41歳で脳梗塞で倒れたものの、懸命なリハビリの末に現場復帰したルポライターその闘病生活を支えた「お妻様」、実は「大人の発達障害さん」なのでした。「家事力ゼロだったお妻様」と、高次脳機能障害となった夫が、悪戦苦闘しつつ、「超動けるお妻様」と「妻を理解できる夫」になるまでの、笑いあり涙ありの18年間を辿ります。
・2015年5月、僕は脳梗塞を発症し、軽度の高次脳機能障害を抱えることとなった。
だが実はこの高次脳機能障害とは、「後天的発達障害」と言い換えてもよいほどに、その当事者感覚や抱える不自由感が一致している。もちろん脳の先天的障害である発達障害と違い、高次脳機能障害はリハビリや時間経過である程度の回復が望める。
僕自身の高次脳機能障害もほぼ2年をかけて大幅に改善したが、ここがポイント。僕自身が高次脳機能障害を抱えたということは、僕が一時的とはいえお妻様と同じ不自由感を味わったということだ。
「ようやくあたしの気持ちがわかったか」。そうお妻様は僕に言い、障害をもつ者の先輩として、僕の障害の受容やリハビリを全面的に支え続けてくれた。その一方で僕は、後悔の念に苛まれまくることになった。
「なんで〇〇できないの?」
険しい口調で、いったい何百回、何千回、僕はお妻様のことをなじり続けてきたことだろうか。自らが当事者になるまで正しく理解していなかったが、障害とは、何らかの機能が欠損していて、それによって苦しさを抱えるということを。
その本質を知らずに僕がお妻様に言い続けてきた叱責の言葉は、片足を失ってしまった人に、「なんで両足で歩かないの? 遅いから両足で歩けよ」と言い続けてきたようなものだった。両足揃っている僕は、片足の彼女に「みんなだって歩くの大変なのに頑張ってるんだよ」と平然と言っていた。なんという残酷なことを、無意識にやってきてしまったのだろう。
・彼女様が頻繁に鼻歌していた「わたしは駄目な子要らない子」だった。
彼女様の子ども時代を聞いていると、とにかく「褒められたことがない」「叱られてばかり」というエピソードがゴロゴロ出てくるのだ。
・今になって思えば、彼女の子ども時代のエピソードはどれも学習障害やADHD(注意欠如・多動症)を疑うものばかりなのだが、残念ながらその当時、発達障害はまだまだ一般に認知されていなかったし、発達障害はあくまで子どもの問題で、その障害が大人になっても残ることはないという言説も根強かった。
・会社を辞めて自宅を仕事場にすれば、僕の小言と彼女様のリストカットという無限ループからは脱出できるのではないか。9割の不安と1割の期待といった心理状態で踏み出した、ふたりの新生活。
・担当医の勧めに従ってバイトを始め、驚くほどの力強さで精神科処方の離脱症状と戦い抜き、見事自力での断薬に成功した彼女様、同時にリストカットの頻度は減っていき、彼女様の手首からは、一本一本と瘡蓋が消えていった。薬の副作用で常にぼんやりとしていた彼女様の目に以前の眼力が戻り、会社で数々の糞伝説を作り続けていた頃の活力が戻ってきた。ついでに手のつけられない奇行もカムバックしてきたが、僕の中ではなによりも「あの彼女様が戻ってきた!」という喜びのほうが大きかったように思う。
・大人の発達障害が雑誌などである程度頻繁にとりあげられるようになった時期、同時に子どもの発達障害に対して海外の新薬を承認・導入しようとする流れが大きくなっていた。その薬剤名は「コンサータ」。現在では大人の発達障害にも処方されているものだが、この薬に僕は少し引っかかってしまったのだ。
なぜならコンサータなる新薬は、国内で「麻薬代わり」として乱用が大きな問題となった「リタリン」という薬剤をベースに、その依存性を軽減したり遅効・緩効にすることで乱用リスクに配慮した改良バージョンであって、その元となったリタリンの乱用者を僕は幾人か取材していたからだった。
・2011年11月11日、その日の前後のことは、思い出したくないと思っても細かな出来事や時刻まで克明に覚えている。病院で脳腫瘍と診断され、そのまま意識を失ったお妻様は、当然のことながら緊急入院となった。非常に大規模で困難な手術となるため、手術日は15日に設定。ベッドの上で、目を向けるのも苦しいほどの七転八倒が始まった。
お妻様は、文字通り生死をさまよった。
・膠芽腫、脳腫瘍の中でも最も悪性度が高いもの、5年後の生存率8%(幸いその8%に入った)。
一命を取り留め、そのパーソナリティを失わずに済んだ。そんな喜びから急転直下、2011年末、主治医より告知された腫瘍の組織検査の結果は、考え得る最悪のものだった。
・41歳、僕は脳梗塞に倒れた。右側頭葉に、アテローム血栓性脳梗塞発症。
・お妻様が16年間僕に言い続けてきたことは、一貫して「そばにいてほしい」「一緒にいる時間がもっとほしい」「どこそこに行きたいね(一緒に)」といった願いばかりだったじゃないか。
・「小学校低学年の頃、あたしも漫画のコマが次にどこのコマにつながっているのかわからなかった」
「親や先生に〇〇しなさいと言われて、頭の中で何度も復唱しても、なにを言われたかすぐにわからなくなって、あとから『なんでやってないの? 言ったよね』って年中言われていた」
「お前は人の話が右耳から左耳に抜けてるって言われて、左耳の穴押さえてた」
・お妻様は複数のことを同時にお願いされると、まず確実に一つは忘れてしまう。
・算数で習う約分のように、徹底的に割り切れなくなるまで作業を小さく分断して、その順序通りに、ひとつの作業が終わったら次の作業という風に、的確な指示を出す。作業中に次の作業や別の頼み事は、決して言ってはならない。これが鉄則だ。
・丁寧なメモを持って出かけて、赤ペンでチェックまで入れて、それでも買い忘れてしまう。
(買う前にチェック入れていた。買ってからチェックを入れることをしていなかった)
・お妻様から治療したいという言葉を聞かないこともあるが、よくよく自分自身を顧みると、出てきた答えは「発達障害も含めたお妻様のパーソナリティが好きだから」だった。
感想;
発達障害は人によってもさまざまのようです。
著者は脳梗塞を体験し、高次脳機能障害になり、脳が十分働かないことを体験したことで、妻の発達障害の大変さを実感されたようです。
それまでは、「何でそんなことができないの?」と責めることが多かったそうです。
その言葉も負担になっていたようです。
自分が体験することは出来ないですが、話を聴くことで、その大変さを理解し、どう接していいかを学ぶことで、発達障害の人もやりやすくなるのだと思います。
そしてその人が持っている才能も生かされて行くのだと思います。
NPO法人DDAC(発達障害をもつ大人の会)
http://www.adhd-west.net/
「発達障害のある子どもたちの学びに関わる問題」
フォーラム NPO法人発達障害をもつ大人の会(DDAC)代表 広野ゆい氏【前編】
https://berd.benesse.jp/special/co-bo/co-bo_theme3-9.php