ずしも陽明学一辺倒ではなく、中国の明末の思想や儒教・仏教・老荘思想からも多くの影響を受けている。「孝」を中心とした思想は、3武士だけではなく、町人・農民にも伝えられ、儒教道徳の民間への普及に功績があった。
問m 下線部3に関連して、「かれ」の武士の弟子としてよく知られている人物は誰か。もっとも適当な人名を下から一つ選べ。
あ貝原益軒 い室鳩巣
う新井白石 え熊沢蕃山」
(答:かれ→中江藤樹、問mえ)〉