幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん「サワコの朝 堀越希実子さん」 ”新しい環境を真摯に生きる!”

2018-05-26 08:20:18 | 生き方/考え方
十二代目市川團十郎さんの妻。市川海老蔵さんの母。歌舞伎の名門を支える梨園の妻。家族たちとの感動秘話。
やんちゃだった海老蔵さんも良いパパになって(サワコ)。私もそう思います。
團菊祭五月大歌舞伎で歌舞伎座のロビーに立ち、お客様への挨拶をしている。
15分くらいで着物を着られる。帯は私がデザインした。着物デザイナー。
1952年生まれ。23歳の時、お見合いで結婚。市川ぼたんさんが長女。
2017年海老蔵さんの妻小林麻央さん他界。その前に團十郎さんも逝去。

風呂敷のデザインもしている。
1曲目、荒井由実さんの「ひこうき雲」。しょっちゅう聞いていた。主人がそれを知らなかった。一緒に聞いてもらった。学習院だった。
わかかったな。一人っ子だった。お見合いたくさんしていた。18歳から母がお見合いを頼んでいた。10人とはお見合いした。少ないな(サワコ)。全てお断りした。芝居をよく見に歌舞伎にも見に行っていた。友だちが遠い親戚が縁で、楽屋でお見合いした。その後、食事に誘われた。それから、私の実家に毎日ご飯食べに来ていた。

どういう世界か知らずに梨園の妻に。周りからは大変だよと言われた。結婚してから大変なことを知った。結婚する前に着物を着るのを習った。團十郎の母は亡くなっていたので、番頭さんがいろいろ教えてくれた。お客様への挨拶。京都のお客様訪問したら、上がってはいけないよ、3回断ることと。ある時印鑑が必要になった。舞台の前に電話したら、團十郎さんに叱られた。「そんなことは前もってやっとくものだ」。家の中のことは誰にも言わなかった。家庭内のことは言ってはいけないと思った。両親にも言わなかった。両親に言うと心配するので言わなかった。離婚しようとは思わなかった。主人が良い人だった。よく話を聴いてくれ、アドバイスしてくれた。なので、何でも相談していた。

團十郎襲名の時は、まだ若かったので、周りに教えて貰いながらやった。34歳だった。主人が39歳。歌舞伎座の大名籍の團十郎。
「一番大変だったことは、ごあいさつ回りが大変でした」。
2004年夫が白血病と診断された。白血病と聞いて駄目だと思った。主人は天を向いていた。闘病が10年。治ったり再発したり。最初風邪かと、でもなかなか治らない。舞台の後ろで酸素吸入したりしていた。
長女 ぼたんさんが介護してくれた。入院して夫は明るくなった。夫はずーっと話していた。家族の愛情を感じていた。治ると信じていた。舞台に出ると無理して、免疫力が落ちる。亡くなった時は、どうしたらよいかわからなかった。これまで主人にすべて話していた。5年経ったが、こんなに悲しいと思わなかった。5年経ったら、それがふわーと亡くなった。

TVを見た時、麻央さんがいいなと思っていた。息子が会わせたい人いるから綺麗にしておいてくれと。とても残念です。若いお嫁さんに指導することも、2人の孫ができたので、教える期間が短かった。

孫の勸玄君が5歳。「歌舞伎の道に進みたいと思います」と話した。それを聞いてすごく胸にきた。本当によくやっていると思う。お父さんの舞台も後ろで見ている。

「海老蔵さんも息子の面倒を見ているだろう。親父と違うだろう」。
勸玄の方がおっとりしていて、夫に似ている。息子はせっかち。お弁当作ったりと、元気でいないと。

2曲目はサザンの「いとしのエリー」。
サザンの曲を聞くと元気を貰える。コンサートにも行く。
いいですね。何とも言えない良い感じになり、また頑張ろうと思う。
團十郎さんを思いだすのは、勧進帳の姿かな。
ステキでした。
あのにらみは家で練習することはなかった。笑

感想
夫の白血病で闘病10年で逝去。そしてお嫁さんはがんで逝去。
それを受け容れながら真摯に生きて来られたように思いました。
とても優しい、おだやかな方のようでした。