Fuu

ある日には山 ある日には畑 自然体で気分良く暮らしています。

リトルジャーニー 岡崎27曲がり 失われた街

2011-11-17 21:31:47 | まち歩き

お城を出てから どっちへ行こう?

さっきのまるやさんで大38番宿 岡崎の宿の案内図をもらって来ていた。

「良し この通りに歩こう。」 城内を沢山歩いたので 本心どうでもいいや・・・みたいな気持ちになっていたけれど 思い直して伊賀川まで戻る。ここを北上するのが正式な道らしい。

Mon
またもや歩道橋から 正門を眺めてみる。城郭が全部残っていたらなかなかいいお城だったのではないかしら?

Igagawa2国一から伊賀川を越えたところで右に折れて北上

案外狭い道だった。 昔は車なんか無かったしこれで良かったんかなぁ?

昔 物資を船に載せて運んだと思われる川は 今はみんなの憩いの場所になっているらしい。 お昼休みの時間を利用して遊んでいるようだった。

Ribura岡崎図書館と交流プラザりぶらがある。ここは昔プールがあって 夏はプール 冬はスケートリンクになっていたように思う。

お転婆な娘は 滑り台を滑りすぎて水着を焦がして穴あきにしてきた

Hyousiki2伊賀川をもう一度戻る形で渡る。

子供たちが学校に通っていた頃と比べても 驚くほど変わってしまった街にはもう 東海道を偲ぶ物はほとんど無い。

それでも市は街を整備してこんな物をいっぱい作っている。標識だけを見て歩いているような感じがしてきた。

町名は当時の生活を想像できる。

肴町 魚町 材木町・・・・

Hakusanjinjya魚町を過ぎたあたりだろうか?白山神社と思われる

今でも大事にされている神社のようだった。

Kakitabasi柿田橋のところで東に折れる。

標識の上に金色のわらじの絵が書いてあるの分かるかしら?

金のわらじは 27曲がりのシンボルのようです。 交差点のあちこちに 金のわらじのモニュメントがあります。

Warajiこんなんですけどぉ~~~

金のわらじを目当てに歩けば良いようですが もらった地図とは一致しないところもありました。

同じ事を考えて歩く人もいっぱいいて あちこちで出会います。

Zaimokucyou材木町と言うから このあたりは昔材木問屋が並んでいたんだろう・・・と思ったら違うらしい。 ここで町屋を作るための気を伐りだしたと言うのだけれど・・・

確かに岡崎には石屋さんは多いけれど材木屋さんって言うのは・・・

Uomati
何と 戻ってきてしまいました。 魚町です。

右側の立派な建物は先ほどの交流会館の表です。

正面は岡崎城です。なるほど無駄に大回りさせている事が分かります。 この道 このように広くなったのは最近のような気がします。 昔は狭かったです。

魚町はその名の通り魚屋さんが多かったのではないでしょうか? 詳しくは知りませんが 今は寂れてしまった商店街のすぐ北にあります。 この辺はお店が結構多かったように思います。

Zaimokucyou2
材木町と魚町を行ったり来たり

クネクネと迷路のようです。

Honmati
本町通りを越えます。

こうして岡崎の写真を見ているといかにも寂れた感じがして悲しい。

往時を偲べる静かな町並みも消え 最近の街としての元気もない。

今岡崎の街は完全に南部に移ってしまったようだ。

伝馬通りに行く手前に 残っていた 岡崎信用金庫資料館

Okasin
総門通りにあるこの施設は 元岡崎信用金庫があったところ

大正時代の洋風建築でルネッサンス様式

比較的新しいとは言え こ雨言う物がまだ大事にされていることは嬉しい。

岡信頑張っているな

娘の中学時代の友達の家だから余計に嬉しい。

Kiramiti
きら道の案内

前に藤川の宿でも見たことがある。 きらってあの吉良だろうか? 吉良上野介の里

そんなに重要な道だったんだろうか?とちょっと思ったけれど この辺が西尾や吉良の方へ行く分岐である事は想像できる。

Okasin2国一まで戻ってきた これが今の岡信

岡崎の人は勤勉な人が多いので貯蓄額がとても多くて人口が少ない割には全国的にもトップレベルの成績なのだと聞いたことがある。

岡崎の人々の勤勉さは 家康時代からのこのちほうのひとびとの気質なのかもしれない。

残念なことに私にはその気質が全く無く(岡崎人ではないけれど)いつもぴーぴーしている。  反省。

Otogawa
乙川を渡ります。

ビルの向こうに小さくお城が見えています。 このまままっすぐ行くと東岡崎の駅です。電車一駅を大回りして歩きました。

Manhoru
あちこち寄り道したので 10キロほどの旅でした。

すっかり変わってしまった街に寂しさを感じながらも道だけはクネクネと残っていて 27曲がりを感じる旅でした。

おしまい。

足痛いです。 アスファルトの道苦手

コメント (4)
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リトルジャーニィー  岡崎27曲がり(お城巡り)

2011-11-17 17:34:09 | まち歩き

Igagawa
国一を東に歩いて行くと 伊賀川が流れています。 外堀?と思ったけれど違うようです。

外堀の代わりになっていたのかしら?こんなに浅きゃ役に立たないかしら?

