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木村一基新王位、歓喜と涙の夜…46歳3か月の史上最年長初タイトル奪取劇を担当記者が見た 9/30(月) スポーツ報知
将棋の第60期王位戦7番勝負の第7局が25、26日に東京都千代田区の都市センターホテルで行われ、後手の挑戦者・木村一基九段(46)が110手で豊島将之王位(29)=名人=に勝ち、対戦成績4勝3敗で初タイトルの王位を奪取した。46歳3か月での初タイトルは史上最年長記録。苦労人の悲願成就を多くのファンが祝福した。タイトル獲得の夜を担当記者が振り返る。
とある質問を私がすると、木村は声を発しなかった。いや、発せられなくなったのだ。
感想戦後の合同取材。対局室を埋め尽くした記者とカメラマンの間から、私は「誰よりも喜んでいるのはご家族だと思います。奥さまと娘さんの存在、支えについてお言葉をいただけますか」と聞いた。直前まで努めて淡々と答えていた新王位は言葉を失い、メガネを外し、あふれ出る涙を手ぬぐいで拭いた。20秒後、私に視線を送り「…家に帰ってから伝えたいと思います…」と照れ笑いを浮かべながら言った。戦いの渦中では決して見ることのない「木村らしい顔」だった。
後から数人に「泣かす質問をして~」と言われたが、家族のいる46歳の男が夢見た頂点に立ったのだ。家族への思いをどうしても尋ねたかった。
将棋史において、誰もやれなかったことをやってのけた。46歳3か月での初タイトルは、1973年に当時37歳6か月の有吉道夫九段が棋聖を獲得した時の記録を46年ぶりに、大幅に更新する史上最年長記録。7度目の挑戦での奪取も史上最多。四段昇段(プロ入り)後期間の22年5か月、初挑戦(2005年度竜王戦)後期間の13年11か月も史上最長となった。
加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明、藤井聡太という中学生棋士5人の栄光が証明するように、将棋界は早熟の天才たちが時代を担う世界。平均より遅い23歳で四段に昇段した木村が46歳でタイトルを得たことは一つの革命であり、同じような立場から船出した棋士たちにとって、大いなる希望でもある。「(タイトルは)大変うれしいこと。ただただ無我夢中にやりました。年は取ってしまったのでしょうがない。精いっぱいやったということしか言えません」
開幕直前、木村に話を聞いた。「不安と、やれる、できるんだという思いが交錯してます」「苦しみ抜かなきゃいけないけど、耐えられるのかな、という怖さもあります」「自分には取れないんじゃないかってどこかで思う気持ちと…なら記録を破ってやろうかっていう気持ちと」「40代も半ばになりましたし、自分に他にできることはないのか、なんて考えたりもしましたけど…結局これ(将棋)しかない。逃げられないんです」「悔いは残したくないです。いつも悔いだらけだから」。相反する思い、揺れ動く思いの中で戦い続け、ついに頂点を極めた。
実は3年前の王位挑戦時も、木村が対局後の質問で言葉を失うシーンがあった。3勝2敗とリードしながら羽生王位(当時)に連敗して敗退した後、思いを問われて何も声を発せられなかった。「力がなかったんです。だから自分には縁がないものなんだって、折り合いをつけるしかなかった。運命だなんて思うのは…とても嫌ですよ」。座右の銘は「百折不撓(ひゃくせつふとう)」。何度失敗しても立ち上がり、闘い続けること。勝因を問われ「研究する量が増えました」と語ったが、想像を絶する「量」の根底には不屈の魂がある。
豊島前王位と同様に、ファンから絶大な支持を受ける棋士である。気さくな人柄、軽妙な話術も要因だが、最大の理由は敬意だろう。棋士という圧倒的な天才性への憧れではなく、苦しみながらも挑み続ける姿に自分自身の何かを鼓舞され、ファンは声援を送る。「お声掛けいただき、ファンレターもいただきました。『頑張れよっ』て言ってくださっているのを感じました。実際、力になったと思います。ありがたく感じています」。重圧ではない。木村は勇気に変えて戦った。
