還暦が来りゃ 鈍行か。
(絵の具墨紙)(高句麗僧・曇徴)(百済僧・観勒・暦法天文地理)
[句意]僕は高級な緞帳を百巻持ってる、という文字通りの句。「もってる」は「天文」を倒置させたゴロ。曇徴と観勒についての紛らわしい正誤問題が頻出しているので、「百巻もってる」を覚えるだけでもかなり役立つはず。「緞帳」は劇場や学校体育館の舞台などにある厚地の模様入り幕のこと。
[ポイント]
1.高句麗僧曇徴が、絵の具・紙・墨の製法を、百済僧観勒が暦法・天文・地理の書を伝える。
[解説]
1.曇徴(生没年不詳)は、高句麗僧。推古朝の610年来日。絵の具・紙・墨の製法を伝えた。
2.観勒(生没年不詳)は、百済僧。推古(すいこ)朝の602年来日。暦法・天文・地理の書を伝えた(604年、初めて暦を使用)。
〈2016立命館大・全学部
〔2〕日本最古の本格的な伽藍寺院である飛鳥寺の造立には、朝鮮半島から遣わされた工人集団が重要な役割を果たしたが、この時期に渡来した僧も、8.仏教とともに新しい知識や技術を伝えた。また、日本から派遣された遣隋使に随行した9留学生や学問僧は、帰国後日本の新しい国家体制の構築に貢献することになった。
問i 下線部8に関連して、高句麗から渡来し、紙・墨や絵の具の製法を伝えたとされる僧は誰か。もっとも適当な僧の名を答えよ。
問j 下線部9に関する説明として、適当でないものを下から一つ選べ。
あ 学問僧として遣隋使に随行した南淵請安は、中臣鎌足や中大兄皇子らに大陸の知識を伝えたとされる。
い 留学生として遣隋使に随行した高向玄理は、大化の新政権に参画したが、のち遣唐使として再び大陸に渡り、客死した。
う 学問僧として遣隋使に随行した観勒は、暦や天文の書をもたらし、また僧正に任じられて僧尼の教導にあたった。
え 学問僧として遣隋使に隨行した旻は、孝徳天皇のもとで国博士の任につき、また十師の一員となった。」
(答:i曇徴、jう×観勒は百済から来日した僧 ※え〇の「十師」は僧尼の統制のため10人の高僧を任じたもの)〉
〈2014明大・農(食料環境政策)
問4 下線部(ア)高句麗に関連して、高句麗と周辺諸国との関係について記述した文章として最も適切なものを一つ選んで、その記号を解答欄にマークせよ。
A 朝鮮半島北部におこり、次第に領土を広げ、313年には楽浪郡を滅ぼした
B 5世紀後半に南下策を進めると、朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、倭国と争うことになった。
C 高句麗の僧観勒は日本に彩色・紙・墨の技法を伝えたとされている。
D 高句麗との戦いにより、倭人はいやおうなしに騎馬技術を学び、5世紀になると、日本列島の古墳の副葬品にも馬具が現れるようになった。
E 隋による高句麗への侵攻が始まったのは7世紀中葉のことである」
(答:D ※A発生は現中国東北部で朝鮮半島ではない、E.高句麗侵攻は598~614年)〉
〈2013青山学院・文
602年に百済僧[ ア ]によって暦本・天文地理書・遁甲方術の書などがもたらされ、暦法が教授されてからであった。
問3.空欄[ ア ]に入る人物は誰か。その名前を漢字で記しなさい。
(答:観勒)〉