春には桜が綺麗で沢山の人々で賑わいます。 

人混みが嫌いなので残念ながら一度しか行ったこと無いですが。

Ohori

Mikawabusinoyakata三河節の館です。 資料館です。週末と祝日はこの前でグレート家康公「葵」武将隊がおもてなし・・・とあります。

葵武将隊は 名古屋城でおもてなし武将隊が活躍し全国へその流れを発信しているので その影響かと思われます。

この日は週末でも 祝日でも無かったけれど 二人のおもてなし隊が出ていました。

慣れていないのか控えめで 軟派しているバイトみたいに見えました。 残念!

資料館は 撮影禁止なので無いようについては詳しくお話出来ません。 岡崎城にまつわる武将のこと 松平親氏に始まる徳川家の事とかがのってます。

宿場町 城下町としての岡崎の様子も分かります。

私達のように 地元に住んでいると いろんな情報があってどれが重要かよくわからずとりとめもなくなるので 触れません。

Ohari2

Ohori3

Tote堀の裏側に回ってみると 土手のようになっていて階段があります。

のぼってみたけれど何も無い土手でした。ここから堀の向こうの外的の侵入を防いだのでしょう。

公園内には竜城神社があるので なんだか遠慮がちに建っている岡崎城。徳川家康の誕生の城 「神君出生の地」として神聖視され 石高5万石ほどの小さな城だったけれど 大名たちはこの城の城主になることを誇りに思っていたらしい。 岡崎市民にとってもその気持ちは変わらないようで 明治6-7年にかけて取り壊されてしまった城をとても辛く思い 昭和34年に昔通りの外観の天守閣を作ったのだそうだ。 岡崎市民にとって悲願だったに違いない。

城郭そのものは大きかったと思われるけれど 残っているのはほんのわずか。

Minami
天守閣に上がって 回りの景色を眺めてみる。

Tatumigaoka
懐かしい巽が丘

子供たちは中学高校とあの 丘を登って学校へ行った。

家康ゆかりのお寺大樹寺は肉眼で見えるけれど 写真ではさっぱりなので載せない。

大樹寺の山門からは それを額として岡崎城が収まっていたけれど 今も見えるのだろうか?

Ike2
もう少し散策を続けます。

春には人混みでいっぱいの場内も この時期は静かです。

でも想像していたよりは観光客が多いです。これも歴史ブームのせいでしょうか?

Nougakudou
能楽堂です。 中を見ることができません。普段は公開していないようです。

見られないと見て見たいのが私の悪いところです。

カメラを掲げて植え込みの縁にたちパシャ。

Nougakudou2

こんな風です。 なかなか立派です。

一度ここで薪能謎見て見たい物です。

Ubuyu
家康誕生の際に使った井戸とあります。

松平の東照宮にも家康誕生の産湯を汲んだ井戸って言うのがあったので???です。

早馬で豊田から持って行ったと

家康さんはあちこちの水を使ったんだ~

おなかが空いてきました

Yatiyohonten
場内に八千代本店があります。 味噌田楽と菜めしのお店です。 

27曲がりを歩くのにちょっと楽しみにしてきました。 

ここでご飯を食べるのは20年ぶりぐらいでしょうか? お友達と来たきりです。

Teishoku豆腐の味噌田楽が6個着いています。

おすましのしんじょがとても美味しかった。 ご飯はふたをしてありますねぇ

菜めしです。 美味しいですよ。

それでも年とともに味覚が少し変わったようです。 田楽6個も食べると なんだか味噌辛く感じるようになって来ました。 甘辛の味噌なんですけれどね

そうも食べるなって事ですね。

からくり時計のところまで来てほぼ一周。 そろそろ本日の本題27曲がりに行かないとね

Hyousiki

あ 一つ気になる場所がありました。ちょっと寄り道してみましょう。

浄瑠璃姫のお墓です。

浄瑠璃姫? 誰? 綺麗な名前だねぇ

Jyoururihime
浄瑠璃姫って言うのは 源氏の御曹司源の義経の恋人だったようですよ。

白拍子の静御前は知っているけれど 違う人だよねぇ

薬師如来の申し子であると言われた浄瑠璃姫は平泉の義経恋しさに菅生川に身を投げてしまったんだって

姫様の墓は平泉の方向を向いているらしいのだけれど姫様の庵があったところが岡崎城の浄瑠璃曲輪と言われるところだったと

初めて聞く話だったけれど 歌舞伎なんかでは演目としてあるらしく 歌舞伎役者がお参りに来ているようだった。 国一の車ビュンビュン走る中で 浄瑠璃姫様何を思っているんだろうね?

