・収容者は次のようなワッペンをつけ、各カテゴリーに分類されていた。
ドイツ人政治犯、フランス人政治犯、スペイン政治犯、ユダヤ人政治犯、聖書研究会会員、亡命者、行動囚人、ユダヤ人亡命者、刑事犯、保安刑事犯、ユダヤ人刑事犯、非社会的分子、ユダヤ人の非社会的分子、労働教育囚人、ユダヤ人の人種冒涜者、ジプシー、同性愛者、懲罰隊の政治犯。
・カポや囚人頭の目を特に引いたのは、金歯だった。彼らは金歯をはめている囚人を見つけると、チャンスを見つけて殺して金歯を抜き、酒やタバコと交換した。たとえ殺さなかったとしても、彼らは朝から晩まで一日中、常に誰かを殴ってばかりいた。
・私はすぐに悟った。道路工事班にいると遅かれ早かれ死んでしまう。だからなんとかして、別の班に行かなければならない。そもそも私は身体が大きくもないし、力持ちでもない。
約二週間後、私はスロヴァキア時代の友人の助けでDAWの労働班に移ることになった私たちはこの部隊のことを「比較的よい部隊」と呼んでいた。
・私は最初、何が起きたのか分からなかったが、事情を察するとすぐに混乱に乗じて列から飛び出し、カポや作業監督の間を通り抜けて後ろに隠れた。しかしこれとても、ほとんど無駄なあがきでしかなかった。ガス室に送られないのはカポや作業監督だけだったが、私の服には腕章などついていない。見つかったら終わりだ。私はタイミングを見はからって、隣のブロックに逃げた。そしていくつのブロックの間を走り抜けると、囚人のグループが建物の間で雪かきをしていた。私は何も考えずにトラックに立てかけてあったシャベルを手に取ると、雪をすくいはじめた。そこにいた囚人は私の存在に気づいていたが、囚人には当然の連帯感で、誰も何も言わなかった。私にとって一番重要なのは作業監督だった。もし彼がグループのリストを作ってしまった後ならば、私はすぐに見つかってしまう。しかし、しばらくして作業監督が姿を現すと、手に持った紙と鉛筆で囚人の番号を記録し始めた。
・「地上の楽園」が整理作業班だった。私もこの労働班に入りたかった。これはかなり難しいことだった。私はなんとかしてこの部隊に入ろうと、古典的かつ危険な方法をとった。すなわち“忍耐と頑固”である。ある朝、囚人たちが仕事へ向かうために隊列を組んでいると、私も一緒に整理作業班に並んだ。カポはすぐに私の姿を見つけるとさんざん殴りつけ、もとの部隊に戻らせた。もちろん、こうなることは予測していた。しかし決してひるんではならない。私は次の朝も整理作業班の列に並び、もちろんまた見つかってさんざん殴られた。次の日も、またその次の日も同じことを繰り返した。そして五日目、ようやくそれまでの努力が実を結んだのだった。おそらく病気だったのだろう。その日、荷車作業班には欠員が二人できており、カポは新しい囚人を二人探していた。そのとき最初に目についたのが私だったのだ。彼は私の囚人番号をリストに書き込んだ。これで私こと囚人番号64401は荷車作業班に所属することになり、当面のところ餓死から逃れた。
・ビルケナウでもっとも悲惨なのは、女性囚人だった。彼女たちは髪を全部剃り上げられぼろぼろの服しかあてがわれないうえに、親衛隊の女性看守から酷い暴行を受けていた。看守が囚人を殴るのに、理由などいらなかった。ある囚人が折檻を受けると、罰として同じ部屋の囚人も水抜きになるということもまれではなかった。一方、整理作業班こと「カナダ」で働いていた女性囚人はまったく違っていた。顔つきは健康で、信じられないほどきれいない服を着ていた。毎日、清潔な下着を身につけることもできた。
・選別
4~6週間ごとの日曜日、ビルケナウにいたユダヤ人囚人全員が裸になり、五列になってそれぞれのブロックの前に並んだ。その前を親衛隊医師が、あたかも軍事パレードで閲兵するかのようにブロック担当の囚人頭と記録係を従えて歩く。そして彼が歩きざまに囚人を指すと、記録係が囚人番号を書き込んだ、なかには見るからにまだ働けそうな者もいたが、そんなこと関係なく、”選別“された囚人は労働不適格者の烙印を押され、次の日、ガス室へと送られた。
