・東京シューレで大切なことを、次の五つで説明しています。
・子どもの居場所であること
・子どものやりたいことを大切にすること
・子どもの自己決定権を軸とすること(自由)
・子ども達で創っていく場であること(自治)
・子ども一人ひとりの違いを尊重すること
・1975年から日本の不登校が急増し、顕在化し始めてちょうど10年目に東京シューレが出発したのでした。それからの20年の変化をおおざっぱにみると、三つの時期に分けられると思います。
第一段階は1970・80年代、私達が「首縄時代」と言っていますが。当時の不登校は「登校拒否」「登校拒否症」と呼ばれ、心の病気か怠け、子育ての失敗とみられ、異常視・否定視されていました。その頃の対応は、「首に縄をつけてでも登校させないと社会にに適応できない」といって強引に行かせようとし、数々の悲劇を生んでいました。
第二の「ソフト化時代」
文部省は、それまで登校拒否は問題の子どもが引き起こす、親に問題がある子どもがなるとしていた認識を1992年に転換し、「誰にでも起こる登校拒否」と位置づけし直しました。この頃、フリースクールに通う日数を学校の出席日数にするという通達が全国に出されたり、東京シューレの子どもや親が中心になって、全国の人々に協力してもらい運動した結果、フリースクールに通る時に、「実習用通学定期券」の活用が可能となりました。
このような動きとともに、登校拒否への対応がソフト化しました。学校復帰が前提ではあるけれど強引んあ登校強制はやや減少し、見守っていく路線が拡がりまぢた。維持の対策としては、適応指導教室、スクールカウンセラーの設置を全国展開し、専門機関との連携を強めるとしました。この時期にフリースクールも増えました。
第三期
2002年、文科省で「第二回不登校に関する調査研究協力者会議」が開かれる頃より、風向きが変わり、第三期に入ったと思います。
不登校が激増して、27年目に入っていましたが、文科省は「急増に歯止めのかからぬ背景には不登校容認の風潮があり、憂慮すべき事態」として会議を開催、翌年の2003年3月「学校復帰が前提であり、待っているのではなく何らかの働きかけが必要」という答申が出されたのでした。家庭訪問、電話かけ、地域のPTAや民生委員の登校催促などが増え、自治体によっては半減政策などに取り組み、登校圧力が増えました。そして保健室登校などの「別室登校」が増加するなか、2004年と2005年の文科省の学校基本調査発表では、少しだけ不登校が減少しました。
・不登校に対してとられていた方法は、「戸塚ヨットスクール」のような矯正施設に入れられたり、山村留学といって自然環境の良い地域の村の有志が、登校h¥拒否の子どもを預かり、親に変わって生活の面倒をみて、その家から学校に通わせるようにする、つまり親元にいると甘えが出るので親から離し、他人の中で飯を食い、集団生活させるようなものでした。
「心の病気」と考えられた場合には、精神科に入院させられていました。通院であっても薬漬けで、副作用からホルモン異常を起こして、男の子が女の子ような身体になってしまった例もありました。・・・
前者も後者も「なおす」という考え方です。つまり、登校拒否は「治すもの」で「訓練」や「治療」の対象でした。登校拒否は「フツー」ではなく、「異常」であり、問題のある子どもが登校拒否を起こすとされていました。
学校でのいじめや成績競争、納得いかない校則で縛られる息苦しさなど、子どもにとって傷ついたり疲れきってしまい、登校することが本人にいい結果をもたらさなくても「学校へ行って当然」「行かないのは問題の子」という考え方に、みんなで染まっていたのです。
それは本当はおあkしいことでした。本来学校は、子どものための場として税金でつくられ、子どもの学び育つ権利を社会が保証する所なのです。
・自分の子どもの登校拒否から気づく
実は私も「子どもは学校に行かなければならない」と思っていた一人でした。息子の登校拒否がなければ、私も自分自身そういうものの味方をしていることに気づかなかったでしょう。・・・
子どもは医者不信になっていました。でも「渡辺先生に逢おう」と話すと「一回なら」と言ったので、その約束で出かけました。その一回は大きな転機になり、2時間くらいふたりでそやべりという感じの面接でしたが、拒食症がなおってしまったのです。子どもは「ぼくはぼくでよかったんだね。お母さん。渡辺先生に会ってそれがわかった」と言い、その日を境に元気になりました。
・「学校外に、子どもの居場所があったらいいのではないか」という考えが湧いてきました。・・・
