幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

3歳児虐待死 コロナで家庭訪問できず、市リストから漏れ 福岡・中間 ”自分たちの仕事はコロナで延期するような不要不急の仕事?”

2020-10-27 11:21:21 | 社会
https://mainichi.jp/articles/20201026/k00/00m/040/307000c 毎日新聞2020年10月26日
 福岡県中間市の集合住宅で同居する継父や母親から暴行を受けたとみられる3歳男児が8月に死亡した事件で、保育園などに通っていない未就園児の家庭訪問調査が新型コロナウイルスの影響で延期され、男児の安否を市が確認できていなかったことが、市への取材で判明した。男児は5月に同県八女市から中間市に転入。調査対象の家庭は毎年6月に抽出されていたが、国が今年の抽出を10月に実施するよう自治体に通知したため、市の訪問リストから漏れる形となった。

 事件は8月16日未明、中間市の集合住宅で末益愛翔(すえますまなと)ちゃん(3)が頭を殴られ意識不明の重体となり、搬送先の病院で全身にあざがあったことから発覚。愛翔ちゃんは11日後の27日、急性硬膜下出血に基づく多臓器不全で死亡した。

 県警は8月16日に傷害容疑で継父のとび職、涼雅(りょうが)被告(23)=傷害罪などで起訴=を逮捕。ペット用トイレの砂を口に入れていたなどとして9月4日に暴行容疑で涼雅被告を再逮捕、母親の歩(あゆみ)被告(22)=同=を逮捕した。捜査関係者によると、2人による虐待行為は結婚を機に中間市の涼雅被告宅に移り住んだ後に始まり、次第にエスカレートしていったとみられる。

 愛翔ちゃんは転居前の八女市で歩被告の実家で暮らし、地元の保育園に通っていた。歩被告が送り迎えをしていて、子供が同じ保育園だった女性は「普通の親子関係に見えたので(事件の)ニュースに驚いた」と話す。八女市によると、保育園から虐待を疑う通報はなく、愛翔ちゃんは生後4カ月▽10カ月▽1歳半▽3歳――の乳幼児健診を受けていずれも問題はなかったという。歩被告の母親は毎日新聞の取材に「こちらでそういう(虐待のような)ことはなかった」と言葉少なに語った。

 一方、愛翔ちゃんは転入先の中間市では保育園に通っておらず、厚生労働省の依頼で各自治体が虐待防止のため未就園児家庭に実施している訪問調査の対象になるはずだった。しかし、今年は新型コロナの感染拡大の影響で当面は訪問調査が困難だとして、厚労省は住民票を基に対象家庭を洗い出す「基準日」を6月1日から10月1日にするよう自治体に通知し、結果として愛翔ちゃんは安否確認のリストに上がらなかった。

 担当の中間市職員は「訪問して(虐待を)見抜けたかどうかは分からない。ただ今回はそのチャンスさえなかったのが残念だ」とうなだれた。【成松秋穂、中里顕、浅野孝仁】

愛翔ちゃんが受けたとされる主な虐待行為
2020年5月   福岡県八女市から同県中間市に転入
       継父との同居生活が始まる
  7月2日    両目にセロハンテープを貼られる
  7月19~20日 暴行を受けて顔面に皮下出血
  7月23~24日 下腹部周辺を暴行され恥骨骨折
  7月31日   ペット飼育用の砂を口に入れられる
  8月9日    足を暴行され皮下出血
  8月15~16日 頭を数回殴られ急性硬膜下出血
  8月16日   継父を傷害容疑で逮捕
  8月27日   多臓器不全で愛翔ちゃん死亡
  9月4日    母を暴行容疑で逮捕
※福岡県警、福岡地検小倉支部が立件した内容に基づく

感想
コロナだからと言って、病院は閉鎖するでしょうか?

担当の中間市職員は「訪問して(虐待を)見抜けたかどうかは分からない。ただ今回はそのチャンスさえなかったのが残念だ」

チャンスは自ら掴むものではないでしょうか?
残念ではなく、自分たちが助けられなかったことを反省しこれからに活かして欲しいものです。
見ぬけたどうかわかないと責任逃れの言い訳までしています。
最善を尽くしたのならまだしも、やれることをやっていなかったのですから。
未就園児童の中には虐待などのリスクが高いと認識をすることからスタートではないでしょうか?

インフルエンザ予防ワクチン接種後に死亡 韓国で計59人に ”何かおかしいと感じるセンスが必要!”

