フォンテーヌの家  わたしのつぶやき

横浜市南区で趣味の会[フォンテーヌの家」 

コロナの流行の波が、なかなか収まらないのが残念です

2021-03-14 22:00:44 | 雑感 心にあること

暖かくて気持の良い日曜日の朝でした。
昨夜、文旦の皮でオレンジピールを作ってみたくなり夕方遅くなってから、作り始めました。

甘夏の皮で作ったオレンジピールの方が、煮溢しても苦みが大分残りますが、文旦で作ったピールにはほとんど苦みを感じません。わたしは少し苦みが残りますが味も食感も甘夏の方が好きです。

昨日、ブログにオレンジピールの写真をアップしています。何時ものことですが、オレンジピールを作る過程より出来上がった後の、片付けが大変です。時間が掛かります。昨日も片付けが終わり、ベッドに横になったのは2時近かったです。結果今朝は起きられず、7時少し前にやっと起床。寝坊しました。

 

独り生活ですし、空腹感も無いので気ままな生活ですから、何時に寝ようが起きようが全く問題の無い身です。それが良い事かどうかですが・・・。
日曜日はなるべくわたしが勝手に”洋裁の師”と思っている方を訪ねる様にしています。今日も訪ねてきました。

その方はわたしより三歳上ですし、昨年心筋梗塞で救急車で運ばれておられますので、週に一回、日曜日しかお目にかかれませんので、毎日曜日に訪問するようにしています。わたしの母も夫も、夜寝るまでは元気でした。まさか、朝目覚め無いとは思いませんでした。

その経験から、機会が有ればお目にかかるようにしています。ほのぼの編集長も膵臓癌と言われてから5年目です。医師から緩和の病院を探すように言われたそうです。彼女もいつ何時異変が起きるか分からない方です。

編集長には電話をしても良いかどうかを伺い、許可を頂きました。20年間かなり密なお付き合いをしてきましたから、別れは寂しいです。

わたし自身、もう良い年になりましたから何時命が無くなるかはわかりません。ウクレレ愛好会の指導者はわたしの小・中学校の同級生です。彼も肺癌の手術をしています。そしてリンパに転移しているそうです。子供の頃、お昼休みによく遊んだ仲間の一人です。辛いです。

コロナの流行で逢うことも儘になりません。彼も電話で言っていましたが、これが残念です。残された時間を有意義に使いたいです。

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わたしにとっての”3月11日”と言う日は・・・。

2021-03-11 22:59:09 | 雑感 心にあること

3月11日。この日は絶対忘れられない日です。
10年前の東北地方の大地震の日、という事もですが、わたし個人としても忘れられない日です。

”忘れられない日”と言う理由の一つ。今日は初孫が生まれた日です。たった一人の孫娘です。今日で孫娘は26歳になりました。彼女は看護師になり、病院で元気に働いています。彼女とは仕事柄もあるのですが、コロナの流行で会えるチャンスが少なくなり、寂しいです。

”忘れられない日”と言うもう一つの理由。母の通夜でした。6日に富士宮で急逝。わたしは母に毎日に朝、昼、晩の3回電話をしていました。たまたま10年前の今日は、琵琶湖マラソンの日でした。マラソンや駅伝が大好きな母が寝ている訳ありません。マラソン中継を見ないはずありません。

翌日の7日に、母の遺体を大森の自宅に連れて来ました。お通夜までの4日間、母はベッドでは無く座敷に布団を敷いて寝ていました。
11日の午後、母を迎えに葬儀社がやって来ると言うので、お昼前に実家に移動していました。

実家は10階建てのビルの10階でしたから、その揺れは経験したことも無い物でした。地震の時に揺れる様に建てたそうですが、建物が倒壊するのデハ?と思ったほどです。食器棚から食器やグラスなどが床に落ち、粉々に割れガラス片が飛び散り危険でしたので、掃除機を掛けていました。

通夜式が終わってから葬儀場の控室でテレビで凄まじい光景を見て、言葉が有りませんでした。

余震がありましたし、10階では怖くて寝られないと言う姪たちとその子供たち全員、葬儀場に泊まることになりました。わたしは妹が彼女の家に泊まるよう声を掛けてくれましたので、妹の家に泊まりました。実家から近いことも有り泊まるのは初めてでした。