さ 今度こそ歩き出さないと。

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リトルジャーニィ-  岡崎27曲がり(味噌蔵見学)

2011-11-17 14:06:28 | まち歩き

今日も お天気はまずまず

一歩きは 前から気になっていた岡崎にしよう。 岡崎城あたりの27曲がりが良いな。

Eki
久しぶりに乗った名鉄電車。しかも各駅停車。 なんだか行く前から気持ちがのんびりしてしまった。

岡崎公園 つまり岡崎城を中心とする城址公園である。 旧街道を歩いて見ると必ずあるのが街道の入り口出口にある鍵の手  外から攻めにくいように道をわざと鍵の手にしている工夫。

天正18年 当時の岡崎城主田中吉政は入場とともに岡崎の街作りを。。。その時矢作川に初めて橋を架け(それまでどうしていたんやろ? ふべんやな)東海道を城まで引き入れた。となると外敵の侵入が心配。と言うわけで 城まで行くのに 大回りしてくねくねクネクネ回らないと行けない様にした。(防御は間道を使うので良いらしい)

で 27回も回らないと到達できないと言う27曲がりが出来た。その後徳川の安泰が続き27曲がりの意味もなくなったようだけれど。

今日はその27曲がりを歩いて見ます。

27magari

27曲がりの資料も欲しかったので駅をうろうろしましたが 無人駅 何処にも置いてなかった。仕方ない 歩き出すか・・・・と西に行ってみると 味噌蔵のある八丁通り

岡崎城から八丁行ったところにあると言うことで名前がついた八丁通り 八丁味噌の工場があります。 赤だしとして有名な味噌だけれど 今では二軒しか無いんだって。どちらも工場見学をしていて たまたま入ったまるや八丁味噌で見学を

ここは何年か前に 宮崎あおいちゃん主演で朝の連ドラ「純情きらり」の舞台だった。

Tegata
あのとき岡崎市もずいぶん町おこしに力を入れたらしい。 あちこちに当時の出演者の手形も残っています。

味噌樽のモニュメントです。

Koutei
知らなかった事があった。 私達が八丁味噌と言っている物はいわゆる赤だしではなかった。八丁味噌は生の物で発酵が進んで味が変わってしまうので甘い白味噌と麹味噌を合わせて加熱冷却して商品にするのだと。

今八丁味噌は世界でも注目を浴びていて輸出品は 八丁味噌の方なんだって

どうやって品質管理するんだろう?

Misodaru2
麹をまぶした豆を桶に詰めたらこんな重しをして味噌が熟成するのを待ちます。

独特の積み方で 技術がいるようです。

Isi積み石(約60キロ 石積みの城壁を作ります。職人は 一瞬で何処に積むかを決めるのだそうです)

中石(約11キロ 石積みを中から支える物です)

まんじゅう石(約9キロ てんっぺんにおいて石積みのバランスを取っているのだそうで これがあるので かなりの大きな地震でもびくともしないのだそうで)

ドラマでは 宮崎あおいちゃんが子供の頃 味噌蔵で遊んでいて味噌桶に落ちました。

Ido_2日吉丸の石投げの井戸

日吉丸は豊臣秀吉の幼名です。 名古屋の中村に生まれた秀吉がこんなところまで来ていたというのも不思議だけれどすぐそばの矢作橋にも 蜂須賀小六と秀吉の逸話が残っているから こんなところまで行動範囲を広げていたんだね すごい 放浪児?

あ そうそう で 日吉丸がこの味噌蔵に忍び込んでご飯を盗み食いしていたところ蔵守に見つかって味噌蔵を逃げ惑う

もはやこれまで・・・と思ったかどうか知らないけれど この井戸に 味噌樽の重しを投げて 井戸に身投げしたように思わせて逃げたんだと・・・

全くずるがしこいガキじゃ。

見学をマンツーマンでしてもらった上に 途中で味噌田楽の振る舞い。 美味しかったよ。

申し訳ないので・・・ってわけじゃないけれど 帰りにおみやげを少々購入。

Hibosi_2
外へ出ると 大きな味噌蔵が洗ってはしてあった。

こんなに洗っても麹菌は生きているのかな?

