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第1章・オリエントと地中海世界 ★★★ オリエント文明とその影響 

2020-01-12 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2007 早大・商

【問】次の文章を読み、設問A~Jに答えよ。

 人類が最初に農耕・牧畜生活をはじめた地域のひとつは,西アジアの「肥沃な三日月地帯」の山麓山地方であったと考えられています。西アジアとエジプトをふくむ地域はオリエントとよばれ,(A)メソポタミア文明(B)エジプト文明が誕生し,初期の都市国家や王国が樹立されました。オリエント地域では早くから(C)金属器が使われ,(D)文字も考案されました。また,農耕や祭りのために(E)天文学や暦を発達させるとともに,(F)数学や建築学などが大いに栄えました。メソポタミアとエジプトで発達した科学技術は,その後,(G)この地域を支配した多くの民族に受け継がれていきましたが,前4世紀にギリシア世界の拡大の中で新たな文化であるヘレニズム文化に融合されていきました。(H)エジプトのアレクサンドリアには,大図書館や研究所(ムセイオン)がつくられ,様々な分野の人々が活躍しました

 7世紀にアラビア半島に誕生したイスラーム教は,短期間のうちにオリエント地域に拡大し,イスラーム世界が出現しました。イスラーム教の信仰によって結ぼれたイスラーム世界では,(I)イスラーム暦など古い伝統を守りつづけているものもある一方で,古代オリエント以来の豊かな文化のうえに,ギリシア,イラン,(J)インドなど周辺の先進諸文化をとりいれた特色ある文化が生みだされました。

問A.
下線部(A)について前4千年紀に南メソポタミアに住みつき,この文明をつくりだした人々はどれか。
1.シュメール人  2.エラム人  3.アッカド人  4.バビロニア人
問B. 下線部(B)について,この文明の記述として正しい文章はどれか。
 
1.ピラミッドが盛んに建設された古王国時代が終わると,すぐにヒクソスの侵入を受けた。
 2.
国王はファラオとよばれ神の化身として崇拝され,王国を支配していた。
 3.
ヒクソスを撃退して成立した新王国は,アッシリアの侵入によって滅んだ。
 4.
中王国の第18王朝のトトメス3世時代に,王国の領土は最大となった。
問C.
下線部(C)について前2千年紀に鉄器をはじめて本格的に使用した人々はどれか。
1.カッシート人  2.アッシリア人  3.ミタンニ人  4.ヒッタイト人
間D.
下線部(D)について正しい文章はどれか。
 1.
バビロニア人が粘土板に記した文字は,ヒエログリフとよばれる。
 2.
フェニキア人は,アルファベットをギリシア人から学んだ。
 3.
メソポタミア最古のシュメール文字は,未解読である。
 4.
シナイ文字は,エジプト文字から誕生した。
問E.
下線部(E)について正しい文章はどれか。
 1.
バビロニア人は, 1週間を7日とした。
 2.
アッシリア人は, 1年365日の太陽暦をつくった。
 3.
シュメール人は,昼と夜をそれぞれ12等分した。
 4.
アッカド人は, 1週間を10日とした。
問F.
下線部(F)について古代メソポタミアで考え出したとされるものはどれか。
1.2進法   2.12進法   3.30進法   4.60進法
問G.
下線部(G)について正しい文章はどれか。
 1.
ヒッタイトは,メソポタミアをふくむオリエント地域をはじめて征服した。
 2.
エジプトは,ヒッタイトを破りメソポタミアをふくむオリエント地域を支配した。
 3.
アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は,マケドニアを滅ぼしオリエント全域を支配した。
 4.
アッシリアは,前7世紀前半にエジプトをふくむオリエント地域をはじめて征服した。
問H.
下線部(H)について,ヘレニズム時代のアレクサンドリアで活躍した人物はだれか。
1.アリストテレス  2.へロドトス  3.エウクレイデス  4.プルタルコス
問I.
下線部(I)のイスラーム暦の1年は何日か。
1 . 354日  2.356日  3.358日  4.360日
問J.
下線部(J)についてインドからの影響で導入されたものはどれか。
1.アーチ建築  2.ゼロの概念  3.ドーム建築  4.πの概念

解 答 

解 説: 問A.シュメール人の「メ」

A).エラムElam)は古代オリエントで栄えた国家、または地方の名。紀元前3200年頃から紀元前539年までの間、複数の古代世界の列強国を出現させた。
B)3.「海の民」の侵入によって衰退し前1069年に滅ぶ。
4.前1504年 トトメス3世の親征

行こうシリアに 止め刺せ。  

前1504年 シリア 新王国 トトメス3世

(C)HIT & TIGHT で「鉄」はできる。

(D)4.のシナイ文字は山川教科書の記載がないが、20世紀初頭に発見され、象形文字から表音文字への移行期にある文字ではないかと注目されている。シナイ半島の古代エジプト時代の遺跡から出土したたもので、前18~前15世紀ごろ、エジプトの象形文字から発展して生まれたものと考えられている。アルファベットの起源とする説もあるが、まだ確定していない。

(D)2.表音文字を線文字化したフェニキア文字は、ギリシア人に伝えられ、ラテン文字のもとになった(アルファベットの起源《「フェニキア」の〈〉で「ギリシア人」、〈〉で「アルファベット」を覚えよう!》)。
(E)1.バビロニア成す一週間。
(G)前671年 アッシリア、エジプトを征服してオリエントを統一。

労無い圧勝 オリエント。

671年 アッシリア オリエント統一 エジプト

(H).アレクサンドリアのエウクレイデス古代ギリシャ語ΕὐκλείδηςEukleídēsラテン語Euclīdēs英語Euclidユークリッド)、紀元前3世紀? - )は、古代ギリシア数学者天文学者とされる。数学史上最も重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリアで活動した。
(I)
イスラーム暦がヒジュラ(聖遷)の年である西暦622年を元年とすることは必須であっても、その1年が354日であるというのは受験生の盲点。これは太陰暦(月の満ち欠けによる暦)を厳格に守ったものである。なお、7月16日を元日として、354日を一日としたので、イスラーム暦の年代の数え方は西暦と一致しないから、簡単には換算できない。現在でもイスラーム世界ではその暦が使われている。
イスラム暦は参考書。
イスラム暦 1年=354日
 
コメント (4)
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第1章・オリエントと地中海世界 ★★ ギリシア文化 

2020-01-11 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2010 関西学院大・全

【問】次の文中の(   )に最も適当な語を語群から選び、また下線部に関する問いに答え、最も適当な記号1つをマークしなさい。

 古代ギリシアでは、文学や美術といった芸術の分野だけでなく、哲学や自然科学の分野においても、後の西洋近代文明の先駆けとなるような豊かな文化が花開いた。

 文学では、数々の詩人や劇作家が才能を競い合い、すぐれた作品を生み出した。初期の詩人としてはホメロスとヘシオドスが、少し遅れて女性詩人(  イ  )が登場した。紀元前5世紀のアテネでは演劇が盛んになり、 「三大悲劇詩人」と呼ばれるアイスキュロス、ソフォクレス、(  ロ  )が、人間の運命をテーマにした重厚な悲劇を残した。

 調和と均整のとれた美を追求した古代ギリシア人は、彫刻と建築にもすぐれた才能を発揮した。アテネのアクロポリスの丘にある③.パルテノン神殿は、古代ギリシアを代表する建築である。
 哲学や自然科学の分野では、自然現象を神話的に解釈するのではなく、ひとつの根本原理によって合理的に説明しようとする④.自然哲学が生まれた。その後、ギリシア人の学問的関心は自然現象の説明だけにとどまらず、政治や倫理・道徳の領域にまでひろがった。ソクラテスに始まる真理の探究は、プラトンの(  ハ  )に結実し、さらに⑤.アリストテレスにおいてこれまでの諸学問の成果が集大成されることになる。