この所の新聞やテレビは3月11日の報道ばかりです。被災地の痛ましい様子を見ながら涙しながら、母を想い出してます。我儘な母でしたからわたし的には大変でしたが、憎めない母でした。

時々、コロナ下の今、母が居ましたら大変だったのでは?と時々思います。
富士宮と横浜の往復も、運転を辞めたわたしにはもう出来ません。わたしには永久的に、3月11日は重たい日になるのでしょうね。

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昨日の疲れが有ったからでしょうか、陽ざしを受けながら物思いにふけって居ました。

2021-02-06 21:08:00 | 雑感 心にあること

今朝強い陽ざしが食堂に差し込んでいましたので、水撒きを優先した方が良いと判断し、それから朝食に。陽ざしを背に受けるように陣取り座りますと、暖房は不要なほど暖かかったです。

テーブルの上には常時メモ用紙を置き、食べた物を記録しています。独り生活ですから好きな物とか、あり合わせの物を食べてしまいそうなので、そこに不足している栄養素を含んだ料理を加える様に心がけています。

 

生きている間は楽しく過ごし、病んで寝込む時間を少しでも短くしたい。これがわたしの心情です。今の医学では、動けなくなった時、それが病人の気持ちに反しても”生き続ける”ような治療をするのが普通です。病人の苦しみ、看病する家族の思いより、病人の生命維持を重要視してます。

動けなくなり”胃ろう”、”キセツ”をした状態でベッドに横たわる自分にはなりたく無いです。それが根底に有りますので娘たちには”延命”を却下して欲しいと伝えています。わたしも傘寿になりました。高校時代からずっと自身の体調管理続けています。食べたもの、体重は以前からチェックしていましたが、この頃は歩いた歩数などもチェックしています。

 

夫が脱サラして手作りパンとケーキの店”フォンテーヌ”の営業をしていた頃は、自分の事よりお店の仕事を優先にしていました。当時の事を時々思い出すことが有りますが、”良くあそこまで頑張れた”と自画自賛しています。”これ以上出来ない”ぎりぎりの状態で、思いっきり頑張っていました。

その大変な時期を経過しての今のわたしです。自由に使えるわたしの時間を楽しみながら大切にしたいです。

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もう少し前でしたら、喜んで一緒に調べ廻ったでしょうけど・・・。

2021-01-23 22:16:58 | 雑感 心にあること

かれこれ10年以上前のことですが、”三浦半島を1年かけて歩こう”という会に参加して歩きました。まだわたしは60歳台だっだような気がしています。歩いているうちに何人かの方と親しくなりました。   

散策が終わり解散した後、お茶をしようとか、夕食を食べて行こうというお誘いを頂くようになりました。何時もお世話をして下さる女性が居られ、彼女が自然に幹事役をなさってくださり、今でも集まっています。

今日、当時一緒に歩いていたお一人から、三浦半島を色々調べまとめた文章が送られてきました。

当時、わたしは60台後半でしたので、三浦半島の歴史などを勉強しながら歩きたい、と思っていました。そんな風に思って居られる方が居られるのデハ?と多少期待して参加しました。でも歩きながら楽しみことが目的で、その様なことを勉強したいと言う気持ちは無かったようです。当時のわたしは、それがとても残念でした。

今日送られてきました資料を少し読みました。わたしが調べたかったようなことが書かれていました。当時は独りで本を読み多少調べて歩いていましたが、”まとめてみよう”と言う強い希望が自然に無くなりました。

それから10年以上経ち、80歳になって、小さな文字も老眼をしていても読み難くなりましたので、送られてきた文章を読むのも大変です。それに亡くなった母親のウールの着物を何かに縫い直すことをわたしの終活にしたいと思っています。今はもう三浦半島の歴史や地層を調べて歩くだけのエネルギーが無いような気がします。

でも、送られてきた原稿には興味あります。でも、この頃理解力が極端に悪くなっているので理解できないかも・・・。それが心配です。                                                

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”ほのぼの”メンバー”の食事会でした。懐かしく、楽しい時間でした。

2021-01-21 18:50:30 | 雑感 心にあること

今日は、季刊誌”ほのぼの”編集メンバーのランチの日でした。平成31年1月に最終号になりました76号を発行して、編集会は解散しました。それまで19年間少なくとも月に2回は集まっていましたし、発行間際には4,5回集まりました。

