柔道家。オリンピック金メダル3つ連続。ハッピーな引退。今年8月40歳で引退。
現役時代は夜のお付き合いは遠慮していたが、今はさあこいと。自堕落な生活に?笑
1996年 21歳のアトランタオリンピックで金メダル。日本人初の金メダル3連発。
最後の金メダルから11年で引退。40歳でもできる柔道がないかを考えている。
3歳から実家の祖父の柔道教室でやりだした。家族全員が柔道家。父も兄妹も。
記憶に残っている曲。中学時代に支えられた長渕剛さん「とんぼ」。塾にも通っていた。
母親が勉強もできないといけないと。天理中学に時間をかけて通っていたのでとても辛かった。何でこんな苦労しないといけないのかと思った。
「・・・俺は俺で在り続けたい そう願った 裏腹な心たちが見えて やりきれない夜を数え・・・」
懐かしい。その頃はとても苦しかった。柔道は止めることはなかった。子どもの頃は勝てなかった。
兄が父親から人の三倍努力するつもりで天理高校の柔道部に入らないといけないと言われた。
ところが、自分の時は無理して天理高校の柔道部に入らなくてもよいと言われた。
それが、父に見返してやりたいと思った。身体も小さく勝てなかったがたまに背負い投げで大きな相手を倒すことができた。
ひょっとしたら、この背負い投げで勝てるかもしれないと、未来の自分に希望を持っていた。
大学に入ってから変わった。細川伸二先生の指導者との出会い。オリンピックの金メダル者。
「もしお前が世界で活躍したいなら、そんな練習ではだめだと」。練習の甘さを指摘された。自分では一生懸命やっていた。
「お前はよう頑張っているが、最初から全力でしないといけない」と言われた。やってみたらできた。自分で限界を作っていた。
その時に先生に気づかせてもらった。すぐには変わらなかったが、半年後に学生チャンピオンになった。
それまでは内部での戦いで負けていたのででることするできなかった。
アトランタオリンピックに出られるとは思っていなかった。ヤワラちゃんが決勝戦で負けたのでその記事が大きく、金メダルとっても大きな記事にならずに“野村”の名前だけできた。ヤワラちゃんがすべての関心を引き受けてくれていたので、のびのびと闘うことができた。
自分の武器は?どうしたら投げられないかをずっと考えていた。本当の強さは受けの強さ。それがあったから思い切って技をかけられた。これを周りが見て、野村は天才だと評価するようになった。
20代後半から引退を考えていた。アマチュアにはオリンピックが引退の機会になる。心の限界、身体の限界が来る。自分の場合は、人体損傷して身体の限界を感じた。今年の夏に身体の限界が来てしまった。星座はできない。胡坐かいても5分もできない。キャッチボールもできない。追い求めて続けた゛柔の道“だった。身体が限界でも技を生かせないかと。それを周りが、”続ける姿“を見て、もっと頑張ろうと思ってくれた。最後負けた時に、皆が拍手してくれた。最後までやり通して良かったなと思った。それを感じて”愛されていた選手“だったと感じた。それまでは人付き合いも悪かった。本「戦う理由」を出した。
TUBEの前田亘輝さんが自分のことをイメージしながら書いてくれた曲「Second Chance」が二曲目。
「・・・お互いにボロボロだね でもなんとかはぐれないで来たよ 何度泣いてもあきらめきれず カタチ変わってもユメ求めて 笑うことより笑われた方が多かった 勝より負けた数ははかりしれないeveryday キラキラ流れる涙が俺達の勲章(メダル) Hello my friends クタクタだね いつのまにか老け込んじゃったココロ リタイヤするにはまだ早すぎる チャンスは一度だけじゃないよ・・・・
オリンピックというステージがなくても違うステージがある。11年間結果が出せなかった最後の3年ほどは親として辞めて欲しいと思っていた。それがとことんやってみて胸を張ってやればよいと言われ、勇気を貰った。
感想;
高校までは勝てなかったそうです。でも自分の未来に自ら希望を持っていたので頑張って来られたそうです。
そこに恩師との出逢いがあり、それまでの努力が花開きました。
”自分を信じる”。未来の自分を信じる。聖書に”信じる者こそ救われる”の言葉があります。自分の未来を信じたいと思いました。