 ヘレニズム時代に入ると、ギリシア文明とオリエント文明との融合により、学問や芸術が新たな発展をとげた。ポリス共同体の狭い境界にとらわれない生き方を理想とする考え方も生まれた。こうした旧来のポリスの枠を超えた人間のあり方を探求する人々のなかから、ストア派やエピクロス派といった個人の心の平安を求める哲学が現れた。

〔語群〕
イ. a.アナクレオン  b.サッフォー  c.プロタゴラス  d.ピンダロス. e.プラクシテレス
ロ. a.トゥキデイデス  b.ガレノス  c.アリストファネス  d.エウリピデス  e.ウェルギリウス
ハ.
a.経験論    b.合理論    c.唯物論   d.イデア論   e.汎神論
〔問い〕
① ホメロスとへシオドスに関する記述として、誤りを含むものはどれか。
a.ホメロスの『イリアス』はトロイア戦争の英雄の活躍をうたった叙事詩である。
b.
ヘシオドスの『農耕詩』は農村での労働の教訓をうたった叙事詩である。
c.
ヘシオドスの『神統記』はギリシアの神々の系譜をうたった叙事詩である。
d.
ホメロスの『オデュッセイア』はオデュッセウスの放浪と冒険をうたった叙事詩である。
e.
ホメロスが活躍したのはポリス形成期の頃とされる。
ソフォクレスの作品はどれか。
a.『女の平和』      b.『オイディプス』    c.『縛られたプロメテウス』   d.『アエネイス』     e.『メディア』
パルテノン神殿に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
ベルシア戦争で破壊された。
 b.
彫刻家のフェイデイアスが再建工事の総監督を務めた。
 c.
再建工事を命じたのはペリクレスである。
 d.
柱は優美なイオニア式である。
 e.
内部にはアテナ女神像が安置されていた。
自然哲学に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
前6世紀にミレトスを中心に起こった。
 b.
ピタゴラスは万物の根源は数であるとした。
 c.
タレスは万物の根源は水で、あるとした。
 d.
デモクリトスは原子論をとなえた。
 e.
ヘラクレイトスは「人聞が万物の尺度」だとした。
アリストテレスに関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
アカデメイアで学んだ。
 b.
哲人政治を理想とする『国家論』を著した。
 c.
アレクサンドロスの教育を任された。
 d.
リュケイオンを設立した。
 e.
イスラームや中世ヨーロッパの哲学や神学に影響を与えた。
ヘレニズム時代の文化に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
アリスタルコスは地球の周囲の長さを計測した。
 b.
「ラオコーン」に代表されるヘレニズム美術はガンダーラ美術にも影響を与えた。
 c.
コイネーと呼ばれるギリシア語が共通語となって普及した。
 d.
アレクサンドリアにムセイオンという研究施設がつくられた。
 e.
エウクレイデスは『幾何学原本』を著し、平面幾何学を大成した。
ストア派の哲学者でないのはだれか。 
a.ゼノン    b.プロティノス   c.エピクテトス   d.セネカ
e.マルクス=アウレリウス=アントニヌス
解答

 解 説

イ.a.アナクレオンAnacreon紀元前570年頃生)は、古代ギリシア抒情詩人である。酒飲みと頌歌で著名。後に9歌唱詩人に加えられる。アテネの僭主ヒッパルコスの庇護の下、軽快な酒と愛の歌を綴った。

Arte romana, testa di anacreonte, 130-140 dc. ca. 02.JPG

アナクレオン

d.ピンダロスPindaros)

前518年頃~前438年頃。古代ギリシアの詩人。オリンピックの祝勝歌(epinikia)が多い事で知られる。テーベ(テーバイ)の近くの出身。2004年のアテネオリンピックでは表彰メダルの表に彼の祝勝歌が公式に採用され彫りこまれている。Pindar Musei Capitolini MC586.jpg

ピンダロス

c.プロタゴラス  

「人間は万物の尺度である」という言葉で知られ、相対主義を唱えた人物の一人として有名である。人間それぞれが尺度であるから、相反する言論が成り立つのである。

こうした主張からソフィストは詭弁を用いて黒を白と言いくるめる、とみなされるようになった。一方で、ルネサンスが人間を尺度とする復興であったことから、尺度の基準は人間であると主張したギリシア哲学西洋哲学におけるソフィストの存在を軽視してはならないことが分かる。

晩酌は人 プロソフト。

「万物の尺度は人間」プロタゴラス 相対主義 ソフィスト 

e.アテナイのプラクシテレスPraxiteles)は大ケフィソドトスの子で、紀元前4世紀の最も有名なアッティカ彫刻家

ロ.

b.ガレノス129年頃 - 200年頃)は、ローマ帝国時代のギリシア医学者。臨床医としての経験と多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした。彼の学説はその後ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなった。〈ガ〉

d.エウリピデス 

前5世紀 三大悲劇詩人が活躍。

愛崇め、双方おいで 絵売り愛で。

アイスキュロス 『アガメムノン』  ソフォクレス 『オイディプス王』  エウリピデス 『メディア』

① 『農耕詩』はローマのウェルギリウスの作品。ヘシオドスは『労働と日々』。

兵士労働 飢え残し。

ヘシオドス 『労働と日々』ウェルギリウス 『農耕詩』

農耕詩

のうこうし

Georgica

ローマの詩人ウェルギリウスの教訓叙事詩。前 36~29年にカンパーニャで執筆。4巻から成り,第1巻は作物栽培と気象,第2巻は果樹,特にオリーブとぶどうの栽培,第3巻は家畜の飼育,第4巻は養蜂を扱い,アリスタイオス神話,オルフェウス神話を語るものとして有名。宮廷文学サークルのパトロンであったマエケナスの指示により,国土への愛と農事への尊敬の念を呼びさますために書いたといわれるが,少年期を田舎に過した作者の自然に対する深い愛情,田園生活の賛美,古人の簡素な生活と趣向への復帰を願う気持がこめられている。

② 三大悲劇作家の主要作品は覚えておく必要がある。アイスキュロスは『アガメムノン』・『縛られたプロメテウス〈〉〈〉』、ソフォクレスが『オイディプス王』、エウリピデスが『メディア』など。なお、『女の平和』は喜劇でアリストファネスの作品。『アエネイス』はローマの建国物語でウェルギリウスの作品。

③ パルテノン神殿はドーリア式の代表的な例。
④ ヘラクレイトスは「万物は流転する」と考えた。「人間は万物の尺度」はソフィストの代表的人物プロタゴラスの言葉。

晩酌は人 プロソフト。

「万物の尺度は人間」プロタゴラス 相対主義 ソフィスト 

⑤ 『国家論』はプラトンの主著。
⑥ アリスタルコスは地球の自転説。地球の周囲を計測したのはエラトステネス。

近代哲学…イギリスのフランシス=ベーコン帰納法〈induction〉による経験論を説き、フランスのデカルトは数学的演繹法〈deduction〉による合理論をうちたてた。

近代哲学 〈ベーコンとデカルト〉★★★
不便(ふべん)危険と デカ援護(えんご)
フランシス=ベーコン 帰納法 経験論 デカルト 演繹法 合理論

 

 

