いきなりだが、夫のちんぽが入らない。本気で言っている。交際期間も含めて二十年、この「ちんぽが入らない」問題は、私たちをじわじわ苦しめてきた。周囲の人間に話したことはない。こんなことが軽々しく言えやしない。
ちんぽが入らない私たちは、兄妹のように、あるいは植物のように、ひっそりと生きていくことを選んだ。
・物心ついたころから人と関わることが苦痛だった。小学校では誰かと目が合うだけで極度に緊張し、赤面し、どもり、最後には黙り込んだ。・・・。高学年に上がると、登校前に激しい腹痛を引き起こすようになった。そのことを母に相談すると「おまえは心が弱い、神経症だなんて情けない」と心配されるどころかきつく叱られたので、以後二度と口にしなかった。仕方なくお年玉やお小遣いでこっそり正露丸を買っていた。
・私は入居(大学に入り下宿)した日に最初に声を掛けてくれた青年と、のちに結婚することになる。その人は同じアパートの住人だった。
彼は、何の躊躇もなく、ずんずんと私の部屋に踏み入ってきた。
「おう、だいぶ片付いたようだな」
まるで親戚のおじさんみたいに親しげな口調で言った。なんだろう、この人は。自己紹介したほうがいいだろうか。言葉を失う私をよそに、彼の視線は作りかけのカラーボックスに留まった。そして、私の手からさっと板を奪うと、何も言わずにネジを回し始めた、呆然とした。立ち尽くすしかない。
・不意に彼が「付き合ってもらえませんか」と言った。
「付き合うというのはどういうことですか? どこへ?」
「えっ、わかんない?」
「すみません。ちゃんと聞いていなくて」
「だから付き合ってもらえないかって訊いたの」
「すみません。その前の部分を聞いていなくて。どこなか本当にわからなくて」
「前の部分なんてねえよ」「「ない? すみません。本当にわからない。どういうことですか?」
彼は信じられないという顔をした。正式に交際を申し込まれていることに気づいた私は感電したように「付き合いたい、です」と言った。
・住民票を移すよりも先に恋人ができた。人と深く関わることを避けてきたのに、この地に越してきた途端、生活が一変した。変わろうと強く意識する前に、大きな波に飲まれていた。だが、そんな驚きさえも吹き飛ぶくらい、もっと信じがたい出来事が私たちを待ち受けていた。
私と彼は、セックスすることができなかった。ちんぽが入らなかった。
私たちは周囲に話せないまま、この悩みをいつまでも共有することになる。
「おかしいな、まったく入っていかない」
「まったく? どういうことですか」
「行き止まりになってる」
耳を疑った。行き止まり。そんな馬鹿なことがあるだろうか。・・・。
初めてではないです。とは言えなかった。
・高校二年生の夏休みに一度だけ経験があった。
最終バスまであと三時間近くあった。そのとき知らない男の子に声を掛けられた。いわゆる不良ではない。ごく普通の気さくな高校生に見えた。なんの心の準備もなかったけれど、ここにいるよりもましだろうと思い、誘われるまま彼の家についてゆき、そうなった。・・・。
まだ経験のない私は、身近な相手とセックスすることに強い抵抗感を持つようになった。そんな恥ずかしいことを恋人や顔見知りの人間とできる気がしない。・・・。
どうしてもしなければいけないのなら、全然知らない人がいい、私はそう思った。
だから、祭りで声を掛けてきた見知らぬ高校生は「ちょうどいい」人だと思った。・・・。
あのときの投げやりな気持ちはどうあれ、一年前は確かにちんぽが入ったのだ。一度きりだが、入っている。
・(夫は)そういうお店(風俗)に、まだ通っていたんだ。・・・。
知らないままでいたかった。・・・。
不思議なことに、そのときの私の心を占めたのは、憎いとか汚らしいといった感情ではなかった。「ずるい」と思った。ただただ「ずるい」と思った。私を置いて、ひとりだけ「入る」世界へ行ってしまうなんてずるい。そのことに嫉妬していた。
