・母親は死の床についた。誰よりも愛した息子への最後の言葉は、いかにも彼女らしく力強いものだった。「幻想を断ちなさい。言葉ではなく、仕事で主張しなさい。辛抱強く、神と科学の真実を捜し求めなさい」。メンデレーエフはこの言葉を決して忘れなかった。37年後には、母親の想い出に捧げるとした科学論文で、この言葉を引用し、こうつけ加えている。「ドミトリ・メンデレーエフは、母の臨終の言葉を神聖なものと考える」。
・『化学の原理』の執筆
たとえば第1巻の終わりには、フッ素、塩素、臭素、ヨウ素からなるハロゲン族が載っている。
・メンデレーエフはいっている。「私は夢のなかで、全ての元素が定められた場所にうまく当てはめられた表を見た。目を覚ますと、すぐにそれを紙に書きとめた」。メンデレーエフは夢のなかで、元素を原子量の順に表にすれば、それぞれの性質が一定の周期で繰り返されることを理解した。そこで彼は自分の発見を元素周期表と名づけた。
・パターンに会う元素のないところは、あっさり空所のままにしたのである。そして、そうした空所はいつか未発見の元素が埋まるだろうと予言した。
・マイヤーはメンデレーエフと同じような流れで研究してきたので、元素間のパターンについてほとんど同じものを、まったく同時期に発見していた。ではなぜ、周期表発見の栄誉はメンデレーエフにあたえられたのだろうか。
まず最初に、メンデレーエフがこのテーマの論文を、1969年3月1日に発表したことがあれられる。最初に周期表を発見してからわずか2週間後のことである。一方のマイヤーは翌年まで論文を発表しなかった。しかし、決定的だったのは、マイヤーの結論がまだ試案的なものだったことである。彼は自分の表にある例外を――秩序からはずれた元素があること、一見入れそうなグループに入らない元素があったり、目立つ空所にうまく当てはまる元素がなかったりすることを――十分に説明できなかった。批判的な立場の者から“法則”と事実の不一致を指摘されても、マイヤーは弁明できなかった。一方のメンデレーエフは攻めて出た。あらゆる「事実」をものともせず、自分の科学的洞察を進んで援護した。
感想;
ほぼ同じ時期に周期表を発見した人がいたのは知らなかったです。
不十分でも、まずは投稿することなのでしょう。