前6世紀 イオニアのミレトスを中心に自然哲学が発達。

水は垂れます 数ぴたり、流転ヘラっと 原子でも。

万物の根源は 「水」 タレース 「数」 ピタゴラス 「流転」 ヘラクレイトス 「原子」 デモクリトス

⑤ 
『国家論』はプラトンの主著。
⑥ 
アリスタルコスは地球の自転説。地球の周囲を計測したのはエラトステネス。 自転有りたる 周囲エラ。
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第1章・オリエントと地中海世界 ★★ ローマ帝政

2020-01-10 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2008 日大・法

【問】次の文章を読み、問1~問10に答えなさい。

 紀元前31年のアクティウムの海戦でアントニウス・(a).クレオパトラの連合軍を破ったオクタウィアヌスは、紀元前(  b  )年に元老院からアウグストゥスの称号を与えられるとともに、重要な国政上の権限を手に入れ、(c)帝政を開始した。その後1世紀の末から2世紀の末頃にかけて、(d)「五賢帝」とよばれる皇帝たちが出て政治は安定し、ローマ帝国は大きな繁栄をみた。帝政前半期には、帝国全域にわたって道路が建設され、 (e)都市文化が普及した。商業も発展し、 (f).東方との貿易も盛んにおこなわれた。こうした繁栄は、 2世紀の末頃からかげりを見せ始める。3世紀のはじめに(  g  )帝は帝国の全自由人に ローマ市民権を与えたが、これは帝国の社会構造が大きく変化したことを示すものであった。さらに(h)軍人皇帝の時代にはいると、大きな混乱が帝国をおそった。3世紀の末に即位したディオクレティアヌスは、(i)こうした混乱を収拾して国家の建て直しをはかった。続いてコンスタンティヌス帝も帝国の体制の強化につとめたが、(j)4世紀の後半には再び混乱が支配的となり、476年に西の帝国は消滅した。

問1 下線部(a)のクレオパトラは、どの王朝の女王であったか。次の1~4の中から一つ選びなさい。
1.プトレマイオス朝  2.アンティゴノス朝  3.アルサケス朝  4.セレウコス朝

問2 空欄( b)に該当する年を、次の1~4の中から一つ選びなさい。
1.29   2.27    3.25    4.23

問3 下線部(c)に関連して、次の1~3の文のうち、アウグストゥス(オクタウィアヌス)の帝政についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。
 1.
アウグストゥス(オクタウィアヌス)は、共和政時代の制度を尊重しながらも、さまざまな要職を兼任し、最高の権威をもって統治した。
 2.
アウグストゥス(オクタウィアヌス)は、プリンケプス(第一人者)と称したので、この体制をプリンキパトゥスとよぶ。
 3.
アウグストゥス(オクタウィアヌス)は、エジプトをも属州として支配し、地中海世界は以後約200年にわたって「ローマの平和」とよばれる平穏な時代を迎えた。
問4
 下線部(d)に関連して、次の1~3の文のうち、 「五賢帝」についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。
 1.
「五賢帝」とは、ネルウァに始まる5人の皇帝たちをいう。
 2.
「五賢帝」の一人トラヤヌスの時代に、ローマ帝国の領土は最大となった。
 3.
「五賢帝」の一人マルクス=アウレリウス=アントニヌスはストア派の哲学者でもあり、『国家論』を著した。
問5
 下線部(e)に関連して、次の1~3の文のうち、ローマ都市についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。
 1.
標準的なローマ都市は、水道、浴場などの公共施設を備えていた。
 2.
パリ、ロンドン、ウィーン、ベルリンなどは、この時代のローマ都市から発展した。
 3.
都市の貴族層は、ローマ市民権を与えられ、さらに帝国の支配層に上昇していくものもいた。

問6 下線部(f)に関連して、次の1~3の文のうち、この時代のローマ世界と東方との交流についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。
 1.
中国・東南アジア・インドから、絹や香辛料がもたらされた。
 2.
インド洋の季節風を利用した、紅海からイ ンドに至る航路が開拓され、 『エリュトゥラー海案内記』が書かれた。
 3.
2世紀に、大秦王の使者と称する者が中国に来航した。

問7 空欄(g)に該当する皇帝を、次の1~4の中から一人選びなさい。
1.カラカラ   2.ネロ   3.ハドリアヌス   4.ユリアヌス

問8 下線部(h)に関連して、次の1~3の文のうち、この時代の状況についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。

1.各地の軍団が次々に皇帝を立て、その皇帝たちの多くは短期間のうちに殺された。

2.ゲルマン人の侵入が相次ぎ、東方国境ではササン朝ペルシアの脅威が強まった。

3.戦争や疫病で人口が減少したため農民の地位が高まり、大土地所有者の所領は衰退した。

問9
 下線部(i)に関連して、次の1~4の文のうち、ディオクレティアヌスの政策についての記述として適切でないものを一つ選びなさい。
 1.
帝国を4つに分けて4人の皇帝が支配する四分統治(テトラルキア)制を採用した。
 2.
税制や軍制の改革につとめ、官吏と兵士の数を大幅に削減した。
 3.
皇帝権力の絶対化を進め、専制君主として支配した。
 4.
キリスト教徒に対する大迫害をおこなった。

問10
 下線部(j)に関連して、この時代に起こった次のa・b・Cの出来事を左から古い時代順に並べるとどのような順序になるか、下の1~6の中から一つ選びなさい。
 a.
キリスト教が国教とされた。
 b.
ローマ帝国が、最終的に東西に分割された。
 c.
ゲルマン人の大移動が始まった。

 1.a・b・c  2.a・c・b  3.b・a・c
 4.b・c・a  5.c・a・b  6.c・b・a

 
 

解 答 

10
 
問1. エジプトの〈プト
 
問2. 前27年 〈ローマ〉オクタヴィアヌス、元老院よりアウグストゥスの称号を受ける(~14年)。 

担う帝国 労多く。
27年 ローマ帝国成立 オクタヴィアヌス  

 
問4.『国家論』はプラトンかキケロにその名の著書がある。マルクス=アウレリウス=アントニヌスの著書は『自省録(Meditations)』。

前51年 キケロ、『国家論』。

強引聞け論 国家論。

51年 キケロ 『国家論』 ローマ


問5.ギリシア都市から発展。
 
問6 2.エリュトゥラー海は紅海のこと。

問7 

212 年〈ローマ〉カラカラ帝、帝国内全自由民にローマ市民権賦与。

ついに市民やあんたから。

212 年ローマ市民権アントニヌス法 カラカラ帝 

問8.軍人皇帝時代の混乱期を境に、コロナトゥス制が発達した。〈コウ〉。
 
3.

166 年  〈党錮の禁~169〉 李膺をはじめ百数十人が殺される。 

166年    〈大秦国王安敦の使者、日南郡に来る〉

一路ローマの 遠くから。

166  ローマ マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者 党錮の禁 桓帝

問8 2.

 

●イラン(ササン朝)

 260エデッサの戦い

The Battle of Edessa took place between the Roman Empire and Sassanian forces under Shapur I.

The Roman army was defeated and the Emperor Valerian was captured by the Persian forces.

踏む俺はシャー 捕らえてさ

260年 ウァレリアヌス シャープール1世 エデッサの戦い ササン朝  

226年にパルティイアを倒したササン朝ペルシアアルデシール1世は、勢いを増して小アジアに進出。260、2代の王、シャープール1世は東征してきたローマ軍にエデッサの戦いで勝利し、軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜にした。エデッサはユーフラテス川上流、現在のトルコの東部の地。以後ローマ帝国は僭称皇帝の乱立・領土の分裂などでその混迷を一層深めてゆくこととなる。

 問9 2だけトーンが違う。

 問10.a 392年 〈ローマ帝国〉キリスト教国教化。        

  Theodosius I issues an edict reinforcing the prohibition of prayers or sacrifices at non-Christian temples.