解散しても偶には会いましょう、逢いたい、という事で、発行月にランチをしています。編集会が我が家の食堂でしたので、ランチも我が家の食堂で店屋物を注文することにしました。

発行している最中は、何となくわたしが調理をした物を食べて頂いていましたが、食べることが目的の集まりですので、わたしの料理では役不足ですし、わたしも80歳になりました。無理は禁物です。

編集員の方が難病の御主人をご自宅で看護されていますので、自宅からあまり離れられないと言います。結果、編集会をしていました我が家の食堂になりました。

今日は3人が欠席でしたので、残りの3人とわたしの長女も仲間に入れて頂き4人で会食。わたしが料理をして居ましたら、メンバーも急用が有ってもドタキャンを言いにくいでしょうし、そうなったらわたしも困ります。

そんなことも有って、近所の釜めしの店「釜寅」さんに電話注文して配達をお願いをすることにしました。食事が届くまでコーヒーを飲みながら、のんびりお喋りタイムを楽しみます。

 

編集長は20年間、80号を出してから止めたかったようです。誰もがそれを望んでいたはずですが、20年の経過は編集員には大きかったのです。

それに、治療を初めて5年目のように記憶していますが、編集長は膵臓がんを患っています。頑張り屋さんの編集長ですので、どうしても無理をなさいます。そんなことも有り、19年の継続で止めることを主張しました。

後継者を募った所、「時給は?」と聞かれ言葉が無かったです。紙代や印刷代などは、数少ない広告料と定期購読者から送料として500円頂いていました。ご近所の方はポストインをして居ましたから、それも資金源になっていました。

ほぼ毎回、編集会の後、編集長一人が残りパソコンの打ち込み作業をしていました。編集長は何時も午後の予定がある方ですので、わたしは台所で編集長とわたしの昼食の準備をして居ました。

パソコンの入力が終わったところで、一緒にお昼を頂きました。後半、編集長はインスリンを使っていましたから、食材には気を付けていました。次の用事の前にさっと食べられる物、というとどうしても炭水化物がメインになりますので、少しでも応援したかったのです。

皆自宅に帰られ、わたし独りになってから、当時の諸々を想い出し懐かしんでいました。良い一日になりました。感謝です。

 

次回は4月発行の春号ですから、次回のランチ会は4月8日に決定。メンバー全員、その時までお元気で…、と願っています。

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パソコンとプリンターの両方を使いこなせるようになりたい・・・

2020-12-16 23:02:34 | 雑感 心にあること

今朝、急に掃除機を掛けたくなってしまい、朝食を食べる時間が有りませんでした。ほのぼの編集長が11時ころにはやって来られるはず。すぐ昼食です。何時ものことですが空腹感を感じませんから、朝食無しでも苦にはなりませんでした。

ゆっくり時間を楽しみ、お帰りになる編集長を見送ってからずっと以前手に入れた篠焼の急須で、抹茶入りの玄米茶を入れて飲んで居ました。食堂から庭を眺めていますと、風が吹いているようでハラハラ藤の葉が舞い落ちてきていました。デッキの上の落ち葉は先ほど掃いたばかりですが、もうかなり落ちています。

今日の予定は、ほのぼの編集長と久しぶりに我が家で食事をすることだけでした。この所以前にような浮腫みが出てきていますし、時々日中眠気に襲われます。肝臓が疲れ、腎臓も疲れている証拠です。こんな風にぼんやりしている時間を過ごすのは珍しく、わたしには貴重です。

 

昼食の片付けをして、一先ずパソコンで年賀状を何とか作りましたが、色調節が不満です。8.1でしたら問題なく調整できたのに…。来年、パソコン教室が始まったら教えて頂こうと思ったのですが、プリンターが無ければ教えて頂けない、と気が付きました。残念。やっぱり自分でクリアし無いとダメなのでしょうか・・・。

だけど歳と共に説明書を読むだけでは、なかなか理解できなくなってます。なんとか、来年はプリンターを使いこなせるようになりたいです。

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歳をとるのは良いのですが、娘たちのためにも認知にはならないように、と願っています