2020-10-27 11:07:44 | 社会
https://news.livedoor.com/article/detail/19119280/ 2020年10月26日聯合ニュース

【ソウル聯合ニュース】韓国疾病管理庁は26日、インフルエンザ予防用ワクチンの接種後に死亡した人が今月16日から26日午前0時までに全国で59人確認されたと発表した。前日午前0時時点から11人増えた。

 疾病管理庁はワクチンと死亡との関連性は非常に低いとし、無料接種を続ける方針を示した。

 死亡者は70代と80代がそれぞれ26人で最も多く、60代未満が5人、60代が2人となっている。

 同庁は、インフルエンザワクチンの接種後に死亡した人が相次いでいることを受け、20人を対象に死因の分析を進めたが、急性アレルギー反応の「アナフィラキシーショック」の事例はなく、その他の異常反応もなかったと判断した。

 また同じ製造番号のワクチンを接種して死亡した人は14人いたが、ワクチン接種と死亡との関連性が認められたケースはなかったという。

 これに先立ち、同庁の予防接種専門委員会は23日、初期の死亡者26人の死因を分析した結果、ワクチンと死亡の因果関係は認められなかったと発表し、国の予防接種事業を中止する段階ではないとの見解を示した。

 死亡者59人のうち、46人については、ワクチン接種と死亡との関連性が低いという結果が出たものの、同庁は残りの13人をはじめ、今後の事例についても、調査を続けていくことを決めた。

感想
韓国のインフルエンザ予防ワクチンの製造は5社です。
今回の死亡者数が、会社によって違うのかどうかは調べられたのでしょうか?

昨年は死亡者は2人です。
すでに59人ということは何かおかしなことが起きていると判断するのが妥当です。
かつ、これまでインフルエンザ予防接種受けた人が何人で、よって死亡率は何%のデータも出して欲しいです。

政府が判断されないなら、70代以上は控えた方が良いかと思います。
ぜひ年代別死亡率を出して欲しいものです。
それがあるとリスクとメリットの判断の一助になります。

遅れれば遅れるほど、死亡者は増えます。

「ワクチン接種と死亡との関連性が低いという結果」
この言葉は、関連がないと断定していません。
低いのがもしインフルエンザワクチン接種して0.1%以上亡くなっているなら、インフルエンザでの死亡率より高くなります。

「同じ製造番号のワクチンを接種して死亡した人は14人いたが、ワクチン接種と死亡との関連性が認められたケースはなかった」
他のロットではどの程度起きているのか?
ロット数から考えると、このロットで何か問題がある。しかしそれは今わからない。
でも死亡リスクを減らすために、このロットの回収をするという判断が妥当だと思います。

菅氏の著書削除問題で文藝春秋がコメントを発表 ”菅首相 削除を承認!”

2020-10-27 09:38:18 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/53e6b82862f0feaf391c1de0df25ebc60b171bb5 10/26(月)日刊スポーツ
菅義偉首相が自民党の野党時代に記した単行本をもとに、このほど改訂版の新書として出版された「政治家の覚悟」(文藝春秋刊)から、公文書に関する記述が削除されたと指摘が出ている問題で、出版元の文藝春秋は26日、文春新書編集部のコメントを発表した。「特定の文言の削除を意図したものではない」としている。

削除されたと指摘が出ている記述は、12年3月に出版された単行本「政治家の覚悟 官僚を動かせ」の第四章「東日本大震災で露呈した政府の機能不全」にあるくだり。

「千年に一度という大災害に対して政府がどう考え、いかに対応したかを検証し、教訓を得るために、政府があらゆる記録を克明に残すのは当然」「議事録は最も基本的な資料です」と書かれており、議事録の保存の必要性に触れている。

編集部はコメントで、新書の内容について「(単行本のうちの)菅氏の政治キャリアのわかる第一章、第二章をベースとして、菅氏の官房長官時代のインタビューなどを加えて編集したもの」と主張。一方で、単行本の第三章と第四章については「野党時代の菅氏の民主党政権への批判が中心」とした上で「本の総ページ数など全体のバランスを考えた上で、編集部判断で収録しない構成案を作成した」という。

その上で「新政権誕生というタイミングで、この構成案を菅氏に示し、了解を得て出版したもの」とし、菅首相も了承していたことを明らかにした。

「千年に-」のくだりについては「当時の民主党政権の東日本大震災への対応について述べたもの」だと、している。

感想
出版社が改訂版を勝手に発行することはありません。
事前に改訂の了解を菅首相に求め、ひょっとしたらそこで削除の確認もされ、最後に出版原稿案を菅首相が了解されたと思います。