Kakukyuuお隣はカクキュウ

こちらの方が有名でしょうか? 宮内庁御用達ですから。

まるやさんが手作りにたいして カクキュウさんは工場生産って気がしましたけれど

この通りはきゅう東海道です。

Toukaidou_3
少しだけ 古い町並みが残っています。

この手前の角を北上し 国一に出ます。

Kuradoori
八丁蔵通りです。

カクキュウの裏側になりますが 良い感じの蔵が続いています。突き当たりは国一です。

Aoi宮崎あおいちゃん みーつけた

そっと手を乗せてみた。

ちっちゃくて可愛い。

「擦って良し 擦らずなお良し 生で良し 煮れば極良し 焼いてまた良し」と言われる八丁味噌は矢作川の伏流水 気候風土 船の利用 等の良い条件が相まって岡崎の地場産業となった。。。と言うことか

ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷  吉田松陰

今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて食うも  斎藤茂吉

Kakukyuu2

Siroカクキュウの大きな敷地を回って国一に出ると 少し高くなっていている。

歩道橋から岡崎城が見える。

まずお城に行ってみよう。

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リトルジャーニィ-  マックを食べに

2011-11-17 12:01:42 | まち歩き

仕事を辞めてから もう3ヶ月になる。

元々本当は出不精(でぶ性ではないよ あれ?でぶ性かぁ?)なので 毎日ごそごそ家の中にいることが楽しかった。 家にいてもやることはいっぱいあるんだよね。

ところがである。 大問題が起きた。私 二ヶ月の間に三キロも太ってしまった。 仕事は経理だったのでデスクワーク。たいした運動はしていないと思っていたけれど 案外そうでは無かったんだよね?

こりゃあかん  何とか運動しなきゃ

山に行くには ある程度の計画と覚悟がいる。 そうだ 町歩きなら 天気が良かったり 気分が良かったり いろんな理由を付けて遅い時間からも出かけられるかもしれない。

と言うわけで 今日は マックを食べに行く。 もちろん歩いてだよ。

一番近いマックは 国一沿い 旧道(東海道)を東に歩くと岡崎との境目にある。 

10月21日 家を北上して 東海道に出る。 どのくらいあるんだろうか? 東にゆっくり歩く。明治川神社を過ぎてしばらく行くと 

Matuおお 立派な松 地をはうように枝をしっかり伸ばして・・・・

雲龍の松 だそうです。

なるほど

この寺は庄屋柴田助太夫を祀ってあるのそうです。 だれ?それ

1677年 貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したそうで 村人のために尽くしたと言うことでお寺が建立された。 松はそのシンボルのような物だろうか?

樹齢300年と言うから お寺が出来てから植えられた物かもしれない

いずれにしても 道路まで出ても全景を撮すことが出来ないほど這い回っています。

ん? ただ歩くばかりではなく これって案外楽しい散歩になるんじゃないの?

Kumanojinjya新しい76号線を越えると熊野神社がある。

ここは東海道よりも もっと古い鎌倉街道の道でもある。

安城の北西にある不乗の森神社からここまで達し ここで右に曲って南東に下っていった。

だからこの神社の森を 踏分の森と呼んでいたらしい。

ただ今南下する道がどれに当たるのか私にははっきり分からない。

今のヤマト運輸の道に出て西別所から矢作のほうへ行っていた様ですが 今その道は抜け道として使うぐらいの細い道なので。。。。。

Mapここで 私びっくりして動けなくなってしまった。

何と熊野神社を取り巻くこの辺一帯は予科練の訓練場だった。地図によるとかなり広い場所で 今の三菱自動車の工場あたりまであったらしい。

驚きだった。 確かに三菱自動車は兵器も作っていたと聞いたことあるし・・・

戦争とは全く関係ないところに住んでいるとのほほんとしていたけれど すぐそばに 戦争の跡があった。。。。

Yokarennohi

Toukaidouちょっと複雑な思いを感じて熊野神社を後にする。

今東海道は静けさの中にある。 国一が新しくなってすぐ脇を走るようになったのは何時のことだったろう?

子供の頃の遠足はまだこの狭い道をバスで走っていた。

道は国一と平行していたがだんだんにくっつきやがて一緒になる。 そこの交差点に 最近マックが出来た。

Mac何年ぶりかのマック

ビッグマックのセットとコーンをオーダー

それにしてもこれだけの物食べたら 歩いても効果ないじゃん

いえ 歩く理由を作りたかったので マックを食べたかった訳じゃないよ。ホントだよ。

帰りは 国一(新しい東海道です)で帰ります。

Kokuiti
全行程6キロ強のリトルジャーニィ-でした。

Gonzui

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