・(小学校の先生になり)クラスが崩壊している、学校の体制に馴染めない、眠れない、ちんぽが入らないのをずっと気にしている、私は駄目な人間だと思う、本当のことを言うと風俗に行ってほしくない、風俗に行きすぎだと思う、でもちんぽがまともに入らないのでどうすることもできない、ごはんを簡単に捨てないでほしい(夫が作った食事を食べずに捨てる)、どれひとつとして言うことができなかった。
眠れない日が続き、憔悴していた。頬の肉が剥げ落ちた。それでも、教室では努めて明るく振る舞った。・・・。
・通勤途中に高台があった。ハンドルをちょっと左に切るだけで車体もろとも転がり落ちることのできる高さだった。朝、その湾曲したガードレールの白が目に飛び込んでくる。突っ切ってしまおうか、いやそんなことをしてはいけない。気持ちが大きく揺さぶられる。きょうが耐えられないほどつらい一日になったなら、あすの朝ここを乗り越えればいい。だから、きょうだけがんばってみよう。きょう一日だけ。死ぬことはいつだってできるのだから。私は気の迷いに流されてそのままふっと一線を越えてしまわぬようにハンドルを強く握り直した。
・一日の勤務を終えると、手帳の日付に大きくバツじるしをつけた。きょうも苦しいことが数えきれないくらいあったけれど、こうしてなんとか乗り切ることができた。この時間まで生きていることができた。その確認の、気持ちを整理するための、バツだった。
・死を頭の片隅に置くようになったころから、その日の思いをインターネット上に一言、二言、呟くようになった。それは日記サイトとも掲示板とも判別できない、とても簡素なサイトで、自己紹介の欄と自由に書き込めるページがあった。まだ「ブログ」という言葉も誕生していないインターネット創世記だった。
教師なのに子供を怖いと思っていること、何もできない自分がみじめで消えてしまいたくなること、死んで楽になりたいと思い始めていること、まわりの誰にも打ち明けられずにいる気持ちを綴るようになった。
やさしい言葉を掛けてもらいたいとか、理解してほしいわけではなかった。そんなことをネットの人に求めてはいなかった。どこかに放出しないと、今にも破裂してしまいそうだった。
・アドレスを載せた途端に、日記を読んだ人からメールが来るようになった。
「おじさん」と名乗る人物と合ったのはそんな時期(私は精神の浮き沈みがいっそう激しくなっていた)だった。・・・。
「どこかに行くのですか?」
私が無邪気に尋ねると「そら、ホテルですよ」と、何を今更という顔で答えた。・・・。
もうあとに引けなくなった。
すべてが終わったあと、汗まみれの「おじさん」が板をへし折るゴリラのように私をぎゅうと強く抱きしめて言った。
「君は大丈夫、全然大丈夫」
入ってしまった。血は一滴も出なかった。
私はまったく好意のない「おじさん」と、まったく問題なくことを終えてしまった。
なぜだと叫びたかった。認めたくなかった。
・その日から私は、あっという間に堕落していった。苦しいことが積み重なると、知らない男の人と会うようになった。学級が崩壊したスピードと同じくらいの速度で闇に堕ちてゆくのがわかった。
・子を産むためにこんな局部を切らして、血を流して、油(ローション)にまみてて、大事な薬も止めて、身体の節々を真っ赤に腫れ上がらせるなんて、命がけの産卵のようだった。
「子供、できるかな。私、育てられるかな」
血まみれのシーツの上で呟いた。
この作業を定期的に続けてゆくことも、産むこともすべてが不安だった。
「あんたの産む子が悪い子に育つはずがない」
夫はそう断言した。思いもよらない一言だった。・・・
それは父の一言がきっかけだった。
「うちの娘は気が利かないし、はっきりものを言わない、思っていることを全然言わんのです。まったく情けない限りですよ」
「そうですか? 僕はこんな心の純粋な人、見たことがないですよ」
・私は性のにおいのしない暮らしに、ようやく自分の居場所を見つけたような気がした。行為に及ぼうとする空気を敏感に感じ取り、身構えることもない、もう必要以上に自分を責めなくていい。
ここにいていい。安心して、ここにいていい。