しかし、前の本は生きており、改訂版で直しても発言の事実は残っています。
返って、話題になったその矛盾した言動と行動があらためて国民に知られたことになり、”藪蛇”になったようです。

もっと堂々とされたらよいと思うのですが。
過去を変えることはできません。
都合の悪いところを変えたという、度量の小ささを示されたようです。

「ベートーヴェン不滅の恋人」青木やよひ著 ”愛の苦悩を昇華させ楽曲へ”

2020-10-27 01:08:18 | 本の紹介
・1802年の10月、ベートーヴェンが自殺の誘惑にかられて「ハイリゲンシュタットの遺書」とよばれる弟宛の手紙を書いたことはよく知られている。ジェリエッタに「月光ソナタ」献呈してから7か月後のことである。
そして立ち直らせたものは何だったのか? それは「芸術だった」と彼自身が書いている。「自分が使命を自覚している仕事をしとげないでこの世を見すててはならない」と思われたからだった、と。

・ヨゼフィーネ・ダイム宛
「それはそうと、私が現在、思うように仕事が手につかないでいるのは事実です。ある内面的な苦しみが、長いあいだ、いつもなら私にある集中力をうばいとってしまったからなのです。あなたに対する愛がめばえたころから、それがいっそうひどくなったのです。」
「長い-長い-忍耐が、私たちの愛には必要なのでしょう。・・・あなたの心臓が私のために打つときはいつくるのか-私の心臓-死ぬまであなたのために打ち続けるでしょう。・・・。私がこれ以上のぞむことは、私によってあなたが少しでも幸せになるようにということです。・・・」

・生涯をとおして、彼の異性との交遊地図を作ろうとすると、その数の多さと複雑さに、しばしば当惑させられてしまう。彼自身としては、友情と恋愛ははっきり分けていたつもりらしい。 
・・・ともかく彼が、ひたいにシワをよせていつも深刻ぶり、人を寄せつけずに自分の世界に閉じこもっていた孤高の芸術家でなかったことはたしかだ。むしろ、美しい自然と美しい女性にはたちまち心を動かされ、おいしい食事と上等のワインには目のない人だった。女性と子どもには、おしなべて親切で優しかったらしい。

・母も結核を病んでおり、ベートーヴェンが16歳のときに亡くなる。

・彼は、「女性を眺めるのが大好きだった」とフェルディナント・リースが書いている。この人は、1800年ごろから数年間ベートーヴェンの弟子として彼の身近にいた。

・「すぐれた人間は苦悩をつきぬけて歓喜にいたる」というベートーヴェンの言葉は、彼が(エルデーディ)夫人に書いた手紙の中の一節である。

・ベートーヴェンとは、一方で恋多き男でありながら、他方では言葉の力によって人の魂の聖堂をひらき、そこに慰めの香油をささげることのできる人でもあるのだ。人間のうちなる聖と俗とのあいだを、これほどドラマティックに生きた男性は、ほかにないのではないだろうか。

・「もともと私は、人妻とは友人以上にはけっして立ち入らぬことを、重要な第一の信条にしています。それに、そのような関係を持つことによって、いつか私と運命をともにするかもしれない女性に対して、不信感を抱かせたくないのです。」

・身分に縛られたくない、という彼の独立自尊の志が発揮されるのは、相手が自分よりも高い社会階層の女性であっても、彼に共感を示すかぎり臆することなく手をさしのべるという結果になる。そしてそれは、彼が恋人として、あるいは異性の友人として留まるかぎり、ほとんど成功したのだった。そのことは、彼の少年時代からの信頼すべき友人であるヴェーゲラーやブロイニング、あるいは弟子のリースたちが口をそろえて証言している。

・たしかに彼は、なん度か求婚して断られたらしい形跡がある。しかしそれによって致命的な打撃を受けた様子はない。むしろ恋愛体験の一つ一つから人生の迷妄をさとり、人間として成長しながら芸術家としてのより高いステップへと足がためをしてゆくベートーヴェンが見られる。たとえば、ジュリエッタのあとでは「エロイカ」が、ヨゼフィーネのあとでは「運命」が生まれているからだ。

・彼にとっては、ヴィクトリア朝的性モラルなどは問題ではない。それよりも、男が女を従属させたり、そのことによって人間の自由が束縛されることの方がずっと重大問題だったのだ。