私はなんとしても生き延びたかった。・・・。そしてある日、ふと思いついた。母の再婚相手が助けてくれるのではないだろうか? 彼はユダヤ人ではなく、「アーリヤ人」だったのだ。その晩、私は親友のミキ・シュタイナーに自分の計画を打ち明けた。
「ミキ、俺は政治部に行って、自分はユダヤ人じゃないと言ってくるよ。許可さえもらえれば、自分がユダヤ人じゃない証明書を提出できるってね」
・6月23日、赤十字国際委員会が、入念に準備が整った収容所を訪問した。視察は相互にとって十分な満足のいく結果となり、そのうえナチスは委員会のメンバーに、他の収容所を訪問しても同じような状況だろうと思い込ませることができた。
・ナチスはユダヤ人だけでなく、シンティとロマも大量に虐殺した、。
・ハンガリーからビルケナウまで一万人のユダヤ人を運ぶのには貨車が約100両必要だったが、灰になるとトラック数台分だった、。灰はすべて、近くのヴィスラ川に捨てられた。
・ヴァルター・ローゼンベルクとアルフレト・ヴェツレルがビルケナウから脱走し、アウシュヴィッツの惨状を報告すると、アメリカが動き出した。ハンガリーの首相ストーヤイ・デメに、これ以上ユダヤ人をアウシュヴィッツに送るならチェベル島や他の工業地帯を空襲する、と警告したのだ。ストーキイ・デメはこの圧力に屈し、アウシュヴィッツへの移送は停止された。1944年5月中旬に移送が開始されてから、すでに約45万人のユダヤ人がビルケナウで殺されていたが、アメリカ政府の圧力により30万人のハンガリー・ユダヤ人の命が救われたのだ。
・アウシュヴィッツとビルケナウには厳重な監視体制がしかれ、逃げ出すのはほとんど不可能だった。しかしそれでも、ここから脱走しようとする人は後を絶たなかった。彼らの目的とは生きることではなく、何よりも、強制収容所の大量殺人を世界に告発し、死に脅かされている何万人もの囚人を助けようとすることにあったのだ。私がアウシュヴィッツにいる間にも、脱走を試みた囚人は何人かいたが、ほとんど成功しなかった。
・これらの囚人が試みた命がけの脱走のおかげで、ナチスの蛮行と、アウスヴィッツ・ビルケナウ強制収容所などで行われた数百万人におよぶ大量殺人の事実を、世界は知ることになる。
・1941年の段階では「アンドレアス作戦」と呼ばれていたこの計画は、世界史上、他に類を見ないものだった。この作戦のポイントは4つあった。
1) イギリス・ポンド紙幣とほとんど同じ用紙を作成すること
2) 細部まで完璧に再現できる完璧な刷版を作ること
3) 紙幣の記番号を解読すること。これは数学者が担当する
4) 偽造紙幣を全世界に流通させるための経路を開発すること
・イギリス人はお金を安全ピンで止めて、そのままポケットに入れる習慣があったので、ここ偽造工房にも、紙幣に安全ピンで止めた痕をつけるための特別なグループがあった。しかし囚人たちは、ブリタニア像が印刷されている、普通は絶対にない場所にわざと穴を開けた。彼らは、この工房という「黄金の鳥籠」から偽造について告発できたとき、これが手掛かりになると考えていたのだった。
・終戦時に流通しているポンド紙幣の約40%が贋札だったとされている。
・偽造紙幣の流通
国 贋札 割合(%)
スペイン、ポルトガル、スイス 750万 62.5
デンマーク、ノルウェー、スウェーデン 300万 25.0
トルコ、中東諸国 150万 12.5
・ナチスの利益は少なくとも4,800万ドル、1億9,200万ライビスマルクにのぼると見積もられている。もっとも、ほとんどが闇市場での取引だったので、ナチスのあげた利益はそれをはるかに上まわるという見方もある。
・ヤコブソンはすでに、贋札の製造を200回以上にわたって妨害していた。そんななか、囚人たちにヒムラーからの命令が届いた。
「四週間以内にドル紙幣印刷の準備を終えること。もしもこの予定が守られないようであれば、このプロジェクトに参加している囚人は全員射殺する!」