・私は持病をこじらせて手足が奇妙な角度にひん曲がり、夫はパニック障害で通院を続けている。お互いなかなかの人生だ。
私は臨時教員(学級崩壊と精神面を患い退職した後しばらく経ってから)の仕事をまだ続けている。毎日事件は起こるけれど、あのころに比べれば、取るに足らないことばかりだ。「どん底」を持っているだけで、私は強い気持ちになれる。骨が曲がろうが、夫が精神科に通院しようが、「どん底」よりも格段に幸せである。
思い描いていたような教職の道は貫けなかったけれど、どれはそれでいいと思えるようになった。
・ちんぽが入らない人と交際して二十年が経つ。もうセックスをしなくていい。ちんぽが入るか入らないか、こだわらなくていい、子供を産もうとしなくていい。誰とも比べなくていい。張り合わなくていい。自分の好きなように生きていい。
・2014年春、懇意にしてもらっている仲間三人と合同誌『なし水』を制作し、即売会で頒布した。私は「夫のちんぽが入らない」という一万字のエッセイを寄稿した。売れたいとか執筆を仕事にするぞとか、そんな大それた動機ではなく、面白い文章を書く仲間に認めてもらいたくて、ただ自分の恥を全力で晒しにいった作品だった。三人にウケればそれで満足だった。しかし、こんなどうしようもないタイトルにもかかわらず、ネット上でじわじわと広がり、今回まさかの書籍化となった。
いつか目にするであろう私の夫に、心から感謝します。 こだま
感想;
死にたいけど苦しくても、今日一日だけは生きてみる。
死ぬのはいつでもできるから。
生きることへの力を与えてくれる本でした。
その力も強い力ではなく、柳に風のようなしなやかな強さを感じました。
きっと世の中には言えない様々な苦しみがあり、それを抱えながら生きている人が多いのでしょう。
それを話す/書くことは、著者も書かれているように、その苦しみを自分から“放す”ことになり、そしていつかそれが”離す”ことができているのでしょう。
今の状況にも居場所を感じ、自分を責めることをしない、人と比較しない。
そして今の幸せを感じることなのでしょう。
それは「どん底」を体験したからこそ、見つけられたのだと思いました。
ちんぽが入らない私たちは、兄妹のように、あるいは植物のように、ひっそりと生きていくことを選んだ。
・物心ついたころから人と関わることが苦痛だった。小学校では誰かと目が合うだけで極度に緊張し、赤面し、どもり、最後には黙り込んだ。・・・。高学年に上がると、登校前に激しい腹痛を引き起こすようになった。そのことを母に相談すると「おまえは心が弱い、神経症だなんて情けない」と心配されるどころかきつく叱られたので、以後二度と口にしなかった。仕方なくお年玉やお小遣いでこっそり正露丸を買っていた。
・私は入居(大学に入り下宿)した日に最初に声を掛けてくれた青年と、のちに結婚することになる。その人は同じアパートの住人だった。
彼は、何の躊躇もなく、ずんずんと私の部屋に踏み入ってきた。
「おう、だいぶ片付いたようだな」
まるで親戚のおじさんみたいに親しげな口調で言った。なんだろう、この人は。自己紹介したほうがいいだろうか。言葉を失う私をよそに、彼の視線は作りかけのカラーボックスに留まった。そして、私の手からさっと板を奪うと、何も言わずにネジを回し始めた、呆然とした。立ち尽くすしかない。
・不意に彼が「付き合ってもらえませんか」と言った。
「付き合うというのはどういうことですか? どこへ?」
「えっ、わかんない?」
「すみません。ちゃんと聞いていなくて」
「だから付き合ってもらえないかって訊いたの」
「すみません。その前の部分を聞いていなくて。どこなか本当にわからなくて」
「前の部分なんてねえよ」「「ない? すみません。本当にわからない。どういうことですか?」
彼は信じられないという顔をした。正式に交際を申し込まれていることに気づいた私は感電したように「付き合いたい、です」と言った。
