幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん 「サワコの朝 恵俊彰さん」 ”好きなことより似合うことを長くやる”

2015-12-19 11:28:00 | 生き方/考え方
7年目。TBSのお昼の顔。子ども4人。1964年生まれ。24歳の時、石塚とコンビを、関口宏の東京フレンドパークにずっと出演。
2009年から昼帯の司会者。下町ロケットでは弁護士役。お笑いからドラマや司会業へ。
下町ロケットでは迫真の演技。私(阿川さん)の周りの3人から素晴らしいと。前から本を読んでいたので、お声がかかったとき、どんな役なんだろうと思った。ものすごく練習した。専門用語を流暢に話さなければならない。TVで弁護士の人と接していたので雰囲気はわかっていた。それまで「新参者」で出してもらって、機会があったらやりたいですねと伝えていた。お昼の番組で番宣の紹介などでディクターとも顔を合わせていた。
記憶に残る曲は。「22歳の別れ」。あら、私の青春だは。中学生の頃に聞いた曲。中学生の先輩に長渕剛さんがいて、皆がギターを練習した。その教則本の最初の曲がこれだった。
私の誕生日に22本のろうそくを立て、17本目から一緒に火をつけたのが昨日ことのように。
私には目の前に幸せにすがりついてしまった。

朝からこんな曲ですいません。朝から泣いちゃっていいですか。友達から借りていた白いギターで練習していたら、親父が2Fに上がって来て、うるさいとそしてそのギターを取って、そのギターで頭をぶった。顔から血がでた。ギターが壊れた。父は「大島紬」の名門。父親は白く染めるのを初めて開発した。父は“白恵泥”で特許を取得。下町ロケット父ちゃんだった。一人子だった。父親は家庭に介在しなかった。厳しかった父の以外な面も、友達と遊んでいると、階段を急いで上がって来て、ふんどしで、友達がいたので、怒りながら「こんばんは」と。友達がいなかったらうるさいと怒ろうと思っていた。

お笑い芸人だったのがお笑いから離れた。お笑いでも冠番組を持ちたいと思っていたが、それは無理だろうと。お互いに好きなことをやろうと。30代で新たな道を。それから自分を見つめなおす20年間だった。自分らしさは何だと毎日言われているようだった。それまでは素晴らしい先輩といることが素晴らしかった。自分の居場所を探さないとならないと思っていた。そんな時にお昼の番組の司会をいただいた。それから新聞を読むようになった。わからないことだらけだった。前日の視聴率を毎日見てから打ち合わせを始めた。それが緊張を持って臨んでいた。裏番組にタモリさんの大きな番組があった。3.11大震災の時、どのような顔でやればよいかわからなかった。その時妻に「普通の顔でやればよい。全ての悲しみを背負った顔をしないで」と言われた。小保方さんの時はどんな顔をしないといけないか。そんなに責めないといけないの。残り5秒だと「この事件は見守っていきたい」と発言。誰が見守るんだと思う(阿川さん)。
凄い良い奥さん。45歳の時、一番下の子を自宅で産んだ。4人目は自宅で”緊急出産“。4歳の子どもたちが近所に連絡したりした。高校の一番上に子どもに連絡して家をきれいにしてと伝え、僕は妻がいる病院へ。家族全員で出産に対応した。小さな子供を見ていると頑張らないといけないなと思える。

目標は長くやること。好きなことをやるよりは似合うことをやる。自分が着たい洋服が自分に似合うかどうかはわからない。
二曲目は玉置浩二さんの「メロディー」。
あんなにも好きだった君がいた町にいまもまだ大好きだったあの歌が聞こえてくるよ。
・・・
あの頃はなにもなくてそれだって楽しくやったよ
メロディいつのまに大切なものを失くしたよ

仕事への意欲が沸いてくる曲。森山直太朗さんが一番うまいのは玉置浩二さんかなと言っていた。プロが言うのだから本当だと思った。
詩も素敵ですね(阿川さん)。あんなこともこんなこともあったからこの詩を。好きなように生きているなと。自分なりに好きに生きている。毎日顔合わせるスタッフが100人。ありがたいなと。立派な人にならないでくださいね(阿川さん)。まだ大丈夫。