飯盛山を降りてからどちらへ行くか少し迷ったけれど 中馬のおひなさんを覗いてみることにした。 この時期限定だからね。
本当を言うとあまり好きでは無い。 理由はそのうち・・・・・
伊那街道は 三河や尾張から信州までをむすぶだいじなみちです。 何が大事かって 重要な公益物 塩を運ぶ道だったのです。
塩は吉良の方から運ばれていたそうで(吉良のお殿様は自分の所の塩を大事にする為に赤穂の殿様を嫌っていたと言う話を聞いたことがあります)
川を使って運んできた塩をここから山道を運ぶために 積み荷を詰め替えました。
牛や馬で運びやすくするためです。
足助塩とか足助直しと呼ばれるようになった由縁です。
塩の道は塩のおしまい 塩の最後 塩の尻・・・・と言うことで伊那街道の終点は塩尻です。
交易ですから塩尻まで行くと代わりに通常は信州の産物を積んで帰ってくるわけですが 急ぎの便は 足助で引き返します。
そんな事から中馬街道とも言われたようです。
巴川を挟んで両側に細長く続く町並ですが 安永の対価で町並は焼失
その後再建されたので今ある町並は江戸後期から 明治末までのものが多いそうですが 今でも風情あります。
信州への道は 近年中央線に取って代わりだんだん衰退するのですが 足助って凄いところで それだけでは終わらなかった。
何年か前観光ソムリエなる位をもらった人が足助にいます。 まだ全国で10人ほどしかいない頃です。
足助は年寄りが生き生きしている町だと思います。
町内の百年草という施設には ZIZI工房(爺工房)というソーセージの工房があったり バーバラハウス(婆ハウス)というパンやさんがあったり
巴川沿いにある三州足助屋敷という施設では村の暮しや産業などを伝えていたり
何処でも主役は年寄りです。 生き生きしています。
こんな町の暮し方 ちょっと真似してみたい。
あ それで 毎年おひな様の頃になると 各家が自分の所のお雛様を飾って観光客にも披露鶴のです。 古くから栄えた町だけに 驚くような立派なおひな様がいっぱいです。
どれも間違いなく芸術品で見惚れてしまいます。 でも続けてみていると「おひな様ないうちの子は寂しいな」とかいらんことを思ってしまう ちょっと屈折した私がいます。
特に当家の○○女誕生の折どこどこの実家から送られた物・・・・とかも注釈がつくと
この辺は節句の御祝は実家から立派な物を贈るのが習わしですからね
これ欲しい~~
乗っても大丈夫なんだって
売り物でした。
河岸段丘になるのでしょうか?同じ人の家ですがだんだんになって上がっています。
こんな小路がいっぱいあります。
子どもの頃嫌いでした。だってあんまり綺麗じゃないもん
でも今見るとちょっと味があって良いね
この雛様達(雛じゃないか?) 歌舞伎に登場するキャラクターのようです。
なかはお茶室になっています。 加茂一揆の時の打ち壊しの時にで来たと言われる刀傷が・・・・・
今から 足助城に行きます。
足助の洋食屋さん 参州楼です。
本当はお弁当作っていたんですが あまりの寒さに 山では食べる気がしなくて
それに参州楼前から気になっていました。ハンバーグ定食 野菜一杯で美味しかった。