さぁ国のもの 手をどうぞ。

392年  国教化   テオドシウス帝

b.

395年 テオドシウス帝の死:2子アルカディウス・ホノリウスが分治安〈ローマ帝国東西分裂〉

裂くことにして ローマ分け。 

395  年      テオドシウス帝  ローマ帝国東西分裂

c.

375年 西ゴート族、フン族に圧迫され南下開始(ゲルマン大移動開始)。

皆来い逃げろ 西へゴー。

375年 ゲルマン大移動  西ゴート 

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第1章・オリエントと地中海世界 ★★ ローマの文化 

2020-01-09 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2007 駒澤大・文仏法他

【問】次の文章の(   )の中に入る最も適当な語句を下記の語群から選び、その記号をマークせよ。

 古代ギリシア人たちが神々との関係や哲学を重んじたのとは異なり、古代ローマ人たちは、帝国の領土拡大に伴う政治的支配体制上の必要性から、実学・実用文化を発展させた。その最も顕著な例がローマ法である。古くから使用されていた慣習法を紀元前450年頃に成文化した(  1  )が最古のものである。この(  1  )は、最初(  2  )のみを対象としていたが、ローマの領土拡大に伴い他民族の慣習法を取り入れつつ発展したことから、帝国内の全ての人民に適用される万民法となっていった。そして最終的に紀元後6世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌスの在位中、法学者(  3  )らによって『ローマ法大全』が編集された。その後、ローマ法はヨーロツパの中世・近代を通して現代にまで受け継がれている。またユリウス=カエサルが(  4  )の太陽暦を基に制定したユリウス暦から、現在の(  5  )が生み出され、ギリシア文字からローマ字が創られ、ローマ人たちの話した(  6  )は、中世以降、近代に至るまで学術語や教会の公用語として使用された。帝国内への(  6  )の普及に伴い文化も盛んになり、 『農耕詩』を著した(  7  )や『叙情詩集』を著した(  8  )、そして『愛の歌』を著した(  9  )らが活躍した。ギリシアを起源とする弁論術も発展し、ローマは『国家論』の著者でローマ最高の弁論家(  10  )を生み出した。歴史家としては(  11  )ゃ(  12  )が良く知られている。前者はアウグストゥスの厚遇を得て『ローマ建国史』を著し、後者はアウグストゥスからネロまでのローマの政治史を記述した『年代記』を著した。土木建築にも才能を発揮したローマ人たちは、市民の娯楽施設としての公共浴場、周囲に官庁や市場を持つ(  13  )と呼ばれる中央広場、そして(  14  )のような円形闘技場などの公共建造物を中心として、現代に匹敵するような都市文化を形成した。このような公共建造物はローマ帝国内各地においても建設され、各々の都市は小ローマの観を呈した。またそれら地方都市とローマとを結ぶ大規模な土木工事が実施された。石で舗装されたローマ最古の軍道であるアッピア街道は、全長540キロメートルにも及び、南フランスのニーム近郊にある石造りの(  15  )は、全長約270メートル、高さが約50メートルで三層アーチからなる巨大なものである。

〔語群〕
 あ.ローマ市民     い.タミル語      う.ヒジュラ暦       え.アゴラ
 お.パルテノン     か.セゴビア水道橋   き.ヴェルギリウス     く.トリボニアヌス
 け.属州民       こ.へロドトス     さ.ホラティウス      し.ガール水道橋
 す.ホルテンシウス法  せ.オヴィディウス   そ.リキニウス・セクスティウス法
 た.セネカ       ち.コロッセウム    つ.タキトゥス       て.エジプト
 と.ペルシア      な.十二表法      に.ディオクレティアヌス  ぬ.プリニウス
 ね.エピクテトス    の.プルタルコス    は.ラテン語        ひ.パンテオン
 ふ.リヴィウス     へ.キケロ       ほ.凱旋門         ま.グレゴリウス暦
 み.フォルム
 

解 答 

10
11 12 13 14 15
 

 
解説 1. 
  • ●ローマ(共和政)

 451 〈十二表法の制定〉★★

The first ten codes of the Roman Law of the Twelve Tables are completed by the first Decemvirate.

横(よこ)一列に 十二表。

    前451年    十二表法 平等化の第一歩

 

ローマでは公職はパトリキ(貴族《〈〉と〈〉で尻取り!》)により独占されていたため、次第にプレブス(平民《〈plebs〉の〈ple〉は「平ら」の意。》)は不満を募らせた。前494年、プレブスはパトリキの譲歩を勝ち取り、護民官、続いて平民会の設置を認めさせた。そして前451年、旧来の慣習法が明文化され、12枚の板で公示された十二表法が制定され、貴族に対する平民の法的平等化の第一歩となった。十二表法は、最初ローマ市民のみを対象としていたが、領土拡大に伴い他民族の慣習法を取り入れつつ発展したことから、帝国内の全ての人民に適用される万民法となっていった。


7.『農耕詩』はローマのウェルギリウスの作品。

兵士労働 飢え残し。

ヘシオドス 『労働と日々』 ウェルギリウス『農耕詩』

農耕詩
のうこうし
Georgica

ローマの詩人ウェルギリウスの教訓叙事詩。前 36~29年にカンパーニャで執筆。4巻から成り,第1巻は作物栽培と気象,第2巻は果樹,特にオリーブとぶどうの栽培,第3巻は家畜の飼育,第4巻は養蜂を扱い,アリスタイオス神話,オルフェウス神話を語るものとして有名。宮廷文学サークルのパトロンであったマエケナスの指示により,国土への愛と農事への尊敬の念を呼びさますために書いたといわれるが,少年期を田舎に過した作者の自然に対する深い愛情,田園生活の賛美,古人の簡素な生活と趣向への復帰を願う気持がこめられている。

 〈オヴィディウス、『愛の歌』を著す〉

 Ovidius was a Roman poet best known for the Metamorphoses and for collections of love poetry in elegiac couplets, especially the Amores and Ars Amatoria

叙情を帯(お)びて 愛の歌。

叙情詩人 オヴィディウス    『愛の歌』

 

ヴェルギリウス、ホラティウスとともに三大ラテン詩人に数えられる、ローマ帝政初期の叙情詩人オヴィディウスは軽妙な作品で名声を得たが、露骨な性的描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、黒海沿岸の僻地へ流されて客死した。代表作は『愛の歌』『転身譜(メタモルフォセス)』など。

10.