刻々と時間が過ぎていく。あと4日。もう時間稼ぎはできない。
150回目の試作品だった。・・・。できた。24枚のドル紙幣は、本物とまったく区別つかなかった。
・「この四人は人質だ。いいか、24時間以内に亜麻布の加工を終わらせるんだ。こいつらの命にかけてな。もしも明日の午前10時、布が出来上がってなかったら、この四人を撃ち殺す。いいか、こいつらの命を救うか救わないかは、お前ら次第だ!」。・・・。
あと45分しかない。みな途方に暮れてしまった。どうすればいいんだろう? しかしこのとき、製本工のひとりが素晴らしいアイデアを思いついた・
「板にワックスを塗ればいいんだ。板が亜麻布に触ると、最初にワックスが溶ける。で、布が燃える前に板を上げるんだ!」
感想;
強制収容所で生き延びたのは奇跡なのでしょう。
そして生きるためにできることをしないとその奇跡も起きなかったのでしょう。
贋札は相手国の経済を混乱させることと、軍事費の調達のために行われたのでしょう。
贋札に携わった人々も、出来る限りの抵抗をされたようです。
歴史を正しく知ることの大切さ。それは同じ過ちを繰り返さないためなのでしょう。
インパール作戦で3万人の兵士がほとんど餓死と病気で亡くなりました。
ノモハン事件では8千人が無謀な作戦のために命を落としました。注)
でもその作戦を企画実施した人々は生き延びました。
人はどこまで残虐なことができるか。
そのトップを選んでしまった国民にも責任があるのでしょう。
森友学園や加計学園の不正や「桜を見る会」の私物化など、小さなこととして許してしまうと、大きなことが起きたときには手遅れになっているのでしょう。
それが自分の身に起きてから初めて気付く前に気付いて声をあげる必要があるのでしょう。
注)
「失敗の本質」 戸部良一著他 ”繰り返さないための取り組みが行われているか?”
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/8d1fb7011b59c7a3eeaf0dcc037eccc8
ドイツ人政治犯、フランス人政治犯、スペイン政治犯、ユダヤ人政治犯、聖書研究会会員、亡命者、行動囚人、ユダヤ人亡命者、刑事犯、保安刑事犯、ユダヤ人刑事犯、非社会的分子、ユダヤ人の非社会的分子、労働教育囚人、ユダヤ人の人種冒涜者、ジプシー、同性愛者、懲罰隊の政治犯。
・カポや囚人頭の目を特に引いたのは、金歯だった。彼らは金歯をはめている囚人を見つけると、チャンスを見つけて殺して金歯を抜き、酒やタバコと交換した。たとえ殺さなかったとしても、彼らは朝から晩まで一日中、常に誰かを殴ってばかりいた。
・私はすぐに悟った。道路工事班にいると遅かれ早かれ死んでしまう。だからなんとかして、別の班に行かなければならない。そもそも私は身体が大きくもないし、力持ちでもない。
約二週間後、私はスロヴァキア時代の友人の助けでDAWの労働班に移ることになった私たちはこの部隊のことを「比較的よい部隊」と呼んでいた。
・私は最初、何が起きたのか分からなかったが、事情を察するとすぐに混乱に乗じて列から飛び出し、カポや作業監督の間を通り抜けて後ろに隠れた。しかしこれとても、ほとんど無駄なあがきでしかなかった。ガス室に送られないのはカポや作業監督だけだったが、私の服には腕章などついていない。見つかったら終わりだ。私はタイミングを見はからって、隣のブロックに逃げた。そしていくつのブロックの間を走り抜けると、囚人のグループが建物の間で雪かきをしていた。私は何も考えずにトラックに立てかけてあったシャベルを手に取ると、雪をすくいはじめた。そこにいた囚人は私の存在に気づいていたが、囚人には当然の連帯感で、誰も何も言わなかった。私にとって一番重要なのは作業監督だった。もし彼がグループのリストを作ってしまった後ならば、私はすぐに見つかってしまう。しかし、しばらくして作業監督が姿を現すと、手に持った紙と鉛筆で囚人の番号を記録し始めた。