・住民票を移すよりも先に恋人ができた。人と深く関わることを避けてきたのに、この地に越してきた途端、生活が一変した。変わろうと強く意識する前に、大きな波に飲まれていた。だが、そんな驚きさえも吹き飛ぶくらい、もっと信じがたい出来事が私たちを待ち受けていた。
私と彼は、セックスすることができなかった。ちんぽが入らなかった。
私たちは周囲に話せないまま、この悩みをいつまでも共有することになる。
「おかしいな、まったく入っていかない」
「まったく? どういうことですか」
「行き止まりになってる」
耳を疑った。行き止まり。そんな馬鹿なことがあるだろうか。・・・。
初めてではないです。とは言えなかった。
・高校二年生の夏休みに一度だけ経験があった。
最終バスまであと三時間近くあった。そのとき知らない男の子に声を掛けられた。いわゆる不良ではない。ごく普通の気さくな高校生に見えた。なんの心の準備もなかったけれど、ここにいるよりもましだろうと思い、誘われるまま彼の家についてゆき、そうなった。・・・。
まだ経験のない私は、身近な相手とセックスすることに強い抵抗感を持つようになった。そんな恥ずかしいことを恋人や顔見知りの人間とできる気がしない。・・・。
どうしてもしなければいけないのなら、全然知らない人がいい、私はそう思った。
だから、祭りで声を掛けてきた見知らぬ高校生は「ちょうどいい」人だと思った。・・・。
あのときの投げやりな気持ちはどうあれ、一年前は確かにちんぽが入ったのだ。一度きりだが、入っている。
・(夫は)そういうお店(風俗)に、まだ通っていたんだ。・・・。
知らないままでいたかった。・・・。
不思議なことに、そのときの私の心を占めたのは、憎いとか汚らしいといった感情ではなかった。「ずるい」と思った。ただただ「ずるい」と思った。私を置いて、ひとりだけ「入る」世界へ行ってしまうなんてずるい。そのことに嫉妬していた。
・(小学校の先生になり)クラスが崩壊している、学校の体制に馴染めない、眠れない、ちんぽが入らないのをずっと気にしている、私は駄目な人間だと思う、本当のことを言うと風俗に行ってほしくない、風俗に行きすぎだと思う、でもちんぽがまともに入らないのでどうすることもできない、ごはんを簡単に捨てないでほしい(夫が作った食事を食べずに捨てる)、どれひとつとして言うことができなかった。
眠れない日が続き、憔悴していた。頬の肉が剥げ落ちた。それでも、教室では努めて明るく振る舞った。・・・。
・通勤途中に高台があった。ハンドルをちょっと左に切るだけで車体もろとも転がり落ちることのできる高さだった。朝、その湾曲したガードレールの白が目に飛び込んでくる。突っ切ってしまおうか、いやそんなことをしてはいけない。気持ちが大きく揺さぶられる。きょうが耐えられないほどつらい一日になったなら、あすの朝ここを乗り越えればいい。だから、きょうだけがんばってみよう。きょう一日だけ。死ぬことはいつだってできるのだから。私は気の迷いに流されてそのままふっと一線を越えてしまわぬようにハンドルを強く握り直した。
・一日の勤務を終えると、手帳の日付に大きくバツじるしをつけた。きょうも苦しいことが数えきれないくらいあったけれど、こうしてなんとか乗り切ることができた。この時間まで生きていることができた。その確認の、気持ちを整理するための、バツだった。
・死を頭の片隅に置くようになったころから、その日の思いをインターネット上に一言、二言、呟くようになった。それは日記サイトとも掲示板とも判別できない、とても簡素なサイトで、自己紹介の欄と自由に書き込めるページがあった。まだ「ブログ」という言葉も誕生していないインターネット創世記だった。
教師なのに子供を怖いと思っていること、何もできない自分がみじめで消えてしまいたくなること、死んで楽になりたいと思い始めていること、まわりの誰にも打ち明けられずにいる気持ちを綴るようになった。
やさしい言葉を掛けてもらいたいとか、理解してほしいわけではなかった。そんなことをネットの人に求めてはいなかった。どこかに放出しないと、今にも破裂してしまいそうだった。
・アドレスを載せた途端に、日記を読んだ人からメールが来るようになった。