2020-12-15 20:34:07 | 雑感 心にあること

今朝、いつもより早く4時前に目覚めたけれど起き上がらず、ラジオを聴きながらその良い時間を楽しんでいました。少しでも明るくなったら起きるつもりで聴いていました。

それまではベッドに居ようと思っていました。今日は全く予定が無いので焦ることも無くのんびりラジオを聴いて居られたのです。こんなに早い時間からベッドに横になったまま、ラジオを聴いて居られる贅沢感を満喫していました。

6時過ぎに起き上がり食堂へ。パソコンcheckをしてから浴室へ直行。浴室にもラジオを置いていますので放送の続きを聴きながらです。以前はNHKがメインでしたが、フォンテーヌの営業を始めてから日本放送を聴くように為りました。夕食時にラジオで聞いた話をすることが多かったので、夫との会話のためにわたしも日本放送を聴くようになりました。

忙しい時間、ニュースや事件などほとんどラジオで聞いて居ました。フォンテーヌを辞めてからも午前中家事仕事をしながら、日本放送を聴いています。時計を見なくても時間が解りますからとても便利です。

 

今日は縫い物もせず、プリンターとパソコンにジャレテいました。最近思考力が低下し、説明書だけでは理解できない事が多くなっていますので、このような一日は久しぶりです。少しでも脳に刺激を与えられたら嬉しいです。この症状は同級生の女性たちも”同じ、同じ”と言いますのでホッとしていますが…。彼女たちのその言葉が嬉しかったです。

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今まで出来て居たことが出来なく為っている事に、悩んでます…。

2018-05-13 20:06:05 | 雑感 心にあること
朝の内はお日様が出ていましたが、予報通り午後には雨が降り出しました。
明日が雨降りとの予報を聞き、急にベッドのシーツを外して洗濯機に入れてしまいました。
今日は家事よりも、葉書や封書を頂いた友人たちに返事を書かないと…、と思っていたのですが。

この頃は、携帯電話やパソコン・メールでの連絡が多いので、手紙や葉書を余り書かなくなり、
”手紙を書くこと”が何か”特別の仕事”と言うイメージが強くなって来ています。
葉書や手紙を頂くと、とても嬉しいのに、わたしからの発信がこの頃少なくなって来てます。反省です。

以前は、恩師には定期的にお便りを書いていました。それも毛筆の便りが通常でしたが、
この頃では、毛筆ではなく万年筆になり、更に失礼を承知しながら電話で済ませる事も有ります。
”だんだん横着になっている”と承知しながら、筆を持つのが億劫になっています。


19年目に入った「ほのぼの編集」や18年目になる「読書会」も、この頃一寸、重荷になって来ています。
”飽きた”とか”嫌になった”と言う感情ではないのですが…。
多分、時間が足らなくなってきているのでは?と、この頃気づきました。


歳のせいでしょうか、今までと同じスピードで、物事の処理が出来なくなってきて、
要領も悪くなり、あげく疲れ易く、休憩タイムをとりながら、仕事を続けるようになって居ます。
怠け者になって仕舞ったのかしら?と悩んだりもしますが、”歳のせい”と思うことで処理をしています。

今までと同じ事を続けるには、それなりの体力が必要ですが、フラフラ感が酷いので動きは悪く、
どうしても、タイムオーバーになって仕舞います。

出掛ける用事を最小限にしたくて、買い物には行かず生協の宅配で済ませていますが、
友人たちからのお誘いや、娘や娘家族の誘いなどは、それを優先にしています。
更にこの頃は、医院の他に治療所のお世話にもなる事が増えて居りますが、これも省略出来ません。

結果、家での集まりを減らすしかないのかも…、と思う様になって来ています。
不本意でも、その様にしてわたしの時間を増やすしかないのかも…。
何か良い策は無いか、この所思案しています。
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友人の一言から、わたしの原点を思い出せました。

2016-01-19 21:19:48 | 雑感 心にあること
1月19日 火曜日 晴れ

昨日と打って変わって快晴。お日様一杯の一日でした。
お日様につられて、今日は大々的にお掃除をしてしまいました。
でも、割に身体が軽く思ったより仕事ははかどり、11時には昼食兼の食事が出来ました。