前51年 キケロ『国家論』。

強引聞け論 国家論。

前51年 キケロ『国家論』 ローマ

12.『ゲルマニア』が有名なタキトゥスであるが、『年代記』も「」「」に着目して覚えよう。
 
13.アゴラはギリシアのアクロポリスの麓にあった公共広場。Forumのrとmでローマ。

15.ニームにアーチはガール。
 
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第2章1節・インドの古典文明 ★ インドの古代文明 

2020-01-08 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2011 関西学院大学(経他)

【問】次の文中の(   )に最も適当な語を語群から選び、また下線部に関する問いに答え、最も適当な記号1つをマークしなさい。

インド亜大陸の各地には旧石器文化、新石器文化の遺跡が残されている。最も早くこの地に住みついたのは、中部・東部の丘陵地帯に分布するオーストロアジア語系の諸民族とされる。その後西方から①.ドラヴイダ系の民族が到来し、居住域を広げていき、紀元前2300年頃、ハラッパーなどの遺跡で知られる青銅器時代の②.都市文明が興った。インド=ヨーロッパ語系の言語を話す③.アーリヤ人の一分派は、この文明が衰退した後の前1500年頃から、徐々にパンジャーブ地方に移住した。その後、前6~前5世紀にはヒンドゥーの古代国家が( イ )中流域で形成された。そのなかでマガダ国が最も有力で、その国家体制を完成させたのが⑤.マウリヤ朝の統一国家である。それ以後はグプタ朝など強大な王国が時にインドの一部を支配したが、分裂の時代が長く続いた。また13世紀初頭には( ロ )の成立によってイスラームの進出が本格化した。

 スリランカに( ハ )が建てられたのは前5世紀頃とされている。前3世紀に仏教が伝えられ、王をはじめ有力者が帰依した。現在も東南アジアなどで盛んな( ニ )の源流である。

〔語群〕
イ.a.ガンジス川  b.チャオプラヤ川 c.メコン川   d.ティグリス川

ロ.a.ロデイー朝  b.サイイド朝   c.奴隷王朝   d.サーマーン朝

ハ.a.ヴァルダナ朝 b.チョーラ朝   c.チャンデーラ王国 d.シンハラ王国

ニ.a.バラモン教  b.上座部仏教   c.シク教      d.大乗仏教

〔設問〕
①  ドラヴイダ系の民族に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
タミル語は、ドラヴイダ系の言語である。
 b.
ドラヴイダ系のサータヴァーハナ朝は、ローマ世界との交易で栄えた。
 c.
ドラヴイダ系の人々の間で、仏教に帰依するバクティー運動が広がった。
 d.
現在は主にインド南部に居住している。

②  この都市文明に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 
a.メソポタミア文明との交流があったとされている。

b.都市の内外には巨大な宮殿や王墓がつくられた。

c.ろくろでつくられた彩文土器が使用された。

d.象形文字の刻まれた印章を用いた。
アーリヤ人に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
馬と戦車を使用していた。
 b.
シヴァ神を唯一神として信仰していた。
 c.
アーリヤとは「高貴な」という意味である。
 d.
『リグ=ヴェーダ』は神への賛歌集である。
マガダ国に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
『ラーマーヤナ』はマガダ国の王子を主人公とする叙事詩である。
 b.
ガウタマ=シッダールタはマガダ国で悟りを得た。
 c.
マガダ国でジャイナ教が生まれた。
 d.
前5世紀にコーサラ国を併合した。
マウリヤ朝に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
創始者はチャンドラグプタである。
 b.
アレクサンドロス大王が西北インドに侵入した後に建てられた。
 c.
アショーカ王の時代に仏典結集が行われた。
 d.
プルシャプラ(ベシャーワル)を都とした。
グプタ朝に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
チャンドラグプタ1世の時代に最盛期を迎えた。
 b.
宮廷詩人のカーリダーサが活躍した。
 c.
アジャンタ一石窟寺院の壁画は、グプタ美術の代表とされる。
 d.
中央アジアの遊牧民エフタルに攻撃されて衰退した。
 

解 答 

〔設問〕

解 説: 

〔設問〕

ロ.

1206年 アイバク、北インドを統一し奴隷王朝をたてる(~90):デリー=スルタン朝の始まり(~1526年)

市にお迎え 奴隷です。

1206 奴隷王朝 イスラーム王朝 デリー=スルタン朝の始まり

ハ さ(前3世紀)し(小乗仏教伝来)す(スリランカ)せ(セイロン島)
バクティ運動はヒンドゥー教の側からの仏教・ジャイナ教攻撃。

バグって酷い ぶっちゃいな。

バクティ運動 ヒンドゥー教 仏教・ジャイナ教 7世紀

② インダス文明の遺跡には今のところ宮殿跡や王墓は発見されていない。

住居跡から彩文土器が発見されている。

アーリヤ人の信仰は原始的な多神教。シヴァ神は後のヒンドゥー教の主神のひとつ、破壊の神。
『ラーマーヤナ』の主人公ラーマはコーサラ国の王子。〈-〉と〈コーサラ-ラーマーヤナ〉で。
マウリヤ朝の都はガンジス流域のパータリプトラ。プルシャプラはクシャーナ朝などの都でガンダーラ地方。
チャンドラグプタ2世が全盛期。よく見かける引っかけ問題なので要注意。
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第3章3節 中国の古代文明 ★★ 中国文明~春秋時代 

2020-01-07 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2009 福井大学

 【問】次の文をよく読んで、下記の設問に答えなさい。

 東アジアは、日本列島を含む、中国とその周辺の朝鮮半島・ベトナム北部などからなる地域である。この地域は、西方を砂漠や山脈でさえぎられており、そのうちの中国では、独自で高度な文明を数千年にわたって途切れることなく発展させてきた。黄河文明が形成された北部の華北では、雨量が少なく、( 1 )などの乾燥地作物が早くから栽培されてきた。また、( 2 )とよばれる長江(揚子江)流域の華中とその南の華南及び島|興部は、ともに比較的温暖で雨量が多く、( 3 )が発展した。朝鮮半島・日本・ベトナム北部などの周辺地域でも、中国農耕文化の影響をうけながら独自の文化が成立し、発展した。また、中国文化は、早くから内陸アジアの諸民族の遊牧文化と交流し、さらにはオアシスの道・( 4 )・海の道を通じて、西方の異質の文化とも接触した。オアシスの道は、のちに( 5 )と呼ばれた。

 具体的にみてみると黄河中流域に住みついた人びとは前5000~前4000年ころ、豚・犬・鶏を家畜とし、( 1 )など雑穀を中心とする農耕文化を発達させた。素焼きの淡紅色の土器面に赤・白・黒などで文様をほどこした( 6 )を使用していたこの文化は、( 7 )と呼ばれる。その後下流域では、(ア)技術のすすんだ( 8 )がさかんにつくられるようになり、そのほかに灰陶もあらわれた。特徴的な器形として、 3本足の鼎や鬲などの( 9 )があり、その形状はのちの青銅器に影響をあたえた。

 ( 8 )や灰陶が使用されていた文化を( 10 )という。前2000~前1500年ころのことである。( 10 )の終わりのころになると黄河の中・下流域にまわりを高くて厚い土の壁で防禦した多くの集落(邑)が生まれた。やがて前16世紀ごろ、これら多くの邑を支配する殷(商)王朝が出現した。その後期を代表する遺跡が( 11 )である。 ( 11 )からは、大型の建築跡や巨大な王墓をはじめ、亀甲・獣骨にきざまれた( 12 )などが発見されている。これによると殷代では、典型的な(イ)神権政治がおこなわれていたことが知られる。

 ( 13 )世紀ごろになると、西方にあって殷に服属していた邑のひとつ、周が殷を滅ぼして都を( 14 )においた。周王は、一族や功臣を諸候に任命してその地をおさめさせ、かわりに貢納と軍役の義務を課した。王や諸侯のもとには、卿・大夫・士とよばれる家臣団がいて、卿や大夫には邑があたえられた。(ウ)このような政治制度を周の封建制とよぶ。周は、王一族の争いと周辺民族の侵入によって、前770年に都を東の( 15 )に遷した。東遷以前を西周、以後を東周とよび、また東周の前半を(エ)春秋時代、後半を(オ)戦国時代という。

