九州に生まれ育った電関人は、急行電車といえば475系。ゴーマルサン改正以前には、つくしや玄海、ゆのかなどの名前が懐かしい。その改正後ビッフェの営業は早々と無くなってしまったのだがその編成中にはしっかり組み込まれており、短い7両編成でもしっかりサロ、サハシが入っていた清く正しい急行編成。1978年2月1日 鹿児島本線 二日市~水城 1112M 急行ぎんなん6号※励みになりますので、左のにほんブログ村鉄道写真ボタンをポチっとよろしくお願いします。
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電車急行にはやはこれがないといけません(^^);
(これにあと3両加わった10両編成だったらもっと嬉しいところです)つくし・玄海・はやとも…懐かしいですね。湘南色の153・165系との共演は当時の山陽本線の名場面でした(時にはこれに167系が加わり更に華やかでしたね。当時は電車急行にもヘッドマークが掲げられ颯爽としていました。乙に澄まして少し遠い存在だった特急に対し急行は親しみやすい身近な存在でした。
当時の時刻表には食堂車・ビュッフェのメニューが載せてあり、プリンが食べてみたかったのですが…電車急行自体には乗る機会があったものの、ビュッフェはいずれも営業休止!ついぞ食する機会は得られずに終わりました(40年経った今も…げに恐ろしきは食べ物の恨み)(爆)。
子供の頃に乗って、父親からビュッフェという名前を初めて聞いたときだったと思います。
その後、北海道などでDC特急の食堂車には何度か乗りましたが、車窓を眺めながらビールをちびちび...懐かしいですね。
聞く所によるとJR東海管内の在来線では車内販売も無くなるとのこと、実質の駅弁立ち売りも全国的に消滅し、旅情を誘う風情がなくなっていくのは寂しいですね。ビッフェに最初に体験した感動は今でも忘れません。急行「信州」だったか、「妙高」だったか、お寿司かお蕎麦コーナーがあったような気がしますが定かではないものの懐かしいです。
7両でしたね失礼しました。(記事も修正しました)
おっしゃる通り、当時特急は高嶺の花で庶民の
我々には、周遊券で自由席に乗れる急行列車に
強い親しみがありましたね!
電関人のビュッフェの想い出は、懐かしい味の
サンドウィッチです!
確か母親の郷里である四国に行く際に博多から岡山まで乗った
急行つくしだと記憶しています。さらに岡山から宇野まで
151系(181系)うずしおに乗ったと覚えています。
それぞれビッフェのメニューは工夫されていたようですね!
九州内でゆのかに乗った際にも、カレーか何か
食べた記憶があります。
『ぎんなん』も何度か乗りましたねぇ。へんな名前だなあ、と思ってましたから憶えてるのかも。
ホント庶民の味方でしたよね!
或る時は、移動手段そして或る時は宿がわりでした。