現役時代は夜のお付き合いは遠慮していたが、今はさあこいと。自堕落な生活に?笑
1996年 21歳のアトランタオリンピックで金メダル。日本人初の金メダル3連発。
最後の金メダルから11年で引退。40歳でもできる柔道がないかを考えている。
3歳から実家の祖父の柔道教室でやりだした。家族全員が柔道家。父も兄妹も。
記憶に残っている曲。中学時代に支えられた長渕剛さん「とんぼ」。塾にも通っていた。
母親が勉強もできないといけないと。天理中学に時間をかけて通っていたのでとても辛かった。何でこんな苦労しないといけないのかと思った。
「・・・俺は俺で在り続けたい そう願った 裏腹な心たちが見えて やりきれない夜を数え・・・」
懐かしい。その頃はとても苦しかった。柔道は止めることはなかった。子どもの頃は勝てなかった。
兄が父親から人の三倍努力するつもりで天理高校の柔道部に入らないといけないと言われた。
ところが、自分の時は無理して天理高校の柔道部に入らなくてもよいと言われた。
それが、父に見返してやりたいと思った。身体も小さく勝てなかったがたまに背負い投げで大きな相手を倒すことができた。
ひょっとしたら、この背負い投げで勝てるかもしれないと、未来の自分に希望を持っていた。
大学に入ってから変わった。細川伸二先生の指導者との出会い。オリンピックの金メダル者。
「もしお前が世界で活躍したいなら、そんな練習ではだめだと」。練習の甘さを指摘された。自分では一生懸命やっていた。
「お前はよう頑張っているが、最初から全力でしないといけない」と言われた。やってみたらできた。自分で限界を作っていた。
その時に先生に気づかせてもらった。すぐには変わらなかったが、半年後に学生チャンピオンになった。
それまでは内部での戦いで負けていたのででることするできなかった。
アトランタオリンピックに出られるとは思っていなかった。ヤワラちゃんが決勝戦で負けたのでその記事が大きく、金メダルとっても大きな記事にならずに“野村”の名前だけできた。ヤワラちゃんがすべての関心を引き受けてくれていたので、のびのびと闘うことができた。
自分の武器は?どうしたら投げられないかをずっと考えていた。本当の強さは受けの強さ。それがあったから思い切って技をかけられた。これを周りが見て、野村は天才だと評価するようになった。
20代後半から引退を考えていた。アマチュアにはオリンピックが引退の機会になる。心の限界、身体の限界が来る。自分の場合は、人体損傷して身体の限界を感じた。今年の夏に身体の限界が来てしまった。星座はできない。胡坐かいても5分もできない。キャッチボールもできない。追い求めて続けた゛柔の道“だった。身体が限界でも技を生かせないかと。それを周りが、”続ける姿“を見て、もっと頑張ろうと思ってくれた。最後負けた時に、皆が拍手してくれた。最後までやり通して良かったなと思った。それを感じて”愛されていた選手“だったと感じた。それまでは人付き合いも悪かった。本「戦う理由」を出した。
TUBEの前田亘輝さんが自分のことをイメージしながら書いてくれた曲「Second Chance」が二曲目。
「・・・お互いにボロボロだね でもなんとかはぐれないで来たよ 何度泣いてもあきらめきれず カタチ変わってもユメ求めて 笑うことより笑われた方が多かった 勝より負けた数ははかりしれないeveryday キラキラ流れる涙が俺達の勲章(メダル) Hello my friends クタクタだね いつのまにか老け込んじゃったココロ リタイヤするにはまだ早すぎる チャンスは一度だけじゃないよ・・・・
オリンピックというステージがなくても違うステージがある。11年間結果が出せなかった最後の3年ほどは親として辞めて欲しいと思っていた。それがとことんやってみて胸を張ってやればよいと言われ、勇気を貰った。
感想;
高校までは勝てなかったそうです。でも自分の未来に自ら希望を持っていたので頑張って来られたそうです。
そこに恩師との出逢いがあり、それまでの努力が花開きました。
”自分を信じる”。未来の自分を信じる。聖書に”信じる者こそ救われる”の言葉があります。自分の未来を信じたいと思いました。