・ベートーヴェンという人は、普通考えられているよりもずっと読書家だった。ゲーテやシェイクスピアはもとより、ブルータルコスやインドの聖典まで親しみ、気に入った章句をそらんじたり書き写したりしてたい、それらの引用や哲学的な言いまわしを好み、そうした会話ができる人でなければ長つづきしなかった。彼の女友だちや恋人が教養を身につけた上流階級の女性だったのはそのせいであって、けっして彼が身分を重んじたためではない。

・要するにベートーヴェンにとって、女性とは人生の辛さをやわらげ、生きる希望を掻き立ててくれる憧れの星であった。

・異性宛でDuが使われている手紙(不滅の恋人宛)はこれだけしか残っていない。

・恋人の条件(手紙によると)
1)1812年夏の時点で彼がDuとよぶほど親密な関係にある相思相愛の女性
2)にもかかわらず、結婚あるいは共にくらすことができない困難な状況にある
3)それだけでなく、二人の関係は絶対に知られてはならない立場にある
4)彼よりも若く、この時点でひどく苦しんでる

・恋人のチェック・ポイント(手紙によると)
1)7月5日前後にカールスパートに滞在していたかどうか
2)7月3日にプラハで彼に会う可能性があったかどうか
3)7月6日以後彼に再開する可能性があったかどうか
4)ウィーン在住者かどうか

・彼女(アントーニア・ブレンターノ)
「死の沈黙が私の魂を支配しています」

・やがてアントーニアは、ベートーヴェンのシャレや冗談に笑うようになっている自分に気づく。もう二度と笑うことなどないと思っていたのに、昔の“トーニ”がいつもまにか笑顔にやどっていた。そうした彼女が、ベートーヴェンには輝くばかりに美しく見えたことだろう。

・求婚した形跡のあるものだけでも三例ある。・・・。いずれの場合も、拒絶されていながら、彼がそれによって決定的な打撃を受けたという痕跡がない。
「手に入れられかもしれない2、3人の女性」が自分の妻にならなかったことを喜びとさえしていたのだった。

・彼は「もし私たちが完全に結ばれていれば、あなたも私もこうした苦しみをそれほど感じなくてすんだでしょう」と書いているからである。

・再婚したユゼフィーネが産んだ7番目の末っ子ミノナ・シュタッケルベルクはベートーヴェンの子どもだったというのである。この説は当時、あまりにもショッキングな推論だとして、一部のベートーヴェン学者から反発を買ったが、ブルンスヴィック側の資料を探求すると否定しきれない部分がいまだに残っているのである。

・「音楽もなしに、毎日墓場に近づく稽古をしている」とズメスカルに書いている。わずかに彼を生につなぎとめていたのは、小さな甥のカールだった。
「神よ、助けた前! ・・・ただ未来に、カールといっしょに暮らしたいという私の願いを聞とどけたまえ」

・こうして、作品106のピアノソナタ、『第九交響曲』、そして『ミサ・ソレイムス』などの楽想が彼の中でいっせいに身動きする。

・この大曲(ミサ)の「キリエ」の最初のページには、余白に彼の手でこう書きこまれている。
「心より出て、願わくばふたたび、心にいたらんことを!」

・ベートーヴェンの葬儀が行われたのは、1827年2月29日の午後だった。・・・その数は二万人にふくれあがっていた。

・1813年3月8日に生まれた彼女(アントーニア)の末っ子カールが、重度の障害児だったことが、ベートーヴェンとの愛を最終的に彼女に断念させた原因であろうという推測をわれわれは抱いた。・・・。ベートーヴェンが1818年を境にに、絶望の淵からよみがえってみずからの生を肯定したように、彼女もまたその時期に、情熱の嵐から抜け出して友情の港へたどりつきつつあったように見える。

・ベートーヴェンが現れて、アントーニアの人生の風景は一変した。それは、生まれてはじめて体験した愛することの喜びと苦しみが交錯する嵐のような数年間だった。二転三転する運命に翻弄されて、ともすれば自分を見失いそうになるとき、傍らにあって、世間や親族の好奇心や中傷から彼女を守ってくれたのがフランツ(夫)だった。そうした行為は、彼らの関係が安定してからでも観られた。

感想
ベートーヴェンにも苦悩を抱えていたことがわかりました。
そしてその苦悩には”愛”が関係していたのです。

失恋しても失恋しても懲りずに愛を追求していく姿、当然なにも手をつけらないときも、深く落ち込むこともありましたが、それを乗り越えそしてそれが失恋の痛手も含めて素晴らしい楽曲作成のエネルギーになったようです。

人を愛することがいかに大切かを実践し、それが作品に昇華していったのでしょう。