設問1  文中の括弧( 1 )~( 15 )に適当な語句を記入しなさい。
設問2 下線部(ア)に関して、( 8 )は( 6 )と比べてどのように技術がすすんでいたか、二つ挙げなさい。
設問3  下線部(イ)に関して、神権政治を説明しなさい。
設問4
下線部(ウ)に関して、西洋中世の「封建制度」(フューダリズム)との違いを簡潔にのべなさい。
設問5
下線部(エ)に関して、この時代名の由来について記しなさい。
設問6
下線部(オ)に関して、戦国の七雄とは何か、説明しなさい。

解 答 

問1

アワ 江南 稲作 草原の道 絹の道
彩文土器 仰韶文化 黒陶 三足土器 10 竜山文化
11 殷墟 12 甲骨文字 13 前11世紀 14 鎬京 15 洛邑

※別解:1:ひえ、キビ  5:シルクロード  6:彩陶

問2 ろくろの使用。1000度以上の高温での焼成。
問3 農事・軍事などの決定にあたって卜辞による神の意志に従うなど、王の宗教的な権威によって行われる、祭政一致の政治。
問4 西洋の封建制度の土地を仲立ちとする主従関係は個人間の関係で双務的であるが、周の封建制は宗法によって結ばれた血縁集団である宗族間の関係が基本である。
問5 孔子が編纂したとされる魯の国の年代記『春秋』に由来する。
問6 戦国時代に独立した教国となった、韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦の七ヵ国を言う。

 

4.「草原の道 オアシスの道」の画像検索結果

 

7.仰韶文化 8.黒陶

 故郷採用三流コック。

紀元前5千年紀 仰韶文化 彩陶 紀元前3千年紀 竜山文化 黒陶

9.▼三足土器

「三 足 土器 鬲」の画像検索結果

 

10.竜山文化 13.前11世紀 ※  文字形利用記憶法  「」の字にある〈〉は「」と「」。

前1027 年  殷の紂王、牧野の戦いで周の武王に敗死し、殷滅亡。

 威を担う僕 周武王。
   前1027年 牧野の戦い 周 武王

 14.鎬京 ※  同音利用暗記記憶法  「」は「口径」→「鎬京」。15.洛邑

 

▲c.渭水 e.仰韶 ◎m.鎬京 ◎n.洛邑 ●iは竜山 ◎kは殷墟

問2.黒陶だけにくろを使用している。轆轤でコクと鮮度増す。

問3.農事・軍事などの決定にあたって卜辞による神の意志に従うなど、王の宗教的な権威によって行われる、祭政一致の政治。

問4※ 「」だけに「族間の関係」が基本!

▼彩文土器

彩文土器

▼彩陶

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第2章1節  インドの古典文明 / 総合・仏教と古代インドの宗教 ★★ インドの仏教 

2020-01-03 | 入試問題+ゴロ合わせ
2009 中央大学(法・国際企業関係法)

【問】つぎの文章(A~C)は、古代インドにおける仏教の歴史について述べたものである。よく読んで、下記の設問に答えなさい。なお、漢字は正確に書くこと。

A.世界の3大宗教のひとつと称される仏教は、(  1  )族のカピラ国の王子ガウタマ=シッダールタの教説に基づくものである。王子が生まれた時代のインドには、支配的な宗教として、すでにバラモン教が存在していた。バラモン教はイラン高原からインドの地へ侵入して、先住民族を征服したアーリヤ人の社会のなかで誕生した宗教である。バラモンとは、(a).ヴァルナ制の最上位に当たる司祭階層の名称であり、そしてバラモン教とは自然現象のうちにひそむ力を、太陽神・火神・雷神などと神格化して崇拝する宗教だった。仏教が登場する以前のインドの社会において、前6世紀ごろまで何世紀にもおよんだ時代を、このバラモン教の聖典の名にちなんで(  2  )時代と呼ぶ。

 のちに仏教として体系化されていくガウタマ=シッダールタの新しい教えはこの(b).バラモン教に対する批判という側面をもっていた。バラモン教にとって重要だった複雑な祭式と動物の供犠を、さらにはバラモン教の根底にあるヴァルナ制をガウタマ=シッダールタは否定し、すべての人の平等、すべての生き物への慈悲を唱えた。より具体的には、正見・正思・正語などを含む教えである(  3  )の実践と、生老病死からの脱却を説いた。この教えはおもに武士や貴族の階級の支持を獲得して、(  4  )川の中流域に栄えたマガダ国に保護された。また前6世紀には、極端な不殺生主義を唱え、そして仏教と同様にヴァルナ制を否定する宗教(c).ジャイナ教も誕生しこちらは商人階級に多くの支持者を見出した。

B.インド最初の統一王朝マウリヤ朝は前3世紀中ごろ第3代アショーカ王のときに最盛期を迎える。アショーカ王は即位後8年に、デカン東北部の(  5  )国を征服したさい多くの犠牲者を出したことから、仏教に帰依するようになった。王は各地に、仏舎利を納める建造物(  6  )を建立し、仏教の保護と布教にも努めた。とりわけ、王子マヒンダを遣わしたという伝説もあるスリランカへの布教は大きな成功をおさめた。これ以降、この地に伝えられた上座部仏教と呼ばれる部派は、東南アジア方面へ伝わっていき今日に至っているが、その伝達経路から南伝仏教とも呼ばれている。

 マウリヤ朝はアショーカ王の没後には弱体化し、前180年ごろには滅亡する。その後、西北インドには、ギリシア系の王国(  7  )が進出し、ヘレニズム文化を伝えた。つづいて(  8  )族というイラン系遊牧民が侵入し、紀元後1世紀になると、新たにこの地に侵入してきたクシャーナ族による王朝が成立した。2世紀中ごろクシャーナ朝の最盛期を築いたカニシカ王は仏教にたいして手厚い保護をおこなった。しかし、この時代の仏教には、アショーカ王の時代のものとくらべて大きな2つの相違点が存在している。第1に、クシャーナ朝で主流となったのは(d).大乗仏教と呼ばれる新しい仏教だった。大乗とは「大きな乗り物Jという意味であり、この新しい仏教は、修行による自己救済にとどまらず、(  9  )信仰を中心として、すべての人間の救済を目ざすものだった。第2にヘレニズム文化の影響から、さかんに仏像が造られ、信仰されるようになった。このギリシア的要素の濃い仏教美術はガンダーラ美術と称される。そして、このような新しい仏教は、その美術とともに、中央アジアを経由して中国や日本にまで伝えられたためスリランカ経由の仏教と対比して北伝仏教と呼ばれている。

C.クシャーナ朝は3世紀には滅びるが、4世紀にはグプタ朝が新たに成立した。このグプタ朝時代のもっとも重要な出来事のひとつとしては(e)ヒンドゥー教がインドの社会に定着したことをあげなければならないが、しかし、この時代に仏教はただちに衰退したわけではない。まず仏教美術の領域では、ギリシアの影響を脱した、優美なグプタ様式と呼ばれる純インド風の芸術が出現し、この時代はインド古典文化の黄金時代とも称される。また仏教の教理の研究もさかんにおこなわれていた。グプタ朝最盛期の王チャンドラグプタ2世の時代には(f)法顕がインドを訪れている。5世紀にはナーランダー僧院が建立されて、仏教研究の中心地として発達した。グプタ朝そのものは、6世紀の半ばには、騎馬遊牧民(  10  )の侵入によって衰微し滅びることになるが、ナーランダー僧院はその後も存続し、7世紀にインドを訪れた玄奘や(g).義浄もこの地で学んだ。