私は22年勤めた教師を辞め、会員のみなさんい協力してもらって、東京シューレを始めることにしました。
・思うように進まない一年目の秋
「やめた方がいいのではないか」と何回か思ったこともありました。子ども不調、親の一部の不信感、お金はない、人手不足、つらい秋でした。
経験不足からくる私の未熟さもありました。また、登校拒否への理解が今と比べて全くない時代だったため、やって来る子のほとんどが全て苦しい思いをして不安も強かったこと、子どもの居場所をどうやっていくかもわからず試行錯誤しながらであったこと、親の期待とのギャップなども重なっていました。時間割も、何度も話し合いをして、作り変えていました。
・学校に行っている子どもも来ていた東京シューレ
三年目のシューレで大きい変化は、まず、学校に行っている子が来ていた夕方から夜にかけての学習時間を無くしたことでした。・・・
どちらかというと学校へ行っている子の方はおとなしく、登校拒否をしていシューレに来たこの方が明るく元気だった印象があります。
・いじめを巡る鹿田君いじめ自殺事件のほかに、埼玉県の農家を使った施設で登校拒否の子どもが暴力を受けて亡くなりました。戸塚ヨットスクールの農家版といってもいいのですが、登校拒否をする子どもは、親から引き離し、合宿訓練で軟弱な精神を叩き直す必要があるという考えのもとで、多数の子どもが「不動塾」に預けられていました。
・登校拒否は病気?・800人による抗議の緊急集会
9月16日付、朝日新聞の一面トップに「20、30代まで尾を引く登校拒否症」「早期完治しないと無気力症に」という見出しが掲載されたのです。登校拒否を病気とみて、5千人を治療してきたという筑波大学教授、稲村博氏の考えが記事になり、専門医の治療を受けないと無気力症になるとか、30代まで尾を引くというものでした。
子ども達を見ていて少しも病気と感じないし、無気力症になるとも思えません。登校拒否は治療の対象ではないし、理解されない存在を受けとめられ、居場所があったり仲間がいたり、信頼できる大人がいることが大切だと私達は考えて来ました。すでにこの頃、シューレのOB・OGは高校や専門学校に進学していた人や働いていた人もかなりいて、彼・彼女達は専門家の治療を受けたわけではありませんでした。
・風の子学園事件・登校拒否の子どもはなぜ死んだのか
・校門圧死事件を許すな・東京シューレのビルに垂れ幕
・奄美大島・登校拒否追放事件の調査へ行く
・平成4年3月13日「登校拒否(不登校)問題について」文部省初等中等教育局発行
登校拒否となった児童・生徒本人の性格傾向などになんらかの問題があるために、登校拒否になるケースが多いと考えられがちだった。しかし、登校拒否となった児童・生徒を見てみると、必ずしも本人自身の属性的要因が決め手となっているとは言えない事例も多く、ごく普通の子どもであり、属性的には時に何ら問題も見られないケースも数多く報告されている。
・通学定期券実現に向けてのたたかい
・フリースクールに通うと学校の出席日数になる?
・日米フリースクール交流が実現
・東京シューレの大改革・NPO法人になる
・ふたつの賞・『吉川英治文化賞』と『朝日のびのび教育省』
・ひきこもりの私からあなたへ・『IRIS(イリス)』の創刊
昨年度(2022年度)の不登校の小中学生は29万9048人で過去最多。小学生10万5112人(前年度比2万3614人増)、中学生19万3936人(前年度比3万494人増)です。
どちらも10年連続の増加で、不登校の小中学生数は30万人に迫っています。小学生の不登校は10年前(平成24年度)の約5倍、中学生は約2倍に増加しました。
小中学校の不登校は前年度に引き続き2割以上も増えています。その理由としてコロナ禍が尾を引き、児童生徒の登校意欲が低いままであることが考えられます。
長期欠席の高校生は12万2771人を数えました。前年度にくらべて4千500人以上も増加し、こちらも過去最多となりました。そのうち不登校を理由とする生徒は6万575人で、前年度より9590人多くなっています。
どちらも10年連続の増加で、不登校の小中学生数は30万人に迫っています。小学生の不登校は10年前(平成24年度)の約5倍、中学生は約2倍に増加しました。
小中学校の不登校は前年度に引き続き2割以上も増えています。その理由としてコロナ禍が尾を引き、児童生徒の登校意欲が低いままであることが考えられます。
長期欠席の高校生は12万2771人を数えました。前年度にくらべて4千500人以上も増加し、こちらも過去最多となりました。そのうち不登校を理由とする生徒は6万575人で、前年度より9590人多くなっています。