お掃除をしながら、昨夜友人から言われた言葉が気になり、何となく考えていました。
友人は「なんで人を家に招いて食事をしたり、お茶をしたりするの?」と言われたのです。
何ででしょうね…、と言うだけで、何も言えませんでした。結婚した頃からずっとそうでした。

ぼんやり何となく考えながらお掃除をしていましたら、気がついたのです。
それは収入が少なく、お金が無かったからだったのです。思い出しました。
結婚した当時、社宅の1階の1号室でした。5階の独身寮の人たちが飲みに来ていました。

会社の人から飲みに誘われても、お小遣いが少なかったので、あるじが困っていました。
当時、新婚家庭の1ヶ月の食費の予算は7千円でしたから、生活費からの出費は無理でした。
それで、家に招いて飲み会をしたら?と提案しましたら、あるじは喜びました。
わたしは家計に負担がかからないような料理を作るように、工夫をしました。

それに、大学時代のメンバーが、出張で上京して来られた時は、我が家を宿にしていました。
友人は、事前に我が家に泊まる事を仲間に知らせ、多いときは10人位集まったものです。
仲間の時はお寿司を注文してメンバーに支払いをお願いして、お酒の肴はわたしが作りました。

いろいろ工夫をして、材料費にお金を掛けないようにしました。
その頃の料理の工夫が、今のわたしにはとても役に立っています。
食材をどの様に使うか工夫次第。それがとても新鮮でした。
当たり前ですが、予算内で生活をする、をモットーにしていました。綱渡りの毎日でした。

わたしは、ゲーム感覚でした。家計費が少なくても生活を楽しんでいました。
ちゃんとしたお料理は出来ませんが、今でもいろいろ実験料理を作って楽しんでます。
あの頃、充分お金が有ったら、多分あるじは友人たちを家に招かず、外で飲んで居たでしょう。
そして、わたしは工夫をしたお料理も実験料理も作らず、その楽しさを知らず仕舞いに…。

友人の一言で、昔々の懐かしい事を思い出しました。わたしの原点を思い出しました。
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ほのぼの編集長 風邪でダウン!

2014-11-25 16:42:59 | 雑感 心にあること
11月25日 火曜日 雨

冷たい雨が一日中降っていて、気持ちが重たくなりそうな一日。
予定としては9時からほのぼの編集会だったのに、8時前に編集長から電話がある。
風邪をひいて起き上がることも出来ないとのこと。編集会は中止にする。
編集長の事も有るけど、無理をすることは無いと判断してのこと。

編集長はいつも大きな袋を持ち歩き、沢山の予定をきちんと消化なさる元気な方と思って居た。
前回の編集会の時も、欠席者は2人だった。総勢5人のメンバーなので、2人欠席は大きい…。
このまま、今のメンバーだけならば、いつ頃どの様にお終いにするかを考える時期に来ていると思う。
今、60号を編集しているので15年経過したことになる。それだけ編集員も歳をとったと言うことになる。

以前、メンバーを募るような事を書いた時、応募した方から、時給はいくらですか?と質問され絶句…。
ミニコミ誌「ほのぼの」は販売していない上に、何の機関にも所属していないので財源が無い。
南区の生涯学習から立ち上がったので、計画書を提出し手続きをすれば、多少の支援はあると聞くが、
そうすると、決算報告作りやその他何かと制約があると聞き、兼業主婦5人で発足し現在に到っている。

昨年までは、何気なく出来ていたことが段々それが苦痛になっているのが、現状。
編集員は、仕事を持っていたり町内のお世話役だったり、ボランティアでケアプラザに行ったり、
わたし以外は忙しくして居られる方ばかり…。
忙しく無いわたしですら、家の事、お庭の事などを、一人で管理していくだけでアゴを出している。

それでシルバーの方たちにお願いして、庭や家の中の大工さん仕事などをして頂いている。
情けないけれど、今の生活を続けていくだけで、わたしには荷が重くなっている。それが現状…。
ほのぼの の事だけで無く、身辺整理をする時期に来ているように思う。
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「予定」と「家計簿」の コラボ手帳

2014-11-07 20:39:04 | 雑感 心にあること
11月7日 金曜日 晴れ

昨日、部屋に掃除機を掛けていたので今日は省略。
ベッド周りの物を全部外して洗濯してから、所用もありカレンダーも買いたいので出かける。
少しずつ来年の予定が入ってきているので、新しいカレンダーが欲しい。
この頃、物忘れが酷いのできちんと記入をしておかないと、みんな忘れてしまいそうで…。