「おじさん」と名乗る人物と合ったのはそんな時期(私は精神の浮き沈みがいっそう激しくなっていた)だった。・・・。
「どこかに行くのですか?」
私が無邪気に尋ねると「そら、ホテルですよ」と、何を今更という顔で答えた。・・・。
もうあとに引けなくなった。
すべてが終わったあと、汗まみれの「おじさん」が板をへし折るゴリラのように私をぎゅうと強く抱きしめて言った。
「君は大丈夫、全然大丈夫」
入ってしまった。血は一滴も出なかった。
私はまったく好意のない「おじさん」と、まったく問題なくことを終えてしまった。
なぜだと叫びたかった。認めたくなかった。
・その日から私は、あっという間に堕落していった。苦しいことが積み重なると、知らない男の人と会うようになった。学級が崩壊したスピードと同じくらいの速度で闇に堕ちてゆくのがわかった。
・子を産むためにこんな局部を切らして、血を流して、油(ローション)にまみてて、大事な薬も止めて、身体の節々を真っ赤に腫れ上がらせるなんて、命がけの産卵のようだった。
「子供、できるかな。私、育てられるかな」
血まみれのシーツの上で呟いた。
この作業を定期的に続けてゆくことも、産むこともすべてが不安だった。
「あんたの産む子が悪い子に育つはずがない」
夫はそう断言した。思いもよらない一言だった。・・・
それは父の一言がきっかけだった。
「うちの娘は気が利かないし、はっきりものを言わない、思っていることを全然言わんのです。まったく情けない限りですよ」
「そうですか? 僕はこんな心の純粋な人、見たことがないですよ」
・私は性のにおいのしない暮らしに、ようやく自分の居場所を見つけたような気がした。行為に及ぼうとする空気を敏感に感じ取り、身構えることもない、もう必要以上に自分を責めなくていい。
ここにいていい。安心して、ここにいていい。
・私は持病をこじらせて手足が奇妙な角度にひん曲がり、夫はパニック障害で通院を続けている。お互いなかなかの人生だ。
私は臨時教員(学級崩壊と精神面を患い退職した後しばらく経ってから)の仕事をまだ続けている。毎日事件は起こるけれど、あのころに比べれば、取るに足らないことばかりだ。「どん底」を持っているだけで、私は強い気持ちになれる。骨が曲がろうが、夫が精神科に通院しようが、「どん底」よりも格段に幸せである。
思い描いていたような教職の道は貫けなかったけれど、どれはそれでいいと思えるようになった。
・ちんぽが入らない人と交際して二十年が経つ。もうセックスをしなくていい。ちんぽが入るか入らないか、こだわらなくていい、子供を産もうとしなくていい。誰とも比べなくていい。張り合わなくていい。自分の好きなように生きていい。
・2014年春、懇意にしてもらっている仲間三人と合同誌『なし水』を制作し、即売会で頒布した。私は「夫のちんぽが入らない」という一万字のエッセイを寄稿した。売れたいとか執筆を仕事にするぞとか、そんな大それた動機ではなく、面白い文章を書く仲間に認めてもらいたくて、ただ自分の恥を全力で晒しにいった作品だった。三人にウケればそれで満足だった。しかし、こんなどうしようもないタイトルにもかかわらず、ネット上でじわじわと広がり、今回まさかの書籍化となった。
いつか目にするであろう私の夫に、心から感謝します。 こだま
感想;
死にたいけど苦しくても、今日一日だけは生きてみる。
死ぬのはいつでもできるから。
生きることへの力を与えてくれる本でした。
その力も強い力ではなく、柳に風のようなしなやかな強さを感じました。
きっと世の中には言えない様々な苦しみがあり、それを抱えながら生きている人が多いのでしょう。
それを話す/書くことは、著者も書かれているように、その苦しみを自分から“放す”ことになり、そしていつかそれが”離す”ことができているのでしょう。
今の状況にも居場所を感じ、自分を責めることをしない、人と比較しない。
そして今の幸せを感じることなのでしょう。
それは「どん底」を体験したからこそ、見つけられたのだと思いました。