いじめの認知件数は小中高校など合わせて68万1948件で前年度から1割増。このうちパソコンやスマホで中傷・いやがらせをする「ネットいじめ」は2万3920件で、いずれも過去最多です。ネットいじめの件数は、2013年度の2.7倍になっています。
感想;
知らないことが多かったです。
東京シューレは子どもたちの自主性を重んじているようです。
学校はつい、先生の言うことを聞く子どもが良い子どもと思いがちです。
子どもを一人の人格あるものと見ずに、指導すべき対象として、先生に意見する子どもを遠ざけたりする先生もいます。
『窓ぎわのトットちゃん』
お母さんが転校させなかったら、今の黒柳徹子さんはいらっしゃらなかったと思います。転校先の校長先生が、トットちゃんの話をよく聴いてくれました。
「良い師」「良い友」「良い書」 に出会えるかどうかは大きいですね。
今の社会は子どもにとっても大変な社会です。
シングルマザー、貧困層の子どもの多くは、大学に行きたくてもいけません。
奨学金はローンみたいなもので、卒業すると借金を抱え、その返済に苦労します。
虐めもあります。
虐めでの自殺があっても、学校と教育委員会は責任逃れで、自分たちの意向に沿った第三者委員会を形だけ行い、「自殺と虐めに関係があるとは認められなかった」との結論です。
子どものためというより、自分のための教育委員長、校長がおられるようです。
学校で真面目な先生が子どもたちのために活動できるように、それができる責任者がそうしないといけないのですが。
東京シューレを知りませんでした。
登校拒否の子どもたちのために活動して来られた人々がおられました。
その活動のおかげで、今しっかり人生を歩んでおられる人も多いでしょう。
子どもの傍に信頼おける大人がいて手を差し伸べてくれているかどうか。
でも、そういう大人と巡り合えずに辛い思いをしているいる人も多いかと思います。
ウイキペディアより
シューレ(英語: Shure)の語源は、「精神を自由に扱う」という意味の古代ギリシャ語から取ったとされる。
1985年 - 自身が不登校の子供を抱えていた奥地圭子が、東京都北区東十条のアパートの一室でフリースクールとして「東京シューレ」を始める。
主に不登校の子供たちの学びの場として活動しているフリースクールである。フリースクール東京シューレには、「王子シューレ」(東京シューレ王子)、「新宿シューレ」(東京シューレ新宿)、「流山シューレ」(東京シューレ流山)、)「大田シューレ」(東京シューレ大田)の4箇所のスペースと呼ばれる施設がある。
2008年現在、日本国内では最大規模の不登校の子供達のためのフリースクールで、全国にある団体のネットワークの要としての役割も担っている。
この本が発行された以降の出来事
- 2006年 - 学校法人東京シューレ学園を設立。
- 2007年 - 流山シューレが千葉県柏市柏の葉四丁目に移転し、「柏の葉シューレ」となる。
- 2007年 - 東京シューレ葛飾中学校を開校。
- 2008年 - 東京シューレ大田が閉校。
- 2015年 - 柏の葉シューレを千葉県流山市西初石に移転。「東京シューレ流山」と改称。
- 2018年 - 東京シューレ大田を改めて開設。
- 2020年 - 東京シューレ江戸川小学校を開校。
性暴力事件
1998年から2000年度に開催した宿泊型フリースクール活動で、参加した女性が成人スタッフの男から性暴力を受けた。本事件に対する損害賠償を求めた2016年の訴訟で事実を認め謝罪していたことを、2019年2月3日に朝日新聞が報じた。2019年に和解が成立した。
2021年6月12日、東京シューレの総会で、当時理事長であった奥地圭子の理事長と理事の退任が決まった。奥地氏は、性暴力事件が起きたことと、和解条項で口外禁止を求めたことなどから使用者責任を問われたという。新理事長は喜多明人早稲田大学名誉教授
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奥地氏ははマイナスイメージが拡散するのを恐れて、口外禁止を求めたのでしょう。でもそれは東京シューレの思想と違っていたことに気づくことができなくなっていたのかもしれません。
ただ、奥地氏はその時80歳なので、先駆者としての役目を終え、新しい人にこれからの東京シューレを託したかったのかもしれません。
功績を考え理事として残してあげていても良かったのでは思います。
性暴力の使用者責任なら、龍角散(社長自ら)、吉本興業、ジャニーズ事務所(ジャニー氏自ら)など。口外禁止は和解するときに多くが求めています。