カレンダーを選んでから、何となく来年の手帳を物色する。
この頃、手帳を持って出かけるような事が少ないので、買おうかどうしようか迷っていたら、
家計簿と手帳が一緒になった物を見つけた。

今年の手帳と来年の手帳 

パソコンで家計簿をつけているけれど、エクセルを達者に操れないので、全く不完全のまま。
大福帳のような物で、銀行帳やカードなどとの関連性を繋げられないでいる。
パソコンでそれを関連させる力が無いので、紙を使ってまとめるしか無い、そう思っていた。

手帳と家計簿が一冊になっていれば、一年間の生活記録が出来るのでは、とも思う。
まずは、手帳に毎日の記録を残し、パソコンでの家計簿の数字を拾って書き写せば良い…。

こんなことするのも、独りで所在ない時間を過ごすより良いのでは?と言うのが起因。
今更、そんな物を作って何になる……、と言う気持ちが無いわけでは無い。
歳とともに、疲れることも有り行動範囲が狭くなるばかり。家で出来ることを探すしか無い。
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健康を 第一とする 婆心

2013-07-26 18:02:47 | 雑感 心にあること
7月26日 金曜日 曇りのち晴れ

16年前の今日、子供の頃のピアノ教師のリサイタルで受付を仰せつかっていた
その日の朝、3番目の孫が誕生。
この春、希望通りの高校に合格できた孫婿は、学園生活を満喫している
娘や本人の言葉の端々から幸せ感一杯さが伝わってきて、その幸せを共有させて貰っている。

嬉しい、本当に嬉しい。
そのような幸せを感じずに高校時代を過ごして来た、ずっと昔の事がよみがえるこの頃。
どうぞ、身体を壊させないように、健康で居られますように、と密かに祈る。
半世紀以上昔の事になるが、合格した喜びは5月始めに無残にも壊されてしまっている。

中学時代、ツベルクリン検査で陽転反応が見られず、ずっとBCGを続けて居たのが、
なんと高校に入って直ぐの検査で陽転反応が出、それも驚く程面積も広く盛り上がっていた。
初めての陽転反応に喜んでいたのだが、それがとんでもない事に。

保健室の先生の引率でレントゲンを撮りに行った事も忘れた頃、
保健室から呼び出しがあり、担任の教師と一緒に保健室へ。
そこで、両肺に影が4つあり、血沈の数値が大きすぎる、と聞かさた。
更に「あなたの身体ではこの学校は無理です。転校して下さい」との言葉に愕然。

担任の教師は、「どうする?私立なら何処でも内申書を書けるよ」と言って下さった。
瞬間、言葉が出ない。でも引っ越しでの転校ならともかく、体調での転校に拒否反応が。
転校はしたくない事、落第しない程度の勉強だけにする事を担任に申し入れをしたところ、
担任はそれを認めて下さり、何とか退学せずに卒業を。

ただ、3年間、体育は常に見学、夏休みの海での夏期学校にも行かれず、
夜汽車での修学旅行にも連れて行って貰えなかった。
今孫の楽しげな生活と比べると、なんと寂しい高校生活を、と思う。

でも、保健室の一件は友人にも話さず、何時も元気そうにして、
「顔色が悪い」と言われたりする事は有っても、差し障りない生活を続けた。
最近になって、クラスメイトに当時の体調の事を話す事が有ったのだが、
その反応は「元気な女子だった」の言う印象だったよう。嬉しかった。

でも、その他にも支障が出て来て、悩んだことを想い出す。
理系希望だったが文系の学校にしか、内申書は書けないと担任に言われ、為す術なし。

如何に健康が大事か、身をもって娘や孫に伝えたい。
それを理解し、健康に邪魔されることなく目標に向かって貰いたい。
そして幸せになって貰いたい。それが娘や孫への最大の願いごと。
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大人になっても仲の良い兄弟で居て欲しいです。

2013-02-19 18:43:20 | 雑感 心にあること
2月19日 火曜日 雪

一日中冷たいお天気で、ずっと雪が降っていました。
先月のように大量に降ったわけではありませんから、積もることは無いでしょうが滑るかもしれませんね。
弘前の友人達には笑われそうですが、雪景色です。







