五月五日
あやめぐさ ねながきいのち つげばこそ けふとしなれは ひとのひくらめ
あやめ草 根長き命 つげばこそ 今日としなれば 人の引くらめ
五月五日
あやめ草は根を長く伸ばして長い命を継いでいるから、あやめの節句の今日という日になれば、人々がそれにあやかって根を引くのであろう。
小松の長く伸びる根にあやかって長寿を願う「子の日(ねのび)」の行事を詠んだ歌が 003 などに見えますが、あやめ草の根を題材とした同種の願いの歌もこのあと幾度が登場します。ただこちらは貫之以外の歌人にはあまり見られない題材のようで、貫之独自の視点ということかもしれません。
車に乗れる人、賀茂に詣づ
ひともみな かづらかざして ちはやぶる かみのみあれに あふひなりけり
人もみな かづらかざして ちはやぶる 神のみあれに あふひなりけり
車に乗っている人が、賀茂神社に詣でる
今日は誰もみな鬘を髪につけて、賀茂神社のみあれの祭に詣でる日であるよ
「かづら(鬘)」は髪飾り、「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞ですね。「みあれ」は「御生」と書き、四月に賀茂祭の前祭として神霊を迎える儀式とのこと。「あふひ」は「葵」と「逢ふ日」の掛詞になっています。
山辺に、藤の花松にかかれる
ふぢのはな もとよりみずは むらさきに さけるまつとぞ おどろかれまし
藤の花 もとより見ずは むらさきに 咲ける松とぞ 驚かれまし
山辺の松に藤の花がかかっている
松に藤の花がかかっていて、その元から見なかったら松が紫の花を咲かせているのかと、驚いたことだろう。
「山辺」とありますから、遠くから見た光景なのでしょう。一見してすぐに藤とわからないので、松に紫の花が咲いたかと思って驚いてしまうという歌。最後に「まし(=反実仮想)」がついていますので、実際には根本から良く見たので藤の花とわかり、驚きはしなかったということですね。
三月花散る
かぜふけば かたもさだめず ちるはなを いづかたへゆく はるとかはみむ
風吹けば かたもさだめず 散る花を いづかたへ行く 春とかは見む
三月に花が散る
風が吹くと、方向も定めずに散って行く花を見て、一体春はどの方向に行ってしまうのだろうかと思う。
花の散る方向へ春も去って行くという発想ですね。