・「地上の楽園」が整理作業班だった。私もこの労働班に入りたかった。これはかなり難しいことだった。私はなんとかしてこの部隊に入ろうと、古典的かつ危険な方法をとった。すなわち“忍耐と頑固”である。ある朝、囚人たちが仕事へ向かうために隊列を組んでいると、私も一緒に整理作業班に並んだ。カポはすぐに私の姿を見つけるとさんざん殴りつけ、もとの部隊に戻らせた。もちろん、こうなることは予測していた。しかし決してひるんではならない。私は次の朝も整理作業班の列に並び、もちろんまた見つかってさんざん殴られた。次の日も、またその次の日も同じことを繰り返した。そして五日目、ようやくそれまでの努力が実を結んだのだった。おそらく病気だったのだろう。その日、荷車作業班には欠員が二人できており、カポは新しい囚人を二人探していた。そのとき最初に目についたのが私だったのだ。彼は私の囚人番号をリストに書き込んだ。これで私こと囚人番号64401は荷車作業班に所属することになり、当面のところ餓死から逃れた。
・ビルケナウでもっとも悲惨なのは、女性囚人だった。彼女たちは髪を全部剃り上げられぼろぼろの服しかあてがわれないうえに、親衛隊の女性看守から酷い暴行を受けていた。看守が囚人を殴るのに、理由などいらなかった。ある囚人が折檻を受けると、罰として同じ部屋の囚人も水抜きになるということもまれではなかった。一方、整理作業班こと「カナダ」で働いていた女性囚人はまったく違っていた。顔つきは健康で、信じられないほどきれいない服を着ていた。毎日、清潔な下着を身につけることもできた。
・選別
4~6週間ごとの日曜日、ビルケナウにいたユダヤ人囚人全員が裸になり、五列になってそれぞれのブロックの前に並んだ。その前を親衛隊医師が、あたかも軍事パレードで閲兵するかのようにブロック担当の囚人頭と記録係を従えて歩く。そして彼が歩きざまに囚人を指すと、記録係が囚人番号を書き込んだ、なかには見るからにまだ働けそうな者もいたが、そんなこと関係なく、”選別“された囚人は労働不適格者の烙印を押され、次の日、ガス室へと送られた。
私はなんとしても生き延びたかった。・・・。そしてある日、ふと思いついた。母の再婚相手が助けてくれるのではないだろうか? 彼はユダヤ人ではなく、「アーリヤ人」だったのだ。その晩、私は親友のミキ・シュタイナーに自分の計画を打ち明けた。
「ミキ、俺は政治部に行って、自分はユダヤ人じゃないと言ってくるよ。許可さえもらえれば、自分がユダヤ人じゃない証明書を提出できるってね」
・6月23日、赤十字国際委員会が、入念に準備が整った収容所を訪問した。視察は相互にとって十分な満足のいく結果となり、そのうえナチスは委員会のメンバーに、他の収容所を訪問しても同じような状況だろうと思い込ませることができた。
・ナチスはユダヤ人だけでなく、シンティとロマも大量に虐殺した、。
・ハンガリーからビルケナウまで一万人のユダヤ人を運ぶのには貨車が約100両必要だったが、灰になるとトラック数台分だった、。灰はすべて、近くのヴィスラ川に捨てられた。
・ヴァルター・ローゼンベルクとアルフレト・ヴェツレルがビルケナウから脱走し、アウシュヴィッツの惨状を報告すると、アメリカが動き出した。ハンガリーの首相ストーヤイ・デメに、これ以上ユダヤ人をアウシュヴィッツに送るならチェベル島や他の工業地帯を空襲する、と警告したのだ。ストーキイ・デメはこの圧力に屈し、アウシュヴィッツへの移送は停止された。1944年5月中旬に移送が開始されてから、すでに約45万人のユダヤ人がビルケナウで殺されていたが、アメリカ政府の圧力により30万人のハンガリー・ユダヤ人の命が救われたのだ。
・アウシュヴィッツとビルケナウには厳重な監視体制がしかれ、逃げ出すのはほとんど不可能だった。しかしそれでも、ここから脱走しようとする人は後を絶たなかった。彼らの目的とは生きることではなく、何よりも、強制収容所の大量殺人を世界に告発し、死に脅かされている何万人もの囚人を助けようとすることにあったのだ。私がアウシュヴィッツにいる間にも、脱走を試みた囚人は何人かいたが、ほとんど成功しなかった。