明日は読書会ですので図書館まで本をお借りしに行くのですが、眼科の予約が3時半でしたので、
眼科が終わってから図書館に廻るつもりでした。
でも雪が積もりますとタクシーが上がれなくなりますので、早めに図書館だけ行って来ました。

何となくじっくり本を読むことも出来ず、その代わり頭の中は勝手に動いていました。
まず、孫息子の第一志望の合格です。涙が出そうなほど嬉しかったです。
あるじが居ましたら、絶対乾杯をしたでしょうし、もしかしたら娘達を誘って夕食に行ったかもしれません。

発表の日、娘から「合格した」の第一報が入りました。
瞬間は単純に「良かった」と思いましたが、暫くして2歳下の孫息子のことが気になり始めました。
兄は受験した学校の入試に全部合格したのです。それもかなりレベルの高いところばかりです。
2年後、自分も兄のように出来るか、しなくてはいけないのか等々、プレッシャーを感じると思うのです。

特に一流校を軒並み合格してしたのです。卓球部に所属しながら生徒会もして居ました。
学習塾に行き始めたのは、3年生の夏休みからですから、素晴らしい事です。快挙です。
でも先を歩く兄も大変だったでしょうが、兄の背中を追いかける弟のこれからは大変です。

それだけに、兄はなるべく弟にプレッシャーを掛けないような言動をして欲しい、そう思うのです。
何気ない言葉やそぶりが無意識に人を傷つけることを、わたしは体験して居ます。
人それぞれで傷付く言葉は違うと思いますが、わたしはあるじが亡くなったときそれを痛感しました。

あるじと最後の別れをした方から「君の様に死なせて欲しいと頼んだよ」とわたしに言うのです。
あるじの急逝でショックを感じていましたから、辛い言葉でした。聴きたくない言葉でした。
長年介護をしている方は、あるじが優しい人だからわたしに世話を掛けないで済むように早く逝った、とも。
わたしは言葉を失うほど強烈な衝撃を受けましたが、それはわたしを慰める為の言葉だったのです。

わたしのことはともかく、これから受験やその他色々難関が控えている子供には、
無用なプレッシャーはない方が良いと思ってます。まして兄弟の間にはないほうが良いです。
その方が、大人になってから仲の良い兄弟の付き合いが出来るような気がするのです。

「兄弟は他人の始まり」と言われますがそうならないように、何時までも仲の良い兄弟で居て欲しいです。
わたしの様な歳になりますと、兄弟の大切を痛感しますがそれは今の彼らには理解出来ない事でしょうね。
兄弟仲良く、揃って元気に前を向いて生きて欲しいです。
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和式生活の良さを実感

2013-02-08 20:35:16 | 雑感 心にあること
2月8日 金曜日 晴れ

お日さまが出て居ましたが、冷たい北風が吹く寒い一日でした。
今日も掃除機は掛けずに部屋の片づけと拭き掃除だけで、その他は手を抜き、
第2金曜日は新聞紙の回収日ですので、紙紐で束ねて門の外に出してお終いにしました。

新聞紙を束ねるのも、門の所まで束ねた新聞紙を持って階段を下りるのも大変な作業でした。
今朝起きてからどうしたのか、ずっと両腕が痛くて着替えにも不自由だったのです。
一昨日の戸棚の整理が原因だと気がつきました。

棚板の位置を変えた時に持ち上げるのが大変で、かなり何時も使わない筋肉を使っていました。
歳と共に筋肉疲労は翌日か翌々日に自覚症状が出てくるようで、新聞紙の束ね作業には往生しました。

腕の痛みがありますが、痛いからと言って使わなければ年齢的に動きが悪くなるだけですから、
今日のこの寒さでしたので、頑張って着物を着ることにしました。

着物を羽織る時も腰紐を結ぶ時も、腕を回しますから自然にリハビリーになります。
襟元をきちんとするために腕を上げたり下げたり、背中の方がきちんとなって居るかどうかチェック。
その時は両手は最中の方に回さないとチェックは出来ません。