以前「木村へのエールは将棋ファンの間に静かに響く通奏低音なのだ」と書いたことがある。小さく響いていた低音の声は、木村新王位の誕生とともに日本全国で高らかな喝采に変わった。誇張ではなく、終局後の対局室にいると無数の声が聞こえてくるような気がした。
原稿を書き終えた後、打ち上げ会場で一言だけ声を掛けた。木村は折り目正しく、何度も頭を下げた後で「泣かされちゃいましたよ…」と笑っていた。顔を赤く染めていたのは、追い求めた勝利の美酒だった。(北野 新太)
◆木村 一基(きむら・かずき)1973年6月23日、千葉県四街道市生まれ。46歳。故・佐瀬勇次名誉九段門下。小学6年で小学生名人戦ベスト8。85年、奨励会入会。97年、23歳で四段昇段。2002年、新人王戦優勝。10年、朝日杯優勝。現代将棋では少数派の「受け(守備・防御)」の棋風で異名は「千駄ケ谷の受け師」。居飛車党。171センチ、66キロ。血液型AB。趣味はランニング。家族は妻と2女。
感想;
将棋のプロになるには、東大に入学するよりも難しいことです。
米長邦雄永世棋聖が下記の言葉を言ったとも。
「兄達(3人)は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」
将棋のプロになった人は、小さい頃から天才とか神童と言われた人がほとんどです。
そしてプロの養成所で競い合って、プロになれない人がほとんどです。
プロになっても、タイトルに挑戦することは至難の業であり、ましてやタイトル取ることは神業にも近い作業になります。
46歳3か月、これまでの努力が報われたのでしょう。
努力しても報われない世界でもあるのですが。
努力をし続けていなかったら、報われることはありません。
米長邦雄永世棋聖は、第51期名人戦で7度目の挑戦者となり、中原名人をストレートで降して初の名人位を獲得しました。49歳11ヶ月での獲得は最年長です。
米長邦雄永世棋聖は30歳で初タイトルを取っています。
それでも遅咲きと言われました。
「運を育てる―肝心なのは負けたあと」米長邦雄著
勝利の女神がほほ笑んでくれたのは、女神の微笑みに気づく努力を積み重ねてきたからであると書かれています。
まさに木村一基新王位は、夢を信じて日々の努力を積み重ねて来られたのでしょう。
木村一基新王位、歓喜と涙の夜…46歳3か月の史上最年長初タイトル奪取劇を担当記者が見た 9/30(月) スポーツ報知
将棋の第60期王位戦7番勝負の第7局が25、26日に東京都千代田区の都市センターホテルで行われ、後手の挑戦者・木村一基九段(46)が110手で豊島将之王位(29)=名人=に勝ち、対戦成績4勝3敗で初タイトルの王位を奪取した。46歳3か月での初タイトルは史上最年長記録。苦労人の悲願成就を多くのファンが祝福した。タイトル獲得の夜を担当記者が振り返る。
とある質問を私がすると、木村は声を発しなかった。いや、発せられなくなったのだ。
感想戦後の合同取材。対局室を埋め尽くした記者とカメラマンの間から、私は「誰よりも喜んでいるのはご家族だと思います。奥さまと娘さんの存在、支えについてお言葉をいただけますか」と聞いた。直前まで努めて淡々と答えていた新王位は言葉を失い、メガネを外し、あふれ出る涙を手ぬぐいで拭いた。20秒後、私に視線を送り「…家に帰ってから伝えたいと思います…」と照れ笑いを浮かべながら言った。戦いの渦中では決して見ることのない「木村らしい顔」だった。
後から数人に「泣かす質問をして~」と言われたが、家族のいる46歳の男が夢見た頂点に立ったのだ。家族への思いをどうしても尋ねたかった。
将棋史において、誰もやれなかったことをやってのけた。46歳3か月での初タイトルは、1973年に当時37歳6か月の有吉道夫九段が棋聖を獲得した時の記録を46年ぶりに、大幅に更新する史上最年長記録。7度目の挑戦での奪取も史上最多。四段昇段(プロ入り)後期間の22年5か月、初挑戦(2005年度竜王戦)後期間の13年11か月も史上最長となった。
加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明、藤井聡太という中学生棋士5人の栄光が証明するように、将棋界は早熟の天才たちが時代を担う世界。平均より遅い23歳で四段に昇段した木村が46歳でタイトルを得たことは一つの革命であり、同じような立場から船出した棋士たちにとって、大いなる希望でもある。「(タイトルは)大変うれしいこと。ただただ無我夢中にやりました。年は取ってしまったのでしょうがない。精いっぱいやったということしか言えません」
