もみぢばは そでにこきいれて もていでなむ あきはかぎりと みむひとのため
もみぢ葉は 袖にこき入れて もて出でなむ 秋は限りと 見む人のため
素性法師
紅葉の葉は、袖の中にこじ入れてでも持って帰ろう。秋はもう終わりと思っている人のために。
詞書には「北山に僧正遍昭と茸(たけ)狩りにまかれりけるによめる」とあります。僧正遍昭は素性法師の父親ですから、親子でキノコ狩りに出かけたのですね。秋も終わろうとする時期、そこで見つけた紅葉の葉を、もう秋が終わりで見られないと思っている人に見せるために、袖にこじ入れてでも持って帰ろうという訳です。
この歌に触れて思い起こしたいのは、同じ作者の手になる 0055 と 0056。
みてのみや ひとにかたらむ さくらばな てごとにをりて いへづとにせむ
見てのみや 人にかたらむ 桜花 手ごとに折りて 家づとにせむ
みわたせば やなぎざくらを こきまぜて みやこぞはるの にしきなりける
見わたせば 柳桜を こきまぜて 都ぞ春の 錦なりける
前者は、桜の花を枝ごと折って土産にしようという歌。後者は「こく」という印象的な言葉が共通で使われていますね。