 そして7世紀後半には大乗仏教の一流派として(  11  )が成立した。この呪術的で、神秘的な色彩の濃い仏教のうちにはヒンドゥー教からの影響を見ることもできるが、この流派はのちに唐を経由して、9世紀に最澄と空海によって日本にも本格的に伝えられることになる。しかし、こうした繁栄ののち、仏教は急速にインドの地では衰微していく。7世紀ころから、南インドでは、仏教やジャイナ教を否定し、ヒンドゥー教の神々への絶対的な帰依を唱える(  12  )運動と呼ばれる宗教活動がさかんになった。農民社会のなかに定着できなかった仏教とは異なり、ヒンドゥー教は確実にインドの民衆のあいだに定着していったのである。仏教は、 8世紀から12世紀のあいだべンガル地方を支配した(  13  )朝のもとで保護されて、最後の繁栄をみせるが、その後はインドでは衰え、影響力を失った。

設問
1 空欄(1 ~13)に入るもっとも適切な語句を答えなさい。

2 下線部(a)について。ヴァルナは、アーリヤ人が定住した当初、 4つの基本的身分によって構成されていたが、バラモン以下の残りの3つを、身分の高い順に答えなさい。

3  下線部(b)について。この時代、バラモン教に対しては内部からの改革運動も発生した。この改革運動に関して述べた記述のうち正しいものはどれか。1つ選んで記号で答えなさい。
  あ.
カルマによって決定されている輪廻からの解脱を説いた。
  い.
この世界をアフラ=マズダとアーリマンとの闘争であると説明した。
  う.
仏教やジャイナ教に対抗して、祭式至上主義の徹底を目指した。
  え.
ブラフマンとアートマンを主神として崇めることを説いた。
  お.
運動の中心的役割を果たした人物の名前からウパニシャツド哲学と呼ばれている。
下線部(c)について。この宗教の開祖は誰か。その名前を答えなさい。
下線部(d)について。『中論』を著して、大乗仏教の理論の確立に寄与した人物は誰か。その名前を答えなさい。
下線部(e)について。ヒンドゥー教に関して述べた記述のうち正しいものはどれか。1つ選んで記号で答えなさい。
  あ.
ヒンドゥー教の戒律集マヌ法典はチャンドラグプタ2世の命により編纂された。
  い.
シヴァ・ヴイシュヌ・ブラフマーを3大主神とする多神教だった。
  う.
ジャワ島のシャイレンドラ朝はヒンドゥー教の王国だった。
  え.
中国では祅教と呼ばれ、寺院も建設された。
  お.
マハーバーラタjは
ヒンドゥー教の開祖の生涯を描いた叙事詩である。
下線部(f)について。法顕は中国の何という王朝の僧か。その王朝名を答えなさい。
下線部(g)について。義浄が残した旅行記を何というか。その題名を答えなさい。

解 答 

設問1

シャカ ヴェーダ 八正道 ガンジス カリンガ
10
ストゥーパ バクトリア サカ 菩薩 エフタル
11 12 13  
密教 バクティ パーラ  

設問2~8

クシャトリヤ  ヴァイシャ  シュードラ  あ  ヴァルダマーナ
ナーガルジュナ(竜樹)  い  東晋 南海寄帰内法伝

解 説: 

設問1・八正道

お釈迦さまが発見された、人生の苦しみから解放され、心を安らいだ状態に保つ、8つの方法を
『八正道(はっしょうどう)』といいます。
1.「正見」 しょうけん  正しいものの見方をすること
 
2.「正思」 しょうし 正しく思うこと
  (正しい心を保つことを心がけること)
 
3.「正語」 しょうご
  正しく言葉を使うこと
 
4.「正業」 しょうごう
  正しい行いをして、戒律(かいりつ)を守ること
 
5.「正命」 しょうみょう
  正しい生活をすること
 
6.「正精進」 しょうしょうじん
  正しく努力、修行すること
 
7.「正念」 しょうねん
  正しく教えを覚えて念じること
 
8.「正定」 しょうじょう
  正しく瞑想(坐禅)ができるようになること

「検視後・ごう・みょ  諸事・ねん・じょう」

設問1・5:カリンガ国は前3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王に征服された、デカン高原東北にあった国。この時の大殺戮を反省したアショーカ王が仏教に帰依することとなったといわれている。「借りがある国」というわけだ。

設問1・8:サカ族は前1世紀ごろ、大月氏に追われて中央アジアからインド北西部に移動したイラン系民族。次のクシャーナ族に服属した。サカはシャカともいい、漢字で釈とも書くが釈迦(ブッダ)とは関係がない。

設問1・9:ぼさっとしてて 大丈夫?

設問1・13:パーラ朝は8~12世紀にベンガル地方に存在したインドの王朝で、仏教を最後に保護したことで知られる。

750年パーラ朝

なぁこれ最後 パーラ朝。

750年 最後に仏教を保護 パーラ朝

設問2.2:バラクシャ ヴァイシュ。
設問1・12 7世紀頃に南インドに始まり、16世紀までに全インドに広がった、ヒンドゥー教による、ジャイナ教と仏教を排除し、インド古来の神々(シヴァ神やヴィシュヌ神など)への信仰を復興させようという民衆の宗教運動。バクティとは最高神への帰依をさす言葉で「信愛」ないし「誠信」と訳される。

バグって酷い ぶっちゃいな。
 バクティ信仰 ヒンドゥー教に帰依  仏教・ジャイナ教を排除
設問2・4 威張る旦那は死んじゃいな。
設問5.ベック式!ナーガールジュナの覚え方
 
設問6.ヒンドゥー教三大主神の覚え方
う.ボロブドゥールを意識すれば仏教国だとわかる。
設問8.691年 唐の義浄、『南海寄帰内法伝』なる。

報いる義浄 何か聞き。

691年 唐の義浄、『南海寄帰内法伝』

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第5章1節 イスラーム帝国の成立 / 総合・イスラーム教史 ★★ アラブ人とイスラーム教 

2020-01-02 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2009 中央大学(法・国際企業関係法)

【問】つぎの文章(A~D)はアラブ人とイスラーム教の歴史について述べたものである。よく読んで、下記の設問に答えなさい。なお、漢字は正確に書くこと。。

A.イスラーム教はメッカのアラブ人商人であったムハンマドにより7世紀初めに創始された。アラブ人はアツカド人やヘブライ人と同じ(  1  )語系の言語を使用する民族で、諸部族に分かれてアラビア半島に居住していた。彼らは主に隊商による交易活動を営んでおり、その一部はイラン方面や地中海沿岸へも進出していた。

6世紀、ササン朝とビザンツ帝国のあいだで戦争が続き、中国・インドと西域を結ぶ貿易ルートが遮断された。その結果、東西貿易の多くがアラビア半島を経由するようになり、アラブ人商人たちに莫大な利益をもたらした。ムハンマドは商人による富の独占を批判し、(a).唯一神アッラーへの絶対的服従により生活を律するよう説いた。ムハンマドは迫害され、一時(b)メッカからメデイナに移住したが、ここで多くのアラブ人たちの信仰をあつめ 630年にはメッカに帰還した。

B.ムハンマドの死後彼の後継者の下でアラブ人たちは周辺地域への聖戦を開始した。彼らはササン朝を滅ぼし、ビザンツ帝国からはシリア・エジプトを奪取、これらの地域に征服者として移住した。661年、(c)4代目後継者アリーの暗殺を機に、シリア総督だった(  2  )が実権を握りダマスクスを拠点としてイスラーム圏の指導者となった。彼が開いたウマイヤ朝は北アフリカからイベリア半島へと征服地を拡大したが、750年にムハンマドの叔父の子孫(d).アッバース家により倒された。アッバース朝は新首都バグダードを建設し、東はインダス川から西はモロッコに至る大帝国となった。イスラーム教の聖典である『コーラン』はアラビア語で記されており、イスラーム教に改宗した被征服民の多くは(イラン人などを除き)しだいにアラビア語を話すアラブ人たちに同化していった。

