これってやはり化石? 私のライフスタイル!

ひともすなるブログなるものを、われもしてみむとてするなり

腸閉塞からの生還 … 退院まで

2011-02-01 | 腸閉塞
15日 昼過ぎにプーさんが病室に着いた。

羽田に千疋屋がオープンしていたと フルーツたっぷりのゼリーを買ってきてくれた。

怖いと思いながらも 体が欲していて ゆっくりと食べる。 食べていて疲れて食べるのをやめたいとか、横になりたいという気持ちが随分少なくなってきた。

確実に体力が回復してきた。

不安なことは一つ。 

父が頭の手術を薦められたものの 全員一致で反対したこと。
成功は半分。 植物人間になる可能性もあるとのことで、とんでもない、手術なんてという気持ちだった。

手術しなければ 余命5日から長くて2週間と言われる。

みんなが思うことは同じ。 私が葬儀とかに出れるかということ。

16日
この日から食事が全がゆに変わった。 普段食べるおかゆだ。 おかずは塩味を随分控えたもの。

プーさんがお風呂に入れてくれる。 シャワーのみだが、全身丁寧に洗ってくれ、シャンプー後のヘッドマッサージが大変気持ちいい。

変な話だが、人の頭を洗うときはこのぐらい気持ちを込めてあげなければならないと プーさんに教えてもらったようなもの。

病棟内を歩き始めると いろんな人が声をかけてくるようになる。

一番言われたことは、『元気になりましたね』 という言葉。 次に言われたことが、『娘さん よく看病されてましたね』 という言葉。

合間には左手から腕をマッサージしてくれる。 いつまで経っても左腕の腫れが引かない。

必要なものを買い足したり クリーニングに出した服一式を取りに行ったりもしてくれた。

一月ほど前 携帯電話を台所で水の中に落として全く使えなくなったプーさんは 流行りのスマートフォンに変えたのだが、これが大変役に立つという。

ネットでの検索が優れている。 GPS機能を使って目的地に迷わずに行くことが出来るそうだ。 プーさんは私と違い方向音痴 (これは余計事か)

この日も鹿児島は雪が舞う寒い一日で 高速道路の速度規制が始まったと連絡を受けたプーさんは 予定より早く引き上げていった。

17日
ベッドから起きあがるのが 楽になっていることに気がついた。 手術して2週間。

18日
この日から 普通のご飯になる。 おかずは腸食と書いてある。

朝看護婦さんから 部屋を変わってほしいと協力を求められる。

順調に回復しているのでということで、ナースステーションからちょっと離れた部屋へ移動する。

しかし 昨日から通じがなくて 気持ちはハラハラ。 
やはり父のことが頭にあるのだと思う。
些細なことがストレスになって、腸の動きが鈍くなってしまうようだ。

新しい部屋で一緒になった女性は 毎日階段の上り下りをして足を鍛えているというので、私も一緒に歩かせてもらう。

ゆっくりと手すりを捕まりながらだが、やはり随分疲れてしまい ベッドに倒れ込んでしまった。 

ここまで努力しても便意はこない。

夜 下剤を処方される。

19日
一晩中お腹がぐるぐるするのに下剤の効果は現れず 眠れない夜が明ける。

しかも昨日の階段の上り下りがこたえて 両足ともすごい筋肉痛。

主治医の先生も心配して 一生懸命聴診器をあてて腸の動きを観察したり 触診したり。

動いてはいるという。

さらに違う下剤を処方されることになった。

ところが、それからこの日の担当の看護婦さんがやってきて 私のお腹をマッサージしてくれた。

私が今までさすっていた力とは比べものにならない力の入れよう。

マッサージのコツがわかったので 自分でも続けてお腹をマッサージしていたら 急にトイレに行きたくなった。

効果が現れ ほっとする。 しかし朝の下剤は必要なかったようだ。 下痢が8回も続いた。

合間にレントゲンとったり 主治医の先生から退院後の過ごし方の注意事項を聞いたり、栄養士からも栄養指導を受ける。

術後 初めて一人でシャワーも浴びる。

食事の注意事項は びっくりする内容だった。 これは改めて記録したいところ。

20日
朝から荷物の片づけ。

主治医の先生が何回も顔を出してくれる。

保険請求のための書類のこと。 自宅に戻った後の病院への手紙の件。 私以上に心配してくださっている。

退院後しばらくたったら、主治医の先生にも経過報告を知らせたいと言うと、応じてもらえた。

久々に化粧をする。 そして3週間ぶりに着た自分のパンツがだぶだぶになっていて、びっくり。

お腹もぺっしゃんこ。 足も老女の足のように痩せ細ってしまった。

10時過ぎにトトがレンタカーで病院に到着。

エレベーターホールまで 主治医の先生に見送ってもらい、病院をあとにした。

途中昼食をとり、(ゆっくり ゆっくり) 実家に立ち寄る。

その後 父の病院へ。

なんと父に話しかけると 聞こえたように頭を辛そうに動かした。 トトもびっくりし、 『お父さん 絶対にわかったと思うよ』 と 何回も口にする。

私も泣きながら父に 『もうちょっと元気になってまた帰ってくるから、それまでがんばって』と耳元で頼み込み 孫ちゃんが書いてくれた手紙を読んでやり 枕の下に置いて病室を出た。

自宅に戻るまで一番の心配は 飛行機の中だった。 それでもどうにか無事に羽田に到着。

駐車場に止めてあった自家用車で自宅にもどった。

12月30日に自宅を出るときには 想像も出来なかったすさまじい経験をしたものの、家に戻ることが出来、ほんとにみんなでほっとした夜だった。

トトは 12月に妹からアメリカ土産にもらったワインを お祝いだといって開けた。

私やプーさんには常に 『ダイジョーブ』 としか言わなかったし、私に会うたびに 『元気になった、よかったね よかったね』 としか 言わなかった。

しかし内心随分心配していたのだろう。 1日のとんぼ返りと20日の私の退院迎えを含めて7回 鹿児島を往復している。 実家の母様にも隠し 病院の近くのビジネスホテルに泊まっていた。

家族間で貸し借りの思いはさらさらない我が家だが、今回の借りは一生かけても返せないほどの借りを作ってしまった。

まずはなるべく元の生活に近いところまで 体力を回復することが一番。

新たなスタートを切ることになった。

コメント (2)
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