電関人も辛うじて知る石炭産業時代。
煤だらけの大正蒸機が黒い貨車を連ねて闊歩し、
実家の風呂も石炭炊きだった時代。
その後自身の成長とともに石炭産業は急速に衰退し、
ヤマの街「筑豊」は斜陽の時代を迎える。
空っぽになった広いヤードは、かつての隆盛を物語る。
そのヤードにぽつりと留置されるキハ。
朝夕の通勤通学帯へ極端に偏った運行ダイヤとなった鉄道線。
貨物も通うことが無くなり、夕方からの運行待ちであろう唯留置されるキハにも寂しく斜陽が注ぐ。
1977年 豊前川崎駅(?)
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こんなに沢山の側線がある駅は、今は皆無になってしまいました。
凄く懐かしい雰囲気です。
石炭炊きの風呂とはさすがは筑豊!
ヤマの終焉と共に暮らす人もどんどん減ったのでしょうか、
生活列車も寂しくなったようですね。
夕映えの中の時代の証言。
無煙化前の筑豊散策に数度訪れてますが、何処に行ってもキューロクだらけで、
当時無知な餓鬼だった電関人はCとかDとか付いてなくて
カッコ良くない!と不平を溢してました(笑)
筑豊とかけ離れた我が実家の話で・・・(笑)
友達の親が煙突掃除に来てくれてました。石炭殻は小さなスコップで、
自宅前の凸凹道の穴ぼこ埋めに使ったので車が走ると、
すごい埃でした・・・。
セメント産業時代の筑豊がわが青春の時代です。
ぶじぇんかわさき(爆)を起点としている上山田線、添田線、漆生線とともに空気運搬線で有名でしたから、朝晩しか走らないのは必然でしたね!