更に帯を締めます。細帯ですと楽なのですが名古屋帯を締める事にしました。
帯を結ぶためには、結構両腕のリハビリーに良い動作が続くのです。当然痛みには厳しかったです。
この寒さですから着物の方が暖かいですし、疲れ気味の時は着物を着ていた方がしゃっきりします。

着物を着てきちんと帯を締めますと、背中を丸くする姿勢は出来ません。
椅子に座るときも背筋が伸びていますし、床に座るときは正座が一番楽なのです。
椅子を使う生活になってから、あるじは胡座をかけなくなって居ました。股関節が開かなくなったのです。

着物を日常的に着ること、畳の生活をすること(椅子を使わないこと)、和式のトイレを使うことなど、
日本の生活様式は結構身体に良いことが多いのでは・・・と思って居ます。
和式のトイレを使うことで、一日に何度かしっかり屈伸運動をせざるを得ないのです。
歳を取ったり腰を痛めたり膝を痛めた人はともかく、そうで無ければ意外と和式トイレは良いはずです。

右目の下にも痙攣が出て、皮膚が気持ちが悪いほどピクピク動きます。背中も痛いし、体重も増加気味。
腕のマッサージをしながらお風呂に入って今夜は早めに寝るようにします。
早くすっきりした気分になりたいです。
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吉田兼好の人となり

2010-05-10 22:02:13 | 雑感 心にあること
5月10日 月曜日 薄日模様

朝から快晴では有りませんでしたが、曇天と言うほどでもなく過ごしやすかったです。
徒然草の講座の日でした。
徒然草では見られない兼好の人間模様を見つけようと言う趣旨の講座になってきています。
兼好法師集という、兼好の自選で作られた私家集を基準にしての講義になってきています。

その私家集に
「あはれなる 夢を見てうちおどろきたるに かたるべき人もなければ」という詞書きの後に
  ○ さめぬれど かたるともなき あか月の 夢の涙に 袖はぬれつつ
  ○ 見ずもあらで 夢の枕に別れつる 霊(たま)のゆくへは 涙ちりけり
と言う2首が並んで書かれているのです。

友人が亡くなって独り淋しい様を詠んでいます。
この気持ちは、今のわたしと全く同じ状況だと思いました。
詠んでいて胸が痛くなるほど良く解ってしまうのです。解ってしまう事自体、辛いです。

この1ヶ月の内に、友人のご主人が亡くなり、先輩の息子さんが亡くなりました。
その訃報を知ったその瞬間、その驚きと悲しみをどのようにして消化したらよいのか、参りました。

娘たちに電話をして涙して話しても彼女たちも困るでしょうし、
更に彼女たちにはわたしの本当の悲しみが理解出来ないと思うのです。
あるじがいてくれましたら、わたしの悲しみや辛さを即理解してくれたでしょう。

独り住まいの最大の辛さは此処にあります。近くにいる者のみ理解できることが有るのです。
それに年齢も関係してくるのでしょうね。娘とでは世代が違い過ぎます。

あるじはわたしの大半の友人を見知っていました。
会った事がない方でも、お名前だけは知っていました。わたしが話していましたから。
特に古い友人でしたら、尚のこと全員知っていました。

ずっと以前、前日にお見舞いに伺い、冗談を言っていました友人が
亡くなったとの連絡をいただいた時の事です。
「今夜なら会えるが明日からは葬儀社へ預ける」との奥様の言葉でした。

直ぐ会いに伺わせて戴きたい旨をお願いしましたら、あるじが連れていってくれたのです。
わたしの精神的ショック状態が、心配だったようです。あるじも何度か彼にあっていました。
ゴルフの上手な人で、彼にアドバイスをしていただいたこともあったと言う事でした。

辛い気持ち、淋しい気持ちを直ぐ話してそして理解してくれる人が、側にいない事の寂しさ。
嬉しい事、感激した事など、一緒に感じられる人が側にいない事の寂しさ。
これらに絶えなくてはならない、これが独りで生きる事の最大の難関だと思っています。

兼好の私家集に収められているこの2首の和歌は、兼好はわたしと同じ、独りの寂しさを詠んでます。
徒然草からは兼好の弱い心、淋しいさを訴えるようなそのような気配は微塵も感じられませんでした。
何となく兼好という人が妙な表現ですが「普通の人間」と思えるようになりました。
コメント
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