C.10世紀になるとアッバース朝は弱体化する。946年、東部でイラン人軍人が興した(  3  )朝がバグダードに入り、アッバース家から統治権を奪った。アラビア半島東部のアラブ人たちは(e)異民族であるイラン人の支配を嫌い、その統治からしだいに離脱した。11世紀になると中央アジアでトルコ人たちが興したセルジューク朝が(  3  )朝を滅ぼしアッバース家から(  4  )の称号を得てバグダードの統治者となった。セルジューク朝は小アジアに進出して強大化したが、(f)十字軍との戦闘で疲弊し、やがて分裂・滅亡した。アッバース朝は1258年モンゴル軍のバグダード襲来により滅亡した。このときトルコ系のマムルーク朝がシリアでモンゴル軍を撃退し、アッバース家を首都(  5  )に迎えて(  4  )の称号を得た。これ以降、マムルーク朝はメッカ・メデイナの庇護者となったが、アラビア半島の多くのアラブ人たちは(g)異民族であるトルコ人の支配を嫌いトルコ系王朝の統治下に入らなかった。

D.バグダードの支配者はその後、モンゴル人から中央アジアのティムール朝へ16世紀初めにはイラン人王朝のサファヴイ一朝へ、さらに(h)トルコ人が興したオスマン帝国へと移り代わった。13世紀末に小アジアで勃興したオスマン帝国は、 16世紀になるとシリアへ進出してバグダードやイラク南部を奪取、またマムルーク朝も滅ぼしてメッカ・メデイナの保護権を獲得した。オスマン帝国はアラブ入居住域の大部分を支配するに至ったが、アラビア半島の完全な支配はできなかった。18世紀になると、そのアラビア半島で(i)反トルコ・反イランを旨とするイスラーム改革運動が起こる。この運動の最中、サウード家を中心とする(  6  )王国が建設され、メッカとメデイナをオスマン帝国から奪った。これに触発されて、トルコ人支配下のアラブ人たちのあいだには独立の動きが高まった。オスマン帝国は徐々に弱体化し1922年には滅亡するが、これと相前後してアラブ人たちは千年に及ぶ異民族支配からパレスチナを除き独立することになる。

設問
1 空欄(1~6)に入るもっとも適切な語句を答えなさい。

2  下線部(a)について。イスラーム教徒には六信五行が課されているが、この内容として正しくないのはつぎのうちどれか。答えは1つであるとは限らない 
 
あ.天使を信ずる い.来世を信ずる う.聖戦をする え.断食をする お.喜捨をする か.多くの妻を妻る(一夫多妻)

3 下線部(b)のメッカとメデイナ、そしてイェルサレムがイスラーム教の三大聖地となっている。イェルサレムと縁が深いユダヤ教徒たちとキリスト教徒たちは、イスラーム教では何と呼ばれるか。その名称を答えなさい。
 
4 下線部(c)のアリーとその子孫のみがムハンマドの正統の後継者である、とするイスラーム教の宗派は何派と呼ばれるか。その名称を答えなさい。また、この宗派が国民の多数を占める現代国家をつぎの中から1つ選んで記号で答えなさい。
 あ.サウジアラビア   い.エジプト   う.イラン   え.シリア   お.トルコ

5 下線部(d)について。アラブ人優遇政策をとるウマイヤ朝への不満が、あらゆるイスラーム教徒を平等に扱うアッバース朝の誕生につながった。アッバース家によるウマイヤ朝打倒運動の拠点となったイラン北東部の地方は何と呼ばれるか。その地方名を答えなさい。

6 下線部(e)について。イラン人が話すペルシア語は何語族に属するか。その名称を答えなさい。また、つぎの言語のうち、イラン人と同じ語族に属する民族を1つ選んで記号で答えなさい。 
あ.アッシリア人 い.フェニキア人 う.アムル人 え.ドラヴイダ人 お.ギリシア人
 
7 下根部(f)の十字軍は、アラビア文化が本格的にヨーロッパに伝えられる契機の1つとなった。この文化の伝播は紙という媒体を通して可能になったが、紙がイスラーム圏にもたらされたきっかけはアラブ人たちが8世紀に起こしたある戦いである。その戦いの名称を答えなさい。また、その戦いはアラブ人たちとどの国とのあいだで発生したか。その国名を答えなさい。
下線部(g)について。トルコ語は何語族に属するか。その名称を答えなさい。また、つぎの言語のうち、トルコ語と同じ語族に属さないのはどれか、1つ選んで記号で答えなさい。
 あ.モンゴル語   い.ウイグル語   う.ソグド語   え.キルギス語   お.満州語
下線部(i)の改革運動は、 10世紀以降とりわけイラン人たちに広まった神との内的な一体感を求める考え方を排撃した。この考え方は求道者が羊毛で作った粗末な衣服をまとっていたことにちなむ名称で呼ばれる。その名称を答えなさい。
10
下線部(h)のオスマン帝国など、 10世紀以降のイスラーム圏王朝では、軍人に土地の徴税権を与え、各人の俸給に相当する額を直接、農民や都市民から徴税させる制度(イクター制)が広く採用されていた。オスマン帝国で騎士階級に与えられた土地の徴税権は何と呼ばれたか。その名称を答えなさい。

解 答 

設問1

セム ムアーウィア ブワイフ スルタン カイロ ワッハーブ

設問2~10

う・か 啓典の民 シーア派・う ホラーサーン地方 インド-ヨーロッパ語族・お
10
タラス河畔の戦い・唐 アルタイ語族・う スーフィズム ティマール

解 説

設問1.1.セム語系の言語を使用する民族は、バビロニア人、アラブ人、アッシリア人、アツカド人、フェニキア人など、「ア」の付く民族が圧倒的に多い。

設問1・2

661年  〈ウマイヤ朝〉

無論言うまい騙し討ち。

661年 ムアーウィア ウマイヤ朝 ダマスカス

3

946   〈ブワイフ朝、バグダード入城〉

苦心、武は畏怖 アッバース       

   946年  シーア派  ブワイフ朝のバグダード入城イラン系 アッバース朝

 5 ホラーサーン地方 〈ホ〉北東、〈ラ〉と〈ン〉イラン


設問1 7

751   〈タラス河畔の戦い〉

なぁ来いったら 紙持って。

751年 アッバース朝 高仙芝 タラス河畔の戦い 製紙法の伝達

設問2・2

六信五行

イスラム教徒が信ずべき六つの信条と、実行すべき五つの義務。六信とはアッラー天使啓典預言者来世・予定、五行とは信仰告白礼拝サラート)・喜捨ザカート)・断食サウム)・巡礼(ハッジ)をいう。五行六信

 受信綺麗だ 五行見た。

巡礼 信仰告白 喜捨 礼拝 断食 五行

設問6.イランはインド-ヨーロッパ語族。「」「

設問8.う.ソグド語は、インド=ヨーロッパ語に属する。ソグド人もインド=ヨーロッパ語族のイラン系の民族。

設問9.スーフィズム スース―する服

 設問10 ブセイクビザプ 押すティマる。

ブワイフ朝・セルジューク朝 イクター制

         ビザンツ帝国 プロノイア制   オスマントルコ ティマール制

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