幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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阿川佐和子さん「サワコの朝 山村紅葉さん」 ”いただくお仕事に感謝の気持ちで”

2018-09-15 08:10:38 | 生き方/考え方
女優。スーパーのレジ前の人のかごを見てどんな人とか、夕食は何だろうと推理する。
トリック女王と呼ばれている。
京都と東京に家があり行ったり来たり。
お母さんにも昔 インタビューさせて貰った。山村美紗の長女。これまで500本以上のドラマに。TBS「ブラックペアン」で死を覚悟した役。国税調査官だった。マルサの女だった。
インタビューを始めた最初のころにお母さんにインタビューした。お母さんは最初は学校の先生だった。その時の記憶はない。
1曲目は「スパイ大作戦」 母と一緒に見ていて、母と話ができた時間だった。懐かしい。至福の時間だった。母が興味あるものは遅くても見てよかった。
文章は母は厳しかった。なので母に見せずに出版社に出したが、掲載されてからけちょんけちょんに言われた。大人になっても認めてくれなかった。母が亡くなってからエッセイ集を出した。
早稲田に入った。一人暮らしだったのに夜門限8時だった。必ず家から電話しないといけなかった。違うところからかけたら背景が違うとか言われた。

幼少期は母に溺愛された。冷たいスープ皿に熱いスープを入れると、スープ皿がかってに動いた。テーブルと皿との間の空気が温められてお皿が動きやすくなる。推理小説は論理的だった。数学と幾何が好きだった。

夢は専業主婦。自分が出来なかったのをしたかった。大学生でデビューした。母の作品に記念として出てみないかと言われた。母も出てみたらと。結婚式で「燃えた花嫁」の役だった。監督がもっとバーナーを近づけろと。そうすると衣装さんがドレスが燃えると30万円する。衣装より私がもえてしまう。その監督がその後も使ってくれて、20本ほど出た。数々のドラマに出演したが、母がけなしていた。なので女優業は向かないと思っていた。

早稲田政経を出て就職先は国税局だった。脱税が多いのに学生時代に気づいて、脱税のお金を福祉に使えたらよいのではないかと思った。推理力で脱税で見つけたりした。電卓を打つ指に爪が伸びていると実際はやっていないなとか。1987年結婚。夫は大蔵省。話が面白かった。採用の時、女性の社会進出に理解がある人だと思っていたら、夫から「いつやめるの?」と言われた。自分の妻だけは専業主婦を希望していた。それですべて辞めたら、ピンチヒッターで1本でて欲しいと言われた。「京都離婚女優殺人事件」。結婚前だったので夫には結婚前だったので言わなかった。夫がニューヨーク転勤になった。その前に舞台が決まっていた。ニューヨークでオペラ座の怪人を見たら、本当にすばらしかった。主演俳優の“つかんだ栄光”に感動した。この舞台の役をいただいたありがたさを感じ、舞台に出ることにした。夫がその舞台を日本まで見に来てくれた。私が舞台に出て観客の評価を見て、「活き活きしていた」と言って理解してくれた。母は舞台は見に来てくれなかった。テレビの世界なら撮り直しできるし、山村美紗と娘として力もあるけど舞台は助けられないからと。母は娘は自分の作品に出るのだらかたくさんサスペンスを書かないといけないと思っていた。舞台には見に行かなかったが舞台のチケットを500枚買って、人に配って、感想を聞いていた。なので見に行かなければならなかった。亡くなってからそのことを知った。舞台とかバラエティとかいただいた仕事はやろうと思った。

2曲目は「オペラ座の怪人」。これを見なければ舞台はやっていなかった。
ニューヨークに行った時のドキドキした気持ちになりますね。今は主人は舞台を見に来てくれる。批判しかしないが。

感想
母親(山村美紗)の娘への思い、影で応援されていました。
舞台の仕事をやるかやめるか迷っていた時、「オペラ座の怪人」を見て、主演女優がこのチャンスをいただいた有難さをカーテンコールで話していたのを聞いて、せっかくいただいた舞台の役をやろうと思われたそうです。
自分の未来は自分が切り開いていくのでしょう。