・これらの囚人が試みた命がけの脱走のおかげで、ナチスの蛮行と、アウスヴィッツ・ビルケナウ強制収容所などで行われた数百万人におよぶ大量殺人の事実を、世界は知ることになる。
・1941年の段階では「アンドレアス作戦」と呼ばれていたこの計画は、世界史上、他に類を見ないものだった。この作戦のポイントは4つあった。
1) イギリス・ポンド紙幣とほとんど同じ用紙を作成すること
2) 細部まで完璧に再現できる完璧な刷版を作ること
3) 紙幣の記番号を解読すること。これは数学者が担当する
4) 偽造紙幣を全世界に流通させるための経路を開発すること
・イギリス人はお金を安全ピンで止めて、そのままポケットに入れる習慣があったので、ここ偽造工房にも、紙幣に安全ピンで止めた痕をつけるための特別なグループがあった。しかし囚人たちは、ブリタニア像が印刷されている、普通は絶対にない場所にわざと穴を開けた。彼らは、この工房という「黄金の鳥籠」から偽造について告発できたとき、これが手掛かりになると考えていたのだった。
・終戦時に流通しているポンド紙幣の約40%が贋札だったとされている。
・偽造紙幣の流通
国 贋札 割合(%)
スペイン、ポルトガル、スイス 750万 62.5
デンマーク、ノルウェー、スウェーデン 300万 25.0
トルコ、中東諸国 150万 12.5
・ナチスの利益は少なくとも4,800万ドル、1億9,200万ライビスマルクにのぼると見積もられている。もっとも、ほとんどが闇市場での取引だったので、ナチスのあげた利益はそれをはるかに上まわるという見方もある。
・ヤコブソンはすでに、贋札の製造を200回以上にわたって妨害していた。そんななか、囚人たちにヒムラーからの命令が届いた。
「四週間以内にドル紙幣印刷の準備を終えること。もしもこの予定が守られないようであれば、このプロジェクトに参加している囚人は全員射殺する!」
刻々と時間が過ぎていく。あと4日。もう時間稼ぎはできない。
150回目の試作品だった。・・・。できた。24枚のドル紙幣は、本物とまったく区別つかなかった。
・「この四人は人質だ。いいか、24時間以内に亜麻布の加工を終わらせるんだ。こいつらの命にかけてな。もしも明日の午前10時、布が出来上がってなかったら、この四人を撃ち殺す。いいか、こいつらの命を救うか救わないかは、お前ら次第だ!」。・・・。
あと45分しかない。みな途方に暮れてしまった。どうすればいいんだろう? しかしこのとき、製本工のひとりが素晴らしいアイデアを思いついた・
「板にワックスを塗ればいいんだ。板が亜麻布に触ると、最初にワックスが溶ける。で、布が燃える前に板を上げるんだ!」
感想;
強制収容所で生き延びたのは奇跡なのでしょう。
そして生きるためにできることをしないとその奇跡も起きなかったのでしょう。
贋札は相手国の経済を混乱させることと、軍事費の調達のために行われたのでしょう。
贋札に携わった人々も、出来る限りの抵抗をされたようです。
歴史を正しく知ることの大切さ。それは同じ過ちを繰り返さないためなのでしょう。
インパール作戦で3万人の兵士がほとんど餓死と病気で亡くなりました。
ノモハン事件では8千人が無謀な作戦のために命を落としました。注)
でもその作戦を企画実施した人々は生き延びました。
人はどこまで残虐なことができるか。
そのトップを選んでしまった国民にも責任があるのでしょう。
森友学園や加計学園の不正や「桜を見る会」の私物化など、小さなこととして許してしまうと、大きなことが起きたときには手遅れになっているのでしょう。
それが自分の身に起きてから初めて気付く前に気付いて声をあげる必要があるのでしょう。
注)
「失敗の本質」 戸部良一著他 ”繰り返さないための取り組みが行われているか?”
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/8d1fb7011b59c7a3eeaf0dcc037eccc8