開幕直前、木村に話を聞いた。「不安と、やれる、できるんだという思いが交錯してます」「苦しみ抜かなきゃいけないけど、耐えられるのかな、という怖さもあります」「自分には取れないんじゃないかってどこかで思う気持ちと…なら記録を破ってやろうかっていう気持ちと」「40代も半ばになりましたし、自分に他にできることはないのか、なんて考えたりもしましたけど…結局これ(将棋)しかない。逃げられないんです」「悔いは残したくないです。いつも悔いだらけだから」。相反する思い、揺れ動く思いの中で戦い続け、ついに頂点を極めた。
実は3年前の王位挑戦時も、木村が対局後の質問で言葉を失うシーンがあった。3勝2敗とリードしながら羽生王位(当時)に連敗して敗退した後、思いを問われて何も声を発せられなかった。「力がなかったんです。だから自分には縁がないものなんだって、折り合いをつけるしかなかった。運命だなんて思うのは…とても嫌ですよ」。座右の銘は「百折不撓(ひゃくせつふとう)」。何度失敗しても立ち上がり、闘い続けること。勝因を問われ「研究する量が増えました」と語ったが、想像を絶する「量」の根底には不屈の魂がある。
豊島前王位と同様に、ファンから絶大な支持を受ける棋士である。気さくな人柄、軽妙な話術も要因だが、最大の理由は敬意だろう。棋士という圧倒的な天才性への憧れではなく、苦しみながらも挑み続ける姿に自分自身の何かを鼓舞され、ファンは声援を送る。「お声掛けいただき、ファンレターもいただきました。『頑張れよっ』て言ってくださっているのを感じました。実際、力になったと思います。ありがたく感じています」。重圧ではない。木村は勇気に変えて戦った。
以前「木村へのエールは将棋ファンの間に静かに響く通奏低音なのだ」と書いたことがある。小さく響いていた低音の声は、木村新王位の誕生とともに日本全国で高らかな喝采に変わった。誇張ではなく、終局後の対局室にいると無数の声が聞こえてくるような気がした。
原稿を書き終えた後、打ち上げ会場で一言だけ声を掛けた。木村は折り目正しく、何度も頭を下げた後で「泣かされちゃいましたよ…」と笑っていた。顔を赤く染めていたのは、追い求めた勝利の美酒だった。(北野 新太)
◆木村 一基(きむら・かずき)1973年6月23日、千葉県四街道市生まれ。46歳。故・佐瀬勇次名誉九段門下。小学6年で小学生名人戦ベスト8。85年、奨励会入会。97年、23歳で四段昇段。2002年、新人王戦優勝。10年、朝日杯優勝。現代将棋では少数派の「受け(守備・防御)」の棋風で異名は「千駄ケ谷の受け師」。居飛車党。171センチ、66キロ。血液型AB。趣味はランニング。家族は妻と2女。
感想;
将棋のプロになるには、東大に入学するよりも難しいことです。
米長邦雄永世棋聖が下記の言葉を言ったとも。
「兄達(3人)は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」
将棋のプロになった人は、小さい頃から天才とか神童と言われた人がほとんどです。
そしてプロの養成所で競い合って、プロになれない人がほとんどです。
プロになっても、タイトルに挑戦することは至難の業であり、ましてやタイトル取ることは神業にも近い作業になります。
46歳3か月、これまでの努力が報われたのでしょう。
努力しても報われない世界でもあるのですが。
努力をし続けていなかったら、報われることはありません。
米長邦雄永世棋聖は、第51期名人戦で7度目の挑戦者となり、中原名人をストレートで降して初の名人位を獲得しました。49歳11ヶ月での獲得は最年長です。
米長邦雄永世棋聖は30歳で初タイトルを取っています。
それでも遅咲きと言われました。
「運を育てる―肝心なのは負けたあと」米長邦雄著
勝利の女神がほほ笑んでくれたのは、女神の微笑みに気づく努力を積み重ねてきたからであると書かれています。
まさに木村一基新王位は、夢を信じて日々の努力を